不毛な抵抗3
「総督府の騎馬隊が接近中。およそ五十騎」
「もう来たか」
インゴルシュタットを出てから、まだ200mを進んだかと言うところだ。難民と化した市民を護衛しているので、どうしても歩みは遅い。
「歩兵はこのまま市民を護衛して先を急げ。できるだけ急がせろ。総指揮はゴットフリートに預ける」
「団長は?」
「接近する騎馬隊に備える。できれば戦闘は避けたいが、相手の出方次第だな」
避難する市民を護衛している姿をこれ見よがしに見せつければ、戦闘は避けられるかもしれない。
だがそれは、敵が構わずに攻撃を始めた場合の危険が大きすぎる。何と言っても、ゲオルク軍は未だ、彼らの敵なのだ。
五十騎ならば、本隊に先行した先鋒だろう。無理な戦いはしないはずだ。その間に距離を離せば、向こうもインゴルシュタットを放置してこちらに向かってはこないはずだ。
斥候が逐一敵の動きを報告してくる。真っ直ぐこちらに向かっている。すでに捕捉されているようだ。
市内の軍勢を救援する前に、不安要素を排除するつもりだろう。あるいは、蹴散らした軍勢の兵が、ゲオルク軍が市内の蜂起に呼応したと報告したのかもしれない。そう思われても仕方のない所だ。
ぶつかり合いは避けられない。ただ、本気でやる必要はない。時を稼げばそれで良い。兵力も、こちらの方が二十騎は多い。問題は無いはずだ。
敵が視認できる距離に近づいてきた。報告通り、五十騎。総督府の旗を掲げている以外は、特に変わったところは無い。
ただ、なかなかに精強な騎馬隊と見た。総督府にも、こんな軍勢がいたのか。
敵は、ゲオルク軍に向かって直進してくる。駆けながら、陣形を組んでいる。間違いなく、正面からぶつかるつもりだ。
受けるべきか、いなすべきか。受ける、と決めた。
「女?」
先頭を駆けている将が、女だと分かった。それも驚いたが、それ以上に、その武芸に驚いた。ぶつかった兵を、瞬時に斬りおとしている。
ぶつかり合いは、おや、と思うほどの力があった。昌国君や、イエーガー軍といった規格外には到底及ばない。それでも、精鋭と言える実力を備えている。
互いに駆け抜けた。互角だろう。互角という事は、数に勝るゲオルク軍の負けという事だ。ただそれは、戦の勝敗とは別の勝ち負けだ。
反転した。敵も反転し、真っ直ぐ突き進んでくる。ゲオルクも、真っ直ぐ進んだ。もう一度、正面からぶつかり合う事になる。それで良い。二度目は、様々な事を測れる。
再びのぶつかり合い。ゲオルクは、女騎士と一太刀だけ渡り合った。刃の起こす風が、ゲオルクの首を断ち切る。そう錯覚するほどの、鋭い太刀筋だった。
ぶつかり合いは、やはり互角である。あの女騎士の、個人的な武勇で成り立っている部隊だろう。兵一人一人の武芸は精強だが、部隊としての機動は凡庸だ。
馳せ違った敵が、すぐに反転してこちらの尻を捉えた。正面からのぶつかり合いばかりをいつまでも繰り返すほど、無策でもないらしい。
あるいは、正面突撃だけを試み続ける方が、手強いかもしれない。一つの手段以外の全てを捨てると言うのは、ある精強さがある。
ゲオルクは逃げた。馬を疾駆させ、引き離す。僅かに引き離したところで反転し、ぶつかり合った。
今度はこちらが押した。同じ正面からのぶつかり合いでも、逃げる相手を背後から狙っていたのと、初めから正面対決のつもりでは、心構えが違う。相手は、不意を突かれただろう。
敵が自信を持つ正面対決で、敵に痛撃を与えた。自信を打ち砕かれて、弱腰になるか、それとも逆上するか。
どちらにせよ、心を乱せばそれが付け入る隙になる。
敵が反転する。今度は、ゲオルク軍の真後ろに就くのではない。少し横に移動している。側面を狙う気か。それとも距離を取って仕切り直す気か。
どちらでもなかった。敵が、戦場を離れていく。インゴルシュタットの方へ向かっている。
