不毛な抵抗1
チクハ山は、平野が広がる蒼州中部において、そこだけ気まぐれに摘み上げたような山だ。
ゲオルク軍はこの山に拠り、高く旗を掲げて数日駐屯した。それで、僅かだがツィンメルマン卿の残党や、行き場を失った市民なども集まってくる。
集まってくるのは味方ばかりではなく、敵軍も麓に布陣した。しかし、山全体を包囲するような兵力は無く、インゴルシュタットへの道を塞いでいるだけだ。
初めは何度か小競り合いを繰り広げたが、今はこちらから仕掛けない限り、向こうも手を出しては来ない。そしてゲオルクに、交戦する理由は無かった。
人数はそれほど増えた訳ではないが、十分な食糧が有る訳ではない。山の反対側から輜重隊を送り出して、食糧を確保してはいるが、あまり長居はできそうにない。
「麦秋になったから、調達自体は移動すれば容易だろうが」
幕舎を張っている場所より、もう少し登ったところに、岩が突き出していた。その岩に登ると、麓の敵はおろか、インゴルシュタットまで見渡せる。
ゲオルクは、この岩の上に立つ事が多かった。岩の上は、ゲオルクしかいない。だからここで言う事は全て、独り言だ。
独り言が増えた、という自覚はある。テオ達がいた頃は、言葉を発すれば返事があった。
今もゴットフリートや、他の将校達の前で何かを言えば、それなりに言葉が返ってくる。
だが何か違う。ゲオルクが求めているような応えは、もう返ってこないのだ、という事が、なんとなくだが分かる。
それでも言葉を発するのは癖になっているので、独り言になってしまう。独り言だと思うと、誰にも聞かせたくはなかった。
「どうしたものかな」
インゴルシュタットを遠望しながら、今後の方針を決めかねていた。普通に考えれば、このままゲオルク軍の本拠砦に帰還するべきだろう。
しかしインゴルシュタットは、まだ何か落ち着きが無かった。実際に何かが起こっている訳ではないが、対峙して、相手の隙を窺っている軍勢の様なざわつきがある。
もう一波乱、何かある。それに、背を向けていいものかどうか、ゲオルクは決めかねていた。
何より、この事態を招いた当事者なのだ。最後の最後まで見届けるのが、責任というものではないのか。
しかし、あまり長くここに居座っていては、インゴルシュタットの軍勢をいたずらに刺激し、また要らぬ火種を生み出す事にもなりかねない。
結局、決心がつくまで考えながら、ここで見極めるしかない。この岩の上で。
麦秋には珍しく、低い雲が垂れ込めていた。空気も湿っている。ただ、寒くは無く、雨が降る様子もなさそうだ。
それがかえって、不快な空気を創り出していた。
岩に登るまでも無く、明らかにインゴルシュタットは混乱していた。麓の軍勢も、それを受けて動揺しているようだ。
何が起きているのか。
「誰か、街の様子を探って来い」
食糧調達の部隊が下山できるのだから、一人二人の出入りは問題無い。斥候を放って様子を見ると同時に、すぐに軍勢として動けるように備えさせた。
まともな軍勢など、ゲオルク軍の他には総督府側に所属する軍しかいない。争いなど、起きるはずもないはずだ。
だが、毛が逆立つような嫌な予感がする。あるいは、もうすでに分かっている事に、あえて蓋をしているのかもしれない、と思った。
斥候が戻ってきた。
「暴動だと」
「はい。市民が大規模な暴動を起こし、その鎮圧に軍が出動して、市内は大変な混乱の中にあります」
「鎮圧と言うが、つまりは軍が、市民を殺しているのか?」
「はい。始めは武器の使用を避けていた様ですが、むしろ市民の方が武器を手に襲ってくるので、応戦を始めたようです。それで、かえって混乱は広がったようです」
なぜ暴動が起きたのか、と思った。すぐに、考えても分からない事だと思った。火種は、ずっと燻っていたのだ。些細な喧嘩から発展したとしても、おかしな事とは思わない。
すでに暴徒は、目的も見失っているだろう。目的も無く、騒ぎをどう収束させるかの当てもなく、力尽きるまで暴れ続ける。すでに、そういう段階に入っていると思った方が良い。
そういう暴動を前にして、ゲオルク軍はどう動くべきか。それを決めるべき時だ。
「暴徒の数は、どれほどだ?」
「良くは分かりません。しかし、暴動に加わらず逃げ惑う市民も、多く見られました」
実際、市民全体の割合を計算すれば、暴徒は多くないのだろう。しかし、十人に一人が暴動に参加しても、インゴルシュタットの今の人口ならば、五千の暴徒になる。市内の軍の数倍だ。
暴徒が暴れ、軍はそれを抑えようと殺す。だが、どちらでもない市民の方が、実は圧倒的に多い。そういう市民達が、巻き添えを食わずにいられるような情況とは、到底思えない。
実際、巻き添えで殺される者が多いから、逃げ惑っているのだろう。
「インゴルシュタットの市民を救出する」
ほとんど直感的に、そう決めた。軍と暴徒の両方を敵に回しかねない、などという事は、決めた後になって考えた。
何を考えようと、もう決めてしまった事だ。決めた事は、変えない。
ゲオルク軍として市内に突入するには、まず麓の軍勢を突破しなければならない。
