そして誰もいなくなった・後
昌国君を見送ってから、ゲオルクはまた寝ているときが多くなった。
寝ているのか、覚めているのか、どちらともつかない微睡と、気が付けば時が飛んでいる、深い眠りを繰り返した。
明確に起きている時間は、少しずつ減っている。
夢をよく見る様になった。ユウキ合戦で、僅かな部下を連れて原野を駆け回っていた頃の事。敗れ、失意のうちに山中で息を潜めていた頃の、行き場の無い思い。
命令によりゲオルク軍を立ち上げ、運営に四苦八苦しながら、盗賊を追い回していた頃の事。
金に困るどころか、武器を揃える事もままならず。苦しみながらも知恵を絞って戦っていた。
あの頃が、一番充実していたかもしれない。夢は、夢のまま遠く。だからこそまだ美しかった。
何もかも不足している中で、少ない仲間達と傭兵団を作っていく事は、楽しかったのだと思う。
場面が変わる。夥しい数の人間が地を埋め尽くし、津波のように押し寄せてくる。
オステイル解放戦線との戦いだ。民を敵としなければならない戦。自分は苦悩しながらも、同時にどこかで目を背けていた。
心に湧いた疑念を、夢の実現の為と封じ込めた。
あのとき、もっと真剣に向き合っていたのなら、道は違っていたのだろうか。
解放戦線との戦いを乗り越えて、ゲオルク軍は精強になった。その後すぐに、蒼州公派と総督府派の、果てしない戦に駆け回った。
誰が敵で、誰が味方か。何が真実で、何が策略か。どこまでが目論見通りで、どこからが予想外の出来事か。全く見分けのつかない、混沌とした戦場だった。
だがそんな戦場で、ゲオルク軍は武勲を上げ続けた。あの頃は、ゲオルク軍が最も栄光に輝いていた頃だろう。
たとえ血塗られていても、その輝きは強いものだった。人が集まり。讃えられ。危険視された。
そして、蒼州公派の総力を挙げての決戦。それは、夢にまで見た瞬間のはずだった。ユウキ合戦に敗れて以来の苦労が報われ、無念の思いを抱いて死んで行った者達への餞になるはずだった。
だがそれは、絶望へと進む道だった。昌国君がいても、敵が強かったという訳ではない。
何かを、見落としたまま進んでしまった。その何かが分からなかった事が、自分達の敗因なのだと思う。自分自身に敗れ、自壊したのだ。
その頃にはもう、夢も色あせていた。初めから幻に過ぎなかったのか。それとも自分達の手で、夢から光を失わせたのか。
目が覚めた。目覚めるたびに、終わりの時に近づいていると感じる。
「ゴットフリート」
「はい」
近頃、目覚めると必ずゴットフリートがいる。寝ている時もずっと、そばにいるのかもしれない。
「私は恋の一つもしなかったが、今は独り身で良かったと思う」
「なぜですか?」
「州都は、私が破壊し尽くしたのだ。州都だけではない、私は多くの物を壊し、数えきれない人間を殺してきた。それを、その痛みを、忘れたくは無い」
「家族がいれば、忘れてしまうのですか?」
「おそらくな。なにか自分が心地良いと思う場所があれば、辛い事を忘れてしまいそうな気がする」
それからしばらく、取り留めもない事を語った。起きている間に、ゴットフリートにできるだけ多くの事を語ってやりたい。
「団長。ゲオルク軍は、これからどうすれば良いのでしょう」
言葉にはしないが、ゲオルクが死ぬだろうという事を、ゴットフリートも感じ取っているはずだ。だから、ゲオルクの死後の事を、何度か聞いてくる。
ゲオルクはそれについては、何も答えなかった。ゴットフリートにその器があれば、ゲオルク軍はゴットフリートが率いていくだろう。
ゴットフリートに器が足りず、ゲオルク軍が解散してしまったとしても、それはそれでいい。ゲオルクの名を遺したところで、意味の無い事だ。
自分は、一介の騎士で。いや、名も無き傭兵で良い。
