インゴルシュタット奪回1
穏やかな日々が続いていた。
春の植え付けから三十日が経ち、苗も順調に育っている。戦で田畑が踏み荒らされる心配をしなくていいのは、五年ぶりだ。農民達の表情も、明るい。
ゲオルク軍は調練と、付近の村落の警備に明け暮れる日々を過ごしていた。あえてゲオルク軍の縄張りを荒らそうという盗賊も無く、実戦の無い日々を過ごしている。
付近の村落を警備する代わりに、定期的に傭兵料を受け取っている。それは見方によっては、土地を不法占拠しているとも取れる。
しかし、それについて何かを言われるような事は無かった。オルデンブルクやシュピッツァーが奪い取った領地も、そのまま認められている。
この辺り一帯も、ゲオルクの治める土地として黙認する、という事なのかもしれない。
「戦が無ければ、民は笑顔だ。ならば、この笑顔を守りたいがために戦を続けてきた我らは、何なのだろうな」
「フリート郡の民は、今も治水が行われずに苦しんでいます。そういう大きな苦しみを無くすための、戦だったのではないでしょうか」
即座に、ゴットフリートが応えた。
「大きな苦しみを無くすため、か」
「苦しみに、大きいも小さいも無い、とも思いますが。苦しむ者にとって、苦しみはただ苦しみです」
「お前は、いつもそういう事を考えていたのか?」
「何も考えずに、ただ戦う。それで良しとするのは、何か違うという気がしまして。特に最近は、戦が無い分、書物を読んでは考え込みます」
「それで、答えは出たか?」
「いえ。分からない事が多い。という事が分かっただけです」
「私も、何も分からん」
何が正しかったのかも。これからどうすれば良いのかも。
それでも、生きて行かなければならない。民が、どれほど戦禍に見舞われようと、それでも必死に生きている様に、ゲオルクらも、生きて行かねばならない。
しかし、今の軍勢を維持していくためには、付近からの傭兵料だけではとても足りない。新たな資金源を確保しようにも、傭兵業以外に、すぐに資金を得られる当てはなかった。
だからという訳でもないが、情勢だけは注視し続けた。
昌国君が征東将軍職を解任され、朱耶軍の大部分は北の領地に帰って行った。ただし、まだ要所要所に百騎二百騎と言う単位で残っている。何も無ければ、それも徐々に引き上げていくだろう。
蒼州の統治は、総督府によってなされている。本来の姿とも言えるし、ユウキ合戦の直後と近い情況とも言える。
だが、各地の諸侯レベルでは、もはや総督府に対して蜂起する可能性のある者は、ほとんどいない。再び大乱を起こすのは、不可能としか思えない。
もっとも、想像もしていなかった事件で予想が裏切られる事は、しばしばあった。この先また、何が起こっても不思議ではない、と思う様にしている。
どちらにせよ、早いうちに財源を確保しない事には、ゲオルク軍は兵力を半減するしかなくなるだろう。そうなれば、何かあってもできる事は限られてくる。
それに、ゲオルク軍から放り出されたら、兵達に行き場は無い。盗賊に身を落とし、討ち果たされるのがおちだろう。長く苦楽を共にしてきた戦友を、そんな風にはしたくなかった。
だからと言って、付近の村落からの傭兵料を引き上げれば、反発は大きいだろう。力づくで取り立てる様な事は、したくなかった。
悶々としながら村落の巡邏を終え、砦に帰ってきた。
「団長。お客様がお見えになっています」
「客だと?」
珍しい事だった。蒼州公派と言うものが崩壊して以来、傭兵団の砦を訪ねてくる者は、普段から出入りしている商人くらいのものだ。
見苦しくない程度に埃を落とし、客と面会した。客自身は、知らない男だった。
「それで、御客人はどちらの方で、何の御用でしょうか?」
「ツィンメルマン卿の、使者として参りました。証として、親書もございます」