ゲオルク軍を、当面の敵ではないと判断したのか。あるいは、追撃を誘うつもりもあったのかもしれない。
どちらにせよ、敵が離脱したなら、ゲオルク軍も交戦する理由は無かった。
「戻るぞ。本隊に合流する」
体が熱かった。いや、これは心の熱さか。戦場でのやり取りに、どうしようもなく心を熱くしてしまう、武人の性か。
「団長。あれが、コンスタンツェ・ワーグナーでしょう」
「『騎士殺し』か」
女だてらに男勝りの武勇を誇る、名の知れた武人だ。あくまで個人の武芸に拠り、大軍を指揮する将ではないため、情勢や戦役全体に対して与えた影響は無いに等しい。
だが個人の戦果で言えば、ユウキ合戦以来最も多くの騎士を討ち取った個人と言われている。その数は少なくとも、二十人以上に及ぶと言う。
あのまま戦い続けていれば、危うかったのかもしれない。同時に、徹底的に戦えなかった事を、惜しいという気もした。
砦まで無事に帰ってきた。もう少しで、百日間も留守にするところだったので、留守居の者がいても、埃を被り始めていた。
ゲオルク軍に着いてきた市民は、結局五千人ほどがこの地域までやって来た。それに対して、ゲオルク軍がしてやれる事は、何も無い。
移住するにしても、元の住民との軋轢などは避けられないだろう。巡邏と、治安の維持だけはしっかりやる。できる事と言えば、それだけだ。
ゲオルクは、最低限の仕事をこなし、後は一人でいる事が多くなった。
何もしたくはなかった。ゲオルク軍の将来的な経済基盤はどうするか。着いてきた市民達を放置したままで良いのか。考えるべき事は山ほどあるはずだが、何もしたくなかった。
元々自分には、世をどうしたいという思いは無かった。漠然と、誰もが幸福であればいいという、毒にも薬にもならない思いがあっただけだ。
すでに、蒼州公派も、総督府派も無い。主家の残した夢も潰えた。世話になった人々も、いなくなってしまった。
道を示してくれる大義は、もう無い。世話になった恩を返すような、小さな義理も無い。敵も、味方も無い。誰ともあえて戦う理由は無い。何も、する理由は無くなった。
そして、無くなってみて分かった。分かってしまった。かつて掲げていた大義も夢も、全て嘘だったのだと。所詮は、誰かの都合でしかなかったのだと。
それを信じた自分は、ただ愚かだった。その愚かさが、数多の死を積み上げ、多くの人間を踏みにじり、無数の苦しみを生み出した。
自分のしてきた事の全ては、ただ愚かな事だった。初めから何もしなければ良かった。そうすれば、多くの苦しみは生まれなかった。
いや違う。自分がやらなかったら、他の誰かが代わりにやっていた。多分、それだけの事だろう。
何かを為せば愚かな事になる。だからと言って、何もしないのもやはり、愚かな事には変わりないだろう。
人は、どこまでも愚かだ。散々戦を繰り返してきて、やっとそれが分かった。
だが、その愚かさは悪ではない。ただ、哀しいだけだ。
見回りと言う名目で、村落を回った。砦にいると、細々とした事務を多くこなさなければならない。それが酷く煩わしかった。
先送りにすぎなくても、今はつまらない仕事から逃げたかった。本当は、伴も連れずに一人でいたかったが、流石にそういう訳にはいかない。
ゲオルク軍の影響が強い地域では、比較的にしろ、戦も無ければ盗賊も少ない。それでも、偶に野垂れ死んだ亡骸に出会う。
そういう亡骸を見るたび、どこにも救いなどは無いとしか思えなかった。
「もし、そこの方」
不意に声を掛けられた。見ると、道端で一人の僧侶が寄付を募っていた。
「よろしければ、僅かばかりの慈悲を」
「寄付か。しても構わんが、御坊は何のために寄付を募っている?」
寄付を頼りに生活し、修行に励む僧侶がいる。昔は何とも思わなかったが、今は、他人の寄付で生きて修行する事に、何の意味が、誰にとっての意味がある、と思ってしまう。