ゲオルクが何も答えないので、ゴットフリートはまた別の話題を話し始めた。ゲオルクもそれに、ぽつぽつと答える。
「団長。辛くはありませんでしたか?」
「辛くないはずなかろう」
「そうですが、団長はずっと現実に裏切られてきました。夢を抱きながらも、現実に裏切られ続ける事に、世の中や他人を怨みはしなかったのですか?」
「現実に、裏切られ続けたか」
言われて見れば、確かにそうかもしれない。しかしゲオルクは、裏切られたという思いを抱いた事は無かった。それを辛いとも、思った事は無かった。
「辛くは無かったな。怨む気持ちも無かった」
「何故です?」
「さあな。ただ、精一杯生きた、という思いがあるからかもしれん」
「精一杯、生きましたか」
「ああ。私はいつだって、自分の全てを振り絞ってきた。振り絞ってみると、満足しかないのだ。戦の勝ち負けすら、どうでもよくなるほどにな」
「勝ち負けが、どうでもよい事ですか」
「昌国君も、同じ気持ちだったのだと思う」
ゴットフリートは、釈然としない表情をしていた。ゴットフリートは勝ち負けにこだわっているし、疑問には答えが欲しいのだろう。
それは当然の事だが、案外つまらない事だと、今は分かる。
これはきっと、自分で感じてみない事には、納得できない事だろう。
また眠った。次に起きたとき、やはりゴットフリートはそばにいた。どこか遠くを見ている様な、哀しげな眼をしている。それでも、目の光は失っていない。
自分の目に、光は宿っているのだろうか。
「ゴットフリート。お前、いくつだったかな?」
「今、二十二歳です」
「そんなに若かったか。それすらも、忘れていたな」
不意にゴットフリートが、眩しく見えた。ゲオルクはすでに通り過ぎた季節に、ゴットフリートはいる。
歳が若い。という事ではなく、未熟で、単純で、しかし純粋な季節だ。
ずっと共に戦ってきたが、ゲオルクとゴットフリートの感じたものは違う。ゴットフリートはまだ、失望した事はあっても、絶望した事は無いのだろう。
恨み言の一つも出てこない絶望を、若者はまだ知らない。この先、それを知るときが来るのだろうか。知ってしまったとき、どうなるのだろうか。
今はただ、失意の底から立ち上がる力を失っていない、若い力を見る事に、満足を覚えるだけだ。
「ゴットフリート。お前、夢はあるか? 我らの掲げたものとは違う、お前だけの夢が」
「恥ずかしながら、ございません。人が苦しまなければ良いという、漠然とした思いはあります。ですが、叶えたい夢というものは、まるで思いつかないのです」
「意外だな。勉強熱心なお前が。人の世はこうあるべしという理想も、そのために為すべき事も、書物の中に書いてあるだろうに」
「確かに書いてあります。しかし、何かが違うと思ってしまうのです。特に、団長を見ていると」
書物の中に、生きた人間はいない、という事だろうか。ゲオルクとって学問は、ただ学問でしかなかった。そこに答えを求める事も、してこなかった。
答えどころか、疑問すら持たなかった。受け継いだ理想を、何の疑問も持たずに追い求めていた。
ある時からは、疑問を持ち始めたが。結局疑問を突きつめる事無く、全ては幻に過ぎないのだと、考える事を放棄してしまった。
自分が追っていた夢は、最初から最後まで、自分自身の夢ではなかった。そこを、自分は誤ったのかもしれないと、今は思う。
「私に夢はありません。ですが、団長の様に生きたいとは思います。団長のような男として戦い、生きる事が、ずっと昔から俺の目標です」
「なるほど。その方が良いかもしれんな」
ゴットフリートに夢は、生きる目的は無い。しかし目標は、望む生き方はある。なまじ夢を持つよりも、そっちの方が良いのかもしれない。
自分には、夢は重すぎた。夢を叶えるために生きる事は、ゲオルクには重すぎた。自分は、夢に押しつぶされて死ぬのだと思う。