「ツィンメルマン卿だと」
驚きと喜びが入り混じった。旧ユウキ家四遺臣のうち、唯一消息不明だった。それにゲオルクとは、まだユウキ家があった頃から知らぬ仲ではない。
「卿はご健勝か?」
尋ねながら、親書を確認する。確かにツィンメルマン卿の字で、印も押してある。親書自体は時候のあいさつ程度だが、文面にさりげなく最近の事が書かれているので、間違いなく最近書かれたものだと断定できる。
「実は今、ツィンメルマン卿はインゴルシュタットにおります」
「インゴルシュタットか」
かつてユウキ家の本拠があった都市。旧ユウキ家の家臣にとっては、今や複雑な思いを抱かずにはいられない場所だ。
「実は、ゲオルク殿に折り入って頼みがあって参りました。これは、卿の頼みと取っていただいて構いません」
「一体何を?」
微かに、不吉な予感を感じた。
「インゴルシュタットを奪回するために、卿は近々兵を挙げられます。どうか、ご協力いただきたい」
「それは、我らを傭兵として雇うと?」
インゴルシュタットを奪回する。そんな事が可能なのか、という思いを抑えて尋ねた。
不可能だ、という思いがある。旧ユウキ家の本拠と言うだけでなく、蒼州公派が本拠と定めた都市だ。今も、総督府の軍勢が相当な数、駐屯している。
「いいえ。今の我らに、ゲオルク殿を雇う様な資金はございません。ですので、あくまでツィンメルマン卿の個人的な頼み、という事になります」
「卿は、まだ諦められないのでしょうか。そのお気持ちは分かります。しかし、よほどの策でも無ければ、インゴルシュタットの奪回は不可能です。卿は、策をお持ちか?」
使者は、沈黙で応えた。そうだろうと思った。だから、頼みなどという言い方をしてきたのだ。依頼でも、命令でもなく、頼みだ。
◇
「無理な話だと分かって、受けたんですか」
ゴットフリートの言葉は、淡々としていた。驚きも、非難の色もない。ただ、なぜと言う思いは、どうしようもなくにじんでいる。
「我ながら、感傷的だと思うよ」
「それで、できっこないインゴルシュタット奪回のために、戦って散ると?」
やはり、非難の色はない。
「できれば、そうはなりたくないな」
「ではなぜ?」
「ツィンメルマン卿は、死ぬ気だと思う。それを、むざむざ見殺しにはできなかった。私情と言われれば、そうだろう。しかし、今さら無益に人が死ぬ事は、防ぎたい」
「本人にとっては、いっそ死なせてやった方が幸せかもしれませんよ」
そうかもしれない。いや、多分そうだろう。ユウキ合戦以来、一貫して主戦論を唱え、亡き主君の仇を討ち、その理想を叶えようと戦ってきた男だ。多くの者が死んだのに、自分だけむざむざ生き残っているなど、耐え難い思いでいるだろう。
「それでも、死なせたくないのだ。私は、あの人が嫌いではない。いや、好きなのだ」
ゴットフリートが、ため息を吐いた。
「分かりました。お供しましょう。ゲオルク様が、個人的な理由で行動するなんて、めったにない事だし」
「別に、兵達を付き合わせるつもりはない。使者殿には協力すると言ったが、それは私一人の事だ」
「馬鹿言わないでください。全員着いて行きますよ」
「そんな馬鹿な。何も、得るところが無いのだぞ。それに、お前一人ならいざ知らず、全員着いてくるなど、どうして言える」
「それこそ、馬鹿にしないでください。俺は、傭兵団立ち上げの時から、一兵卒として戦って来たんです。連中が何を思っているかなんて、骨の髄まで知っている」
「何を、思っているというのだ」
「ここにいる連中はみんな、自分がゲオルク軍である事に誇りを持っています。ゲオルク様がこうすると言えば、喜んでそれに従いますよ」
「ゲオルク軍である事が、誇りだと?」
