第8話 崩壊、米国巨大投資銀行
2008年の年始は1月4日の金曜日、渡会副社長を尋ねるところから始まった。
船橋室長(兼務株式部長)と山崎さん(兼務株式部長秘書)、私とシャロン(兼務金融研究部)の4人で挨拶に行く。
経営企画室と言いながら、私以外、全員兼務というのは心許ない。
図らずも、渡会副社長は年始の挨拶もそこそこに、船橋室長に牽制球を投げ始める。
「正月の商品相場は凄いもんだよ。寝転がって相場を見てたら原油相場がグングン上がってさあ。ウチもこれから商品取引に参入してみるのも面白いよなあ」
山崎さんが黒いクマだとすると、渡会副社長は白いクマようで、不思議と愛嬌がある点は通じている。
それに対して船橋室長は、凛として動じずに言う。
「どうやら投資銀行からの資金の引きあげの流れが原因で、今のところ余剰資金は商品市場に向かっているようです。その結果、原油と金の商品相場が怖いぐらいに上げてます」
昨年来、縮み続けたモーゲージ債券市場から逃げた資金の行き先が気になっていたのだが、商品市場、とりわけ、原油と金に逃げていたようだ。
しかも、原油はついに1バレル=100ドルを超えて史上最高値を更新しており、そのため、米国ではシェールオイルという、岩盤層にたまった石油を採掘するビジネスが盛んらしい。
「……それに、渡会副社長、商品先物会社はこぞって、金取引や外貨FXに宗旨変えしてるじゃないですか。隣の海の色は真っ赤ですよ」
「大発会の日ぐらいは景気良く冗談を言わせろよ」渡会副社長は丸顔の顎の部分を擦りながら、参ったなあと云う顔で私たちの方を見る。「ああそうか、経営企画室は今日からか」
ようやく本題に入ったので、船橋室長は私たちを紹介して言う。
「ええ、この山崎と優秀な若手二人を加えて、サブプライムローン・リスクへの対応に特化したタスクフォース体制です」
「社長室はどうするんだ?」
「社長室とは別ラインです。こんな有事でないと、現地法人組織に4人もの経営企画室要員は不要ですから」
船橋室長の『有事』と云う言葉に引っかかったのか、渡会副社長が訊く。
「有事か……想定される状況に鑑みれば、有事だよなあ。でも、船橋さあ、ぶっちゃけて言うと、ニューヨークの本社は日本法人の経営企画室設置に疑問符をつけている。現状が有事ということについても、否定している。やっぱり、ここは本社の指示通り動くほうが、賢明と思わないか?」
「経営企画室は日本法人の危機管理対応部署です。有事になった時、日本法人の状況が整理されていたほうが、親会社としても選択肢が増えて有利でしょう」
「日本法人の状況整理か。そんなこと、わざわざ、組織を作ってすることじゃないだろう。船橋、実際に何を企んでるんだ?」
渡会副社長は、船橋室長の言葉を、てんで信じていない様子だ。
船橋室長は困ったようにして、私の方を一瞥して言う。
「具体については、各投資銀行の決算が出てから、リスク評価の上で決定しますので、まさにこれからです」
「それなら、お前に付き合えるのは、3ヶ月だ。4月までには経営企画室としてのリスク評価と具体的な方針をとり纏めろ。特に問題がなければ、経営企画室は社長室と統合させる。現地法人を預かる者として存在意義の分からない部署を存続させる訳にはいかない」
「3ヶ月ですか……」船橋室長は少し考えてから言う。「分かりました。それまでには渡会副社長に、経営企画室を作っておいて良かったと首肯かせるような報告をさせて頂きます」
渡会副社長は、船橋室長の言葉を聞いて、形だけは経営企画室に期待を寄せるようなことを言う。
「とにかく、新組織を立ち上げた以上は、サブプライムローン問題に立ち向かえる実効性のある方策の立案を期待していますよ」
「はい、承知しました」
船橋室長は社長の意を受けて、言葉少なに社長室を後にする。
そして、2008年1月下旬。
アメリカの五大投資銀行(ゴールドマン・サッカス、モレガン・スタンレー、ダリルリンチ、リーマン・シスターズ、ベアスターズ)のFY2007決算発表は表面上、滞りなく行われ、各社、モーゲージ債の評価損こそ計上したものの、破綻リスクを仄めかした米国投資銀行は一切なかった。
この頃、クイックの端末にしきりに《米国中小金融機関の破綻の恐れ=米国要人発言=》という情報が流れたりしたが、これも、『恐れ』だけで実態はなかった。
そうしたガセネタが流れるたびに、私は会議室に閉じ込められて、船橋室長から俎上に上った企業の決算分析を任せられた。
それについては、やむを得ないとして、ちょくちょく、船橋室長がシャロンを呼び出して分析をさせるのには閉口した。
そういう、今日もモレガン、シチーなどの分厚い決算書がリリースされ、一日がかりでシャロンと分析に当たる羽目になった。
「いやあ、フォーム10Kなんて海外の決算書を分析することになるとはね。金融研究部にいた頃は、日本の決算短信に慣れていただけに、勝手が違う……ほんとうに、来てもらって助かるよ。ありがとう」
私は、建前上、手助けに来てくれている兼務の森村シャロンに礼を言う。
「わたしもフォーム10Kは初めてですが、椎野先輩のお手伝いができて光栄です」
まるっきりの嘘でもないのだろうが、まあ、言われて悪い気はしない。
「英語なんて大学のとき以来、まったくやってないからね。その点、シャロンは英語が得意そうじゃないか、それだけでも……」
「いえいえ、わたし、いつも勘違いされるんですけど、英語は大の苦手で。ほら、見た目からしてハーフとか帰国子女とか、思われたりしてますですけど、中身は全然違いますから」
満面の笑みで言われると、ツッコまざるをえない。
「え? 名前からして海外だし、英語は得意じゃないだけで、ふつうの日本人よりは出来るんじゃないの?」
「椎野先輩も意地悪ですねぇ、金融研究部のクォンツ・リサーチ・グループで一二を争う英語嫌いですよ、わたし」
え、そんなもので一二を争わないで欲しいのだが……
「一応、ハーフっていうのは嘘じゃありません」
しかし、ハーフなら、家の中は半分英語じゃないのか?
