そして誰もいなくなった・前
目が覚めた時、ゲオルクは知らない場所で寝ていた。起き上がろうとしたが、頭が少し動いただけだった。
「誰か」
呟く様な小さな声だった。声の出し方を、忘れてしまったかのようだ。
「団長!」
誰かが、驚いたような声を上げる。何を、そんなに驚いているのだ。
「すぐにゴットフリート様を呼びますので、しばし耐えてくだされ」
何を、耐える事がある。そう思ったが、すぐにまた眠気が襲ってきた。耐えるとは、この事か。耐えなければならないと思ったが、ゲオルクはまた眠りに落ちて行った。
次に目が覚めた時は、ゴットフリートの顔があった。目に、涙を一杯に浮かべている。
「何を泣いている。ゴットフリート」
「団長が、お目覚めになられましたので」
「大げさな。少し寝ていただけだろう」
「前に目を覚まされたときから、二日経っております」
「なんだと」
体を起こそうとしたが、やはり起き上がれない。
「戦は。昌国君との戦はどうなった? 今は何日だ?」
「団長と昌国君が一騎打ちをなされてから、そろそろ三十日が経ちます。戦は、勝ったと言えば、勝ったのでしょう」
「そうか」
引っ掛かる物言いだが、とにかく勝ちはしたのか。
いや、それよりも、三十日近くも眠っていたのか。それならば、冬が終わるのもそう遠くない頃のはずだ。
「戦はどうなった? 昌国君は、死んだのか?」
「順を追って話します。その前に何か、召し上がってください」
スープが運ばれてきた。少しずつ掬って、口に運ぶ。粗末な豆のスープだが、懐かしい味だ。見習い時代は、毎日の様にこれを食べていた。
それももう、遠い昔の事のような気がする。
時間は掛かったが、スープは全て平らげる事が出来た。
「団長。やはり少しお眠りになった方が」
「大丈夫だ。眠気は無い。話してくれ、あの後、何があったのかを」
ゴットフリートが、訥々とゲオルクが倒れた後の事を話し始める。あまり良い話ではないのだろうという事は、その口ぶりから予想できた。
ゲオルクが昌国君に一太刀を浴びせた事で、戦の流れは一変し、立て直ったディートリヒ軍は、敗走する総督府軍を散々に追撃して、総督の首まで挙げた。
昌国君はその時点では生死不明だったが、今もまだ生きているという。ただ傷は深いようで、戦の指揮を取っている様子は無いという。
「その後は?」
「勢いに乗るディートリヒ軍は、そのまま州都フリートベルクへとなだれ込みました。しかし、そこで……」
「何があったというのだ?」
「総督はすでに無く、昌国君も重体で、総督府軍の指揮を取れる者が誰もいませんでした」
「レーヴェも、討ってしまったからな」
「加えてディートリヒ軍も寄せ集め。ディートリヒ卿には、昌国君を討ったと思った事で勢いに乗った兵を、制御する事ができませんでした」
それで、なんとなく分かってしまった。かつて、見た事のある光景が繰り広げられたのだと。
「敵味方共に統制を失った兵達が、都内で無秩序に殺し合いました。無秩序に街を破壊し、火を放ち、おそらく多くの市民が犠牲になった事でしょう。州都は、すでに存在しません」
ゴットフリートが窓を開けた。そこには、かつて州都だった廃墟が、まだ生々しく広がっていた。
これが、己の歩き続けた道の果てにある風景か。
「こんなものだろうな」
「はっ?」
「なんでもない。ディートリヒ卿を責めてやるなよ。止めるなど、無理な事だったのだろう」
「言葉が不足していました。ディートリヒ卿自身、街の破壊にはむしろ、積極的でした」
「そうか。それでも、責めてやるな」
ユウキ公爵を討たれて以来の復讐を為す、最初で最後の機会が目の前に有って、激情を抑え込めなかったのだろう。