「ゲオルク軍に入らなければ、盗賊か、盗賊と変わらないような傭兵になっていた。ここにいるのは、そんな奴らばかりです。そんな連中が、ゲオルク軍になった事で、胸を張れるような事のために戦えた。それは、ゲオルク様がくれた事です。だからみんな、ゲオルク様の命令なら、それが私情でも喜んで戦いますよ。それも含めて、ゲオルク軍なんですから」
「みんな、そんな事を思っていたのか? 本当に?」
「信じられないなら、そこで聞き耳を立てている奴らに聞いてみてください」
ゴットフリートが言うと、途端に物陰からばたばたと音がした。そして、気まずそうに苦笑いをしながら、数人の兵が出てきた。
「なあお前ら、ゲオルク様は昔からのご友人を助けるために、インゴルシュタットに乗り込んで大立ち回りをするおつもりだ。お前らはどうする?」
「そりゃ、ね」
「団長が行くとありゃあ、行くしかないですぜ」
「来るなと言っても勝手に行きやすぜ。団長」
ゲオルクは天を仰いでいた。思ってもみなかった事だ。兵達はただの傭兵。自分の命と報酬が第一。そう思って指揮を取って来たのに、これではまるで道化ではないか。
「私のために、お前達は命の危険も顧みないというのか」
「ゲオルク様の為と言いますか。ゲオルク軍の為と言いますか。どう違うのかと言われたら、上手く言えないんですけど」
「いや、なんとなくだが、分かる。私も、私のために死ぬ事を厭わないなどと言うのは、正直遠慮したい。そんな大層な人間ではないのだからな」
ゲオルク個人ではなく、団長としてゲオルクがいて、その下に多くの兵達がいる、このゲオルク軍と言う組織。それのために、命を掛ける事を厭わないと思える。彼らの思いはそういう事だ。
今はただ、組織の意思と、組織の長であるゲオルク個人の意思が、不可分な状態にある。だからゲオルクの為と、ゲオルク軍の為が、重なっていて曖昧なのだ。
ゲオルクが、蒼州公派の理想を奉じて戦ったのと同じ事だ。蒼州公フリードリヒや、ユウキ公爵といった人々がいなくなっても、蒼州公派という集団に属して戦い続けた。
個人ではなく、組織や集団への思い。皇帝が変わっても、国には変わらず忠誠を尽くすのと同じだ。
つまりゲオルク軍は、知らずに国としての性質を、持ち始めていたという事か。
「全軍を召集しろ。出動準備は、しないままでいい」
「はっ」
国を建てる。望めば、それができる所にいるのかもしれない。ただ今は、それを望む理由が無い。
ゲオルク軍の全軍が、砦の広場に整列した。ゲオルクは彼らの前で、段に登った。
「皆聞け。我らはこれより、インゴルシュタットに潜入し、奪回作戦に参加する。これは、傭兵としての依頼でも、命令でもない。私が決めた事だ。故に、諸君への報酬も払えない可能性がある。それでも構わないという者以外は、今ここで去ってくれ」
しばらく待ったが、去ったのは十四、五人だけだった。一千を超える将兵は、ほとんど残った。
「まずは各人でインゴルシュタットに潜入し、市内で再集結を図る。その計画は、この後各隊ごとに詳細を詰めさせる。私から言う事は、一つだ」
一旦言葉を切って、間を置いた。これから言う事は、自分に言い聞かせる事でもある。
「我らの目標は、あくまでインゴルシュタットの奪回だ。作戦が成らぬと判断すれば、即座に一人でも犠牲を出さぬ様にして撤退し、次の機会を待つ。華々しく戦って散るなどという事は、許さん。心せよ」
将兵が力強い返事をしてくる。これでよいのだ。これで、友軍の救出と言う名目で、ツィンメルマン卿の自死を阻止する名目が立つ。
インゴルシュタットの奪回と、向こうが言ってきた事だ。それを鵜呑みにして、そのために最良の選択をすれば、自然とそうなる。
ただ、ツィンメルマン卿の心まで変えられるかどうかは、やってみなければ分からない事だった。