自分は、英雄などとは程遠い。器の小さな人間だ。その自覚もあった。
小さな人間として、自分の身の丈に合った誇りさえ守って生きていければ、それで良かった。人に恥じない男でいられれば、それで十分だった。
だが否応なく、そして自覚の無いままに、死んで行った者達の夢を受け継ぐ事になった。
受け継がない、という選択肢など無かった。それは、自分自身の誇りに反した。敬愛した人の遺志を継ぎ、自分ができる精一杯の事をやる。それが、己が誇りだった。
自分の誇りを捨てられなかった。生き方を変えられなかった。だから、運命のいたずらで、不相応な理想を背負って戦う事になった。それは、死へと向かう道だった。
不満は無い。だが、不器用な生き方をしたものだと思う。そして、他人には勧められない生き方だ。
もっとよく考え。受け継いだ夢に疑問をぶつけ。答えを求め。自分自身の夢にできていれば、また違ったのかもしれない。
それを思いつきもしなかったところが、自分の器の小ささであり、限界だったのだが。
「帰ろう。ゴットフリート」
「はっ。しかし、せめてもう少し団長のお体が――」
「帰ろう」
「分かりました」
どこへ、帰るのだろう。ゲオルク軍の砦でも、インゴルシュタットの城でもいい。自分が好きだった、この蒼州の自然と人々が、まだ残っているどこかへ帰りたい。
馬に乗れないゲオルクのために、ゴットフリートが輿か馬車を探した。景色が見えないからと拒否すると、藁を敷き詰めた荷車を用意した。
藁の山にもたれ掛って乗ると、案外快適なものだった。なにより、じきに春がくる景色が良く見える。吹く風も、振りかかる日差しも感じられる。
「進発!」
騎乗したゴットフリートが声を上げる。ゴットフリートを先頭に、十七騎に減った騎馬が進み、その後ろにゲオルクを囲んだ歩兵が続く。
ユウキ家の旗を掲げた、小さくても、堂々とした行軍だ。
行先は聞かなかった。全てをゴットフリートに任せてある。砦に向かうのだろうが、ひょっとしたら別の場所に向かうかもしれない。
「日差しは暖かいが、風はまだ冷たいな」
言ったが、誰も答えなかった。声になっていなかったのかもしれない。
行軍はゆっくりしているので、景色の細かい所までも良く見えた。どこも荒廃している。それでも、懐かしい風景は残っている。
「ああ、そうか」
分かった事がある。なぜ自分が、主君ユウキ公爵を敬愛していたのかだ。
公爵も、この風景が好きだった。蒼州の土地と人々を、愛していた。それが、ゲオルクと同じだった。だから自分は、公爵が好きだった。
そんな些細で、つまらない理由のために、自分は人生の全てを主君に捧げていたのだ。
それが、妙にうれしかった。
眠くなってきた。
「団長。アンハルト郡に入るのは、明日になると思われます」
「うん」
ゴットフリートが、いつの間にか隣を歩いている。
「砦までは、六日ほどかかるでしょう」
「うん」
ゲオルクを眠らせたくないのかもしれない。しかし、瞼は重くなってくる。
「帰ったら、何をしましょうか。もう我らの邪魔をする者はいません。まずは軍を再建して、税を取る方法も作らねばなりません。団長が言っていた、小さくても戦の無い国を――」
「ゴットフリート」
「はっ」
「受け入れろ。私はもう、受け入れた」
ゴットフリートが無言で俯く。最後まで、世話の焼ける後輩だ。
薄雲越しに弱い光を放つ、冬の太陽が見える。雲が途切れた。現れたのは、もう冬のものではない、暖かな日差しの太陽だ。
「眩しいな」
ゲオルクは目を閉じた。馬蹄の響きが聞こえる。そばを、誰かが駆け抜けていった。一人ではない。何人もの男達が、駆け抜けていく。
追い掛けた。なぜかゲオルクは、馬に乗っていた。追い掛ける先に、光が見える。光に向かって駆けた。光が近づき、大きくなっていく。
駆け抜けた。全てが、光になった。
完