「この先に、打ち捨てられた亡骸達がおります。埋葬をしてやりたいのですが、一人の力では叶いませんので、寄付を募り、人を雇って弔ってやろうと」
「ならば、寄付ではなく、我らが埋葬をしてやろう。それでどうだ?」
「それは、願っても無い事でございます」
どのみち、死体を放置する事は、疫病の温床になりかねない。一つ二つ、死体を埋葬したところで何かが変わるとも思えないが、放置するよりも、僅かな寄付をするよりも良い。
僧侶の案内で、死体の所まで行った。
息を呑んだ。子供の死体が三つ、身を寄せ合うように横たわっている。死体など、嫌と言う程見てきたが、子供の死体はやはり、胸を突くものがあった。
この場に埋めて問題無いと判断したので、穴を掘り、埋めてやった。僧侶は、穴を掘る道具すら持っていなかった。
死体を埋め、小さな墓標を立てると、僧侶はその前で冥福を祈った。そのときになって気づいたが、この僧侶はまだ若い男だ。肌の色がくすんでいたので、老人かと思っていた。満足に食べていないのだろう。
「ありがとうございました。拙僧一人では、いつ弔ってやれていた事か」
「いえ、お構いなく」
僧侶は、できたばかりの墓を静かに見ている。ゲオルクもなんとなく、隣で墓を見ていた。
「救いなど、どこにもありませんな」
自然に言葉がこぼれ出していた。言葉にすると、気持ちは一層暗くなった。
「哀しい事を申されますな。ゲオルク殿は、何も信じられなくなったという事です」
一瞬身構えた。しかし、僧侶はただ静かに佇んでいる。
「名乗った覚えはありませんが」
「これは失礼。拙僧が一方的に知っているので、つい」
そういう事も、あるだろう。
「拙僧は昔、オステイル解放戦線に身を投じていましてな」
「それは――さぞ、私が憎い事でしょう」
「なぜ、そう思われる?」
「あなた方の指導者を討ち、あなた方から光を、救いを奪ったのは、他ならぬ私です」
「確かに、一度は光を失いました。しかし私はそれで、救いとは何か、分かった気がします。ですので、恨みも憎しみもございません」
「救いとは、何なのです?」
「信じる事です」
「何を信じるのです。神ですか。来世の安息ですか。そんなものが、今を苦しむ人々にとって、何になります。ここで死んだ子供は、生きられなかった。救いなど、無かった」
肩を震わせていた。涙は、流さない。そんな資格もない。
「光がある。それを信じる事ができれば、それが救いになります」
「光など、どこにあります」
「どこにも無くてもいいのです。夢でも、幻でも構いません。光は、掴む事も、触れる事も出来ないのですから。それなら、幻の光がある。そう思えるだけでいいのです」
「夢や幻が、実在しないものが、救いになどなりますか」
「なります。なぜなら、心に形は無いからです。形の無い人の心を救うのは、形の無い光だと思うのです」
「現実は、何も変わりません」
「それでも、心は変えられます。現実が何一つ変わらなくても、心が変われば救いはあります」
「では、光とは何です? 救いになる光とは?」
「それは、人それぞれでしょう。ある光が、救いになる者もいれば、救いにならない者もいる。救われるか否かは、その者の心次第です。光は、人の心を動かすきっかけに過ぎないのだと思います。だから、何だっていいし、無数にある。そう思っています」
「御坊にとっては、何が光で、何が救いなのです?」
「私は、この通り限りなく無力な者です。それでも、人を救いたいと思っている。思い続けていれば、明日人を救えるかもしれない。それが私の光です。その光がある限り、辛くても、苦しくても、明日を生きようと思えます。死より生を選ぼうと思えます。それが、私にとっての救いです」
「人を救いたいと思い続けていれば、いつか人を救う事ができると信じている?」
「はい」