インゴルシュタットは、すでに厳戒態勢が解かれて久しく、帯剣していても見咎められる事無く入る事が出来た。
なんて事の無い、平和な日常がそこにはあった。戦乱が始まる前と比べて人口は減ってはいるが、農村などと比べれば、むしろかなり残っている方だ。農村を失った人々が、都市に流れこんだのだろう。
流石にツィンメルマン卿の手の者は、用心を重ねて潜伏していたが、ゲオルク軍はむしろ、ごく普通に滞在しても目立たなかった。暇を持て余し、小金も持っている傭兵団が酒場で騒いでいる事など、日常茶飯事だった。
総督府の軍勢が駐屯しているが、それを気にしている者はいなかった。市民はこの街が、ユウキ公爵家のお膝元であった頃と、変わらぬ表情をしている。
市民にしてみれば、治めているのがどこの軍勢であろうと、どうでも良い事なのかもしれない。蒼州公派も総督府派も、どうでも良い事だったのだろう。
むしろ、戦乱の影響で物価が高い事に、誰もが不満を鳴らしていた。そういうときだけ、総督府は何をやっている。総督府が悪い。そんな言葉を聞く。
だが本気で総督府を討とうなどと考えている者は、誰もいなかった。本気であったら、酒場でそれをわめきたてる様な事はしない。
ツィンメルマン卿も、酒の席での市民の不満を真に受け、当てになどしてはいなかった。むしろ、冷たく現実を見ている、と思った。
だからこそ、やはり死ぬ気だという事に、確信が持ててしまった。その意思が固いという事も、思い知らずにはいられなかった。
ツィンメルマン卿の隠れ家を訪ねる。一応、尾行などには警戒した。安全を確信して、決められた符牒で戸を叩き、招き入れられた。
「おう、ゲオルクか。今、計画の最終案がまとまったところだ」
「そうですか」
都市奪回計画を書き記した紙を受け取り、読む。表向きは、さも緻密な計画であるかの様に装ってはいる。
だがやはり、不可能な計画だ。要所要所が、どうしても希望的観測が過ぎる様になっている。不可能なものを、可能なように偽装して、偽装しきれないでいる。
「卿、何度も申しあげましたが、我らはあくまでインゴルシュタットの奪回のために来ております。作戦が失敗だと判断すればその場で、最小の犠牲での撤退に移ります」
「当然だな」
「卿の隊も、一兵でも多く救出して、退きます」
卿は、何も言わずにこちらを見つめた。静かな光を讃えた瞳だった。絶望すら、感じられない。不治の病で死を間近に控えた老人のようだった。すでに、全てを受け入れてしまっている。
「私は、卿の事が好きでした。最近になって、ようやくそれが分かりましたよ」
「ほう、どんなところが好かれたのかな」
「卿は誰よりも、純粋であられた。そこが好きになったのでしょう」
「買いかぶりすぎだな。これでも、薄汚い策謀も随分巡らせた」
「それでも、それは理想のために策謀を使いました。己のために、理想を利用したのではありません」
ツィンメルマン卿の表情が、微かに動いたような気がした。
こんな事しか言えない自分が情けなかった。卿の、自死にも等しい蜂起を止める。そんな事は無理だと、どうしようもなく思ってしまう。
ならばせめて、多くの者を道連れにする様な事は止めるように、とも言えなかった。
ユウキ公爵の都市を、敵の手から取り返すために兵を上げる。それが、ツィンメルマン卿に残された、公爵と理想への、最後の義理立てなのだ。
卿とて、無関係な者を巻き込むのは本意ではない。しかし、これをやらずしては、死んでも死にきれないのだ。そのために犠牲になる者が出るならば、それはもう仕方がない。あの世で、その罪の罰を受けるしかない。そう覚悟を決めてしまっている。
その決意を翻せとは、ゲオルクはついに言えなかった。
そして、蜂起の日がやってきた。