敵は一千二百と二百騎。こちらよりやや多いが、市内での騒乱を受けて、狼狽えている。地の利もこちらに有るので、打ち破るのには問題はないだろう。
「突撃!」
騎兵が逆落としで突っ込み、敵を断ち割った。縦列で突っ込んだので、針を通した様なものだ。敵陣の綻びは小さい。
騎兵のすぐ後に、歩兵の全軍がぶつかる。楔型の陣形で突っ込んだが、数が数だ。敵陣が崩れる。
「蹴散らせ! 徹底的にだ!」
市内から戻って来たときに、敵が立ち直っていると厄介な事になる。帰りは、市民を連れているかもしれない。百の敵でも、守るべき存在を同行させたまま戦うのは、厄介だった。
「白隊。緑隊。市内に突入し、北門までの安全を確保。逃げる者を誘導しろ」
崩れた敵を蹴散らすには、歩兵は半分もいれば十分だった。一度に市内に全軍を入れても、身動きが取れなく恐れもある。
ただ、騎兵は敵の掃討に必要だった。市内の情況を、ゲオルク自身の目ですぐに確認できないのは、この際やむを得ない。
外の敵を徹底的に蹴散らして、再びまとまる心配はないと判断すると、市内へ乗り入れた。
すでに、ゲオルク軍で抑えた北門から、戦火を逃れて逃げ出す者達が多く出ている。
市内は酷い有様だった。ありとあらゆる無秩序が横行し、敵と味方の区別もつかないような混乱の中で、互いに殺し合っている。
白隊と緑隊を投入したにもかかわらず、北門から街の中央まで続く大通りの、半分を抑えるのがやっとというありさまだった。迂闊に路地に足を踏み入れれば、逆に殺されかねないという。
「歩兵はともかく、この辺り一帯を抑えて、一切の暴行、略奪を止めさせろ。逃れてきた者は、全員一旦外に誘導しろ。騎兵は、暴徒を鎮圧して、この騒ぎを収束する」
「収束と言いましても、この情況をどうやって」
「暴徒を蹴散らすより他あるまい。行くぞ!」
街路を駆ける。すぐに、暴徒の一団と遭遇した。どうやらいくつもの集団が街中を暴れ回り、互いに衝突する事もあるようだ。
こちらに気付いた暴徒の一団は、手にした棒や刃物を振りかざし、逃げるどころか襲い掛かってきた。
構わず突っ込んだ。剣を振るう必要もなく、騎馬隊が一丸となって突っ込めば、それで蹴散らせるようなものだった。軍とは、まるで違う。
できるだけ殺さずに、大通りや広場から追い立てた。狭い所に追い込めば、自然と一人になる。一人になれば、狂乱も覚めるはずだ。
いまさら、できるだけ殺さずに収めようというのも、虫の良い話だと思った。それでも、殺せと命じるよりは楽だ。
つまりは、自分が楽をしたいのだ。辛い命令を下す事を、避けているだけだ。そんな思いが、自分を苛んだ。
「団長。市内の駐屯軍です」
どうにか部隊としての体裁を保っている、五十人ほどの軍勢がこちらへ向かってきた。ただ、目の色は尋常ではない。
「話し合いができる状態ではなさそうだな」
この情況だ、暴徒の扇動者だと思われても、仕方がない。余計な戦闘を避けようと、手綱を引こうとした。そのとき、風に乗って微かに、火薬の臭いを嗅いだ。
「散開!」
横道に飛び込んだ。飛び込む前に、駐屯軍が鉄砲を構える所までは確認した。横道に飛び込んだところで、銃声が鳴り響いた。
「ちくしょう! 見境なしか」
その場にいたのはゲオルク軍だけではない。暴徒もいるし、暴徒以外の市民もいる。流れ弾が誰かを傷つける事など、微塵も躊躇していない動きだった。
この場を安全に逃れるためにも、これ以上無辜の市民を傷付けさせないためにも、打ち破るしかない。
「蹴散らせ!」
敵に向かって駆ける。一息で戦列に突っ込み、屠って行った。
「北門から外へ出られるぞ! 北門へ向かえ!」
言って、ついて来れる程度の速さで騎馬隊を走らせた。その後に、目的地も無く逃げ惑っていた人々が、続々と着いてくる。
混乱した部隊を立て直す時と同じだ。明確な目印や目的地を与え、それに向かって真っすぐ進む動きを与えてやれば、自然にその後に着いてくる。
ゲオルク軍で制圧している一帯まで誘導すると、後は歩兵に引き継いだ。
「ゲオルク様、ちょっと厄介な事になってきました」
ゴットフリートが馬を寄せてくる。
「どうした?」
「駐屯軍と言うんですか、街の兵に目を着けられたようで、しつこく仕掛けてきます。安全を保障するには、戦線を縮小するしかありません」
舌打ちを漏らした。今、駐屯軍と戦う理由は何もないのだが、そんな理屈が通じる情況ではない。
「退く、というのも手だと思いますが」
確かに、それもありだろう。短い時間だったが、千人か二千人かは街の外へ出られたはずだ。
しかし、これで良しとしてしまって良いのか。街の混乱を収めたり、逃げ惑う人々を全て助けるなどと言うのは、到底不可能だが、それでもまだ、死力を尽くしてはいない。
「歩兵は戦線を縮小し、脱出口を死守しろ」
「ゲオルク様は?」
「街中を派手に引っ掻き回して、駐屯軍を引き付ける。その間に、逃がせるだけ逃がせ」
「はい。ゲオルク様、お気を付けて」
ゲオルクは再び、混乱のるつぼと化した街を駆けた。駆けながら、北門から逃げろと誘導する事も続けた。