「誰も救う事が出来ずに死を迎え、後悔するかもしれませんぞ」
「確かに、誰も救えずに終わるかもしれません。ですが、やれるだけやったと思えれば、後悔はしないのではないかと思っています。実際は、その時になってみないと分からないのでしょうが、分からない事を思い悩んでも仕方がない」
「妙なお人だ」
ゲオルクは墓に背を向け、馬に乗った。
「御坊、私は自分を救えそうです。あなたのおかげで」
僧侶はそれに対して何も言わす、ただ微笑んだ。
「お健やかに。では」
ゲオルクは馬に鞭をくれて、荒野を駆け出した。
行く手に、一番星が輝き始めていた。
砦の広間に、ゲオルク軍の主だった者達を集めた。各隊の隊長。中、小隊長。事務方の者達。数少なくなった、古参の者達。
「皆、良く聞いてくれ。これより、我らの今後の目指すべき所を、夢を語る。それに同意できないという者は、去ってくれて構わない」
広間が、静まりかえった。
「我々はここに、この砦を中心とした地域に、小さな国を建てる。戦が無く、治安が良く、税は安い国だ。それを作り、守っていく事が、これからの我らの目標である」
「しかし団長、それでは、軍を維持する事ができません」
ゴットフリートが言った。
「我々は、元はと言えば傭兵だ。軍の維持は、傭兵として戦力を売る事で賄い続ける。そうする事で、戦に関わる事でしか生きていく術を知らない者達の受け皿になる」
「それはつまり、俺達の国とやらだけが平和で、他所にはむしろがんがん戦をしてもらう、という事になりますぜ。それでいいんですかい?」
デモフェイが、核心的な所を突いてきた。
「良い。自分達さえよければ、他は戦乱に苦しんで構わない、という理屈である事は分かっている。だが我らが何をしようと戦乱は起きるし、それを治められるような力も、持ち合わせてはいない。
我らは我らの掌に乗るだけのものを、精一杯守る。全ての人々を救おうなどと、思い上がった事は思わん。我らの目指すものが、誰かにとっての救いになれば、それで良い」
「そんな夢みたいな事が、本当にできるとは思えませんが」
誰かが言った。顔は覚えがあるが、名は知らない。格好から、事務方の者だという事は分かった。
「夢みたいな事だと、私も思う。実現するどころか、半歩も踏み出せないかもしれない。しかし、実現しようという意思は持ち続け、掲げ続けようと思う。ここに、夢の様な国を作ろうと足掻いている我らがいる。その事が、誰かの救いになればそれで良い。そして、足掻く事が我らにとっての救いになれば良い」
ゲオルクは一度言葉を切り、広間を見回した。
「どうせ傭兵として、戦いに生きていくのなら、自分で選んだ夢のために戦おうではないか。その方が、明日の糧の為だけに戦うよりも、いくらかマシだと思う」
頭の良し悪しなどとは全く違うところで、人は愚かしさから抜け出せないと思う。ならばせめて、美しい何かを追う愚かしさでありたいと思った。
かつて、蒼州公派が追ったのもそれだった。愚かしい事だったが、美しいものだった。様々な打算や思惑があっても、その中核にあるものは、美しい理想だった。
蒼州公派の理想に魅かれていた頃と、何も変わらない。苦しむ民の為に、何かをしたいという思いは本物だ。その思いを抱き続けていれば、何かできるかもしれない。いや、何かできると信じる。
信じていれば、歩ける。
「今すぐ、何かが変わるという訳ではない。変えられる力もない。だが我らは今後、この新しい、我らの理想を高く掲げ続ける。それだけは、確かである。以上だ」
静まり返っていた広間が、少しずつざわめき始めた。ゲオルクの言った事をどう理解すればいいか、それぞれの考えがあるだろう。
一つの答えを示そうとは思わなかった。光は、漠然としたもので良い。答えは、それぞれの胸に有れば良い。
現実は、何も変わっていない。しかし、何か全く新しい事が、始まった。