それはむしろ、好ましいとさえ思えた。ディートリヒ卿も、亡き主君の事を思う男であったという事だ。
「静かだな」
「団長。まだ、言わなければならない事があります。ディートリヒ軍の傭兵達が、都内で酷い略奪と破壊を行いました。そこに、主を失ったレイヴンズも加わりました」
「まどろっこしいな。結論を言え」
「我がゲオルク軍の一部も、制止を振り切って州都の略奪と破壊に加わりました」
絞り出すような声で、ゴットフリートが告げた。ゲオルク軍からそういう者が出た事を、耐え難い思いでいる事が、良く分かる。
「どれほどだ?」
「二百ほどだったと思います。団長が意識不明となると、全く命令を受け付けなくなって」
「仕方の無い事だな。我々も所詮、傭兵でしかなかったという事だ」
もしくは、ゲオルク軍をまとめる力が、ゲオルクという個人の存在に拠っていたという事だ。
彼らは、ゲオルクがいなくなったゲオルク軍には、従う理由を見つけられなかったのだろう。ゲオルク軍はまだ、歴史が浅すぎた。ゲオルクという個人無くして、ゲオルク軍は在りえなかったのだ。
ゲオルク軍が消えるのなら、自分達ももう、ゲオルク軍の兵ではない。そう思い、タガが外れたのだろう。
自分の死と共に、ゲオルク軍は消えるのだ。夢も、消える。
「他に、団長が目を覚まさない間に、去って行った者が大勢います」
「仕方が無かろう」
ここでじっとしていても、金と食糧を食いつぶしていくだけだ。明日の糧を得るために、離れて行かざるを得なかった者は仕方がない。
「それで、今どれほど残っている?」
「二百七十二人です。騎馬の者は、僅かに十七人です」
「それだけ残っただけでも、大したものだ」
「団長。俺は、俺は悔しいです。自分でもなんだか分からないけれど、悔しいです」
ゴットフリートが拳を振るわせる。床に、涙の滴が落ちた。
「少し、眠らせてくれ。一人で良い」
「はい」
涙声でゴットフリートが応えた。今はこいつも、一人で泣かせてやろう。
自覚は無かったが、疲れたのかもしれない。また何日か、長く眠っては起き、スープを口にしては、また眠る事を繰り返した。
体力は回復している。しかし、体力でも気力でもないものを、日に日に消耗していっていると感じた。
手の指を動かしてみた。右手の指。動く。一本ずつ、確かめる様に動かした。左手の指を動かそうとして、左腕が無い事を思い出した。
足の指を動かす。何度か握っては開くと、酷く疲れ切っていた。体が、石膏で固められている様だ。
毎日、少しずつ動かした。三日もすれば、起き上がれるようになった。
歩く事にした。少しでも、体の動きを取り戻したい。
歩けるようになって、初めてここが州都近郊の丘に立つ、小さな小屋だと知った。
小屋の周囲を毎日歩く。心配しているのか、ゴットフリートが必ず伴に着いてくる。
「そう言えば、私の鎧と兜はどこへやった?」
「残念ながら、どちらも屑鉄として売りました。破損が酷く、修理は不可能と言われましたので」
激しい戦だった。鎧兜も耐えられなかったのだろう。特に兜は、昌国君に斬り飛ばされたのだ。
「団長に一言の相談もせず、勝手な事をいたしました」
「いいさ。どうせ、飾っておくくらいしかできない有り様だったのだろう?」
ただの飾りならば、不要だ。
「お前の鉄鞭も、昌国君に斬り飛ばされていたな」
「そちらは新調しました。元々、大した物でもありません。いくらでも替えは効きます」
小屋の周りを歩くと、嫌でも廃墟と化した州都が見える。
暖かくなるにつれ、色を失った廃墟にも、小さな色が付き始めていた。
ゲオルクは直接見ていないが、どれほどの惨状であったかは察せられる。そんな地獄の跡地にも、何事も無かったように草が芽吹き、花が咲く。
虚しい、というのとも違う。全てが過去になってしまうのだ、という感慨がある。
「暖かくなったら、また馬で駆けたいものだな。ゴットフリート」
「そのときは、お供いたします」
言ったが、もう馬には乗れないだろう。それどころか、春を迎えられるかも怪しい。
自分の中で何かが壊れていく。その感覚が、自分にだけ聞こえる音として、聞こえる。一日。また一日と、それは進んでいる。
「ゲオルク様」
声を掛けられた。見知らぬ男が跪いている。ゴットフリートが警戒していないので、危険はないのだろう。もし刺客だとしても、今更死を避けても仕方がない。
「何者か」
「アーベルと申します。兄が、隊長を務めておりました」
「そうか。お前が州都で情報収集をしていたという、アーベルの弟か。兄はどうした?」
「鴉軍と戦って、討ち死にいたしました。他にも、一族の者が大勢」
「そうか。大勢死んだな。いや、私が殺したのか」
「その様な事は。戦に出る以上、みな覚悟はしています」
「それで、用件は?」
「ここからは見えませんが、州都を挟んで向こう側に、朱耶軍が駐屯しております」
「そうか。それは知らなかった」
「昌国君の容体は、ゲオルク様ほど酷くはありませんでしたが、しばらく起き上がれなかったようです。しかし今は快方に向かい、近々軍の指揮に戻るそうです」
「お互い、死に損なったか。昌国君は、戦の続きでもする気かな」
「いえ。そのまま、領地に帰るという話です」
「そんな事は分かっている」
昌国君は、これ以上無益な戦を続ける様な人物ではない。帰るにしても、最後まで堂々と、馬に乗って帰るつもりなのだろう。
「朱耶軍を注視し、動きが有ったらすぐに伝えろ」
「はっ」
それからしばらく経って、朱耶軍は動き始めた。領地に帰るので、間違いない様だ。
馬には乗れないが、朱耶軍の行軍を見渡せるところまで行く事にした。見送りのつもりだった。
ゴットフリートは危険だと止めたが、危険は無い。あらゆる戦は、もう終わっている。
半ば強引に押し切って、朱耶軍の行軍を見下ろせる丘の上に行った。馬に乗れないが、輿などは無いので、ゲオルクは板に乗せられて運ばれた。
丘は、見送るには絶好の場所だった。朱耶軍が通るまで、まだ少しある。
「我らが昌国君を狙っていたら、この丘を取られるのは致命的なはず。昌国君も、よほど弱っているのでしょうか」
「ゴットフリート。昌国君は斥候を、常に何キロ先までも出す。我らの事も、とっくに捕捉されている」
「では、道を変えるかもしれませんね」
「違う。この場所は、私のために空けられたのだ。そうでなければ、こんな絶好の場所で、都合よく見送れるものか」
他の道を通ったとしても、朱耶軍には大して違いは無い。それでもあえてこの道を選んだのは、この丘があるからだろう。
昌国君はゲオルクが必ず来ると読んで、この道を選んだ。最後まで、思い通りに動かされてしまったという訳だ。
朱耶家の旗をなびかせて、隊列が近づいてきた。まず先陣。次に本隊の物見。やはり、一部の隙もない堂々とした行軍だ。
そして本隊がやってくる。先頭を、黒塗りの鎧兜に身を固めた昌国君が、胸を張って進んでいた。
ゲオルクは丘の上に立ち、それを見ていた。昌国君の首がこちらを向く。肩から胸に手を当てた。
見事な一撃であった。そう言っている。あなたと剣を交える事が出来て、光栄でした。心の中でそう答えた。心の中だけだが、伝わっている。
ぬかるんだ泥道を進んで、朱耶軍は北へ帰って行った。ゲオルクはそれを、見えなくなるまで見送った。
朱耶軍の姿が遠くなり。消える。それでも、歩んだ道に付けた足跡だけは、いつまでも残っていた。