「父は、アーカンソーの出身ですが、大の日本好きで、家の中はふつうの日本の家以上に日本っぽいもので溢れてますよ」
私は、似非和室に『朝昇龍』と書かれた掛け軸がかかっていて、伊勢海老が飾ってあるような金ピカの床の間を想像しながら答える。
「なるほど、英語が駄目な日本人以上に日本人らしいんだなあ」
「褒めないでくださいよ、椎野先輩っ」
褒めている要素など微塵もない。
どちらかと言うと私を慰めて欲しいぐらいなのだが、少なくとも、鬱々とした孤独感を紛らわせるには救いになる。
あと、シャロンは長ったらしい英文財務諸表を読み下すのは私より早く、思ったよりも短時間で決算分析を終えることができた。
夕方5時を少し過ぎたところで、船橋室長が山崎さんと経営企画室に入ってくる。
「お二人さん、おつかれ。森村さん。ありがとう。助かってるよ」
シャロンには、なぜか昼の3時と夕方の5時に紅茶が出る仕組みになっている。
山崎さんが紅茶を持ってくると書類を片付けながら、紅茶セットを置くスペースを作り出す。
「いつも、有難うございます」とシャロンは頭を下げる。
「いやいや、やっぱり、餅は餅屋。俺なんて、海外の決算書なんて目が痛くて、脳がスポンジみたいに縮んじゃうからねぇ、いやあ、はははっ」
山崎さんは前のティーセットを片付けながら笑顔で対応する。
ちなみに、私は経営企画室専従なので、何も出ないのは仕方がないとして、最近、午後の紅茶に、お茶受けが出始めているのはどうしたことだろう。
今日なんて宮城銘菓『荻の月』なんて高級品が出されている。この前は兵庫虱月堂のゴーフレットだったような気がする。
やはり、法人営業の道は一日にしてならず。山崎さんは意外にマメな人だ。
船橋室長は森村さんに声をかけた手前と云うわけではないのだろうが、私にも声をかける。
「椎野、どうだ。決算書のほうは?」
「それが、示し合わせたような小さな損失しか出していません。ただ総じてキャッシュフローは悪化しています」
その言葉に、山崎さんはさらに嬉しそうだ。
「さすがに切れ者、椎野君でも、カンが鈍ってきたか。よし、気分転換にタバコでも吸いに行こうか」
山崎さんのお誘いを慇懃にお断りして、船橋室長に言う。
「決算書のトレーディング目的の債券の評価は時価と書いてあるんですが、これも曖昧ですので資金ショートまでもうしばらく『待ち』ですね」
船橋室長は神妙な顔つきで、私の隣の席に座って言う。
「さっきも、S&Pがモーゲージ債の格下げを発表したら、投資銀行の株価が軒並み最安値だ。傘下のファンドの払戻資金で行き詰まりを見せたところから投資銀行の破綻劇が始まるのは間違いない。だいたいでいいんだが、資金ショートまでの時期的なものは分からないか?」
「一番、危ういのはベアスタだと思われます。しかし、ここは社長がカリスマですので追加の資金調達も考えられなくもないのですが……」私は、やや、ためらうところはあったが、身内ばかりの席なので口にする。「ベアスタは3月には資金繰りに行き詰まると考えられます」
「ほう、3月か。何か根拠があるのか?」
改めて根拠と言われると困る。
私のカンと言うか、もはや、既視感のあるような気もするベアスタの3月破綻だ。
実際に、ベアスタの決算を見ると昨年暮れにファニー・メンから引き取ったプライムローンの証券化商品のローンチに失敗して、資金が固定化しているのも根拠として挙げられるがそれだけでは弱い。
なぜなら、プライムローンならバルク債権としてなら損失覚悟の売却は可能なので、破綻に直結するとも言いにくい。
私は、可能な限りの将来情報を交えて、さもベアスタが3月に破綻濃厚かのように誘導する。
「ベアスタが企図している住宅ローン管理子会社の上場が3月目処で、その関係のNYSE(ニューヨーク証取)の投資家ヒアリングが間もなく始まります。子会社上場と言えば聞こえはいいですが、サブプライムローン商品の売り方を変えただけですので、賢明な投資家であれば買わないでしょう。しかし、ベアスタは、その子会社上場による資金調達に期待しているようです」
「年末に抱えた住宅ローン債権を、子会社上場で処分するか……なるほど、ベアスタがね」
船橋室長は遠い目をしながら、目標を絞ったという感じで、そう呟いた。
2008年2月。
米国の住宅金融保証会社の経営不安が聞かれ、投資銀行の2007年決算の修正が相次ぐ事態となった。
もう、この頃の債券市場は国債、公社債の伝統的債券以外には、資金が流入しないようになっていた。
市場にばら撒かれたモーゲージ債(住宅ローン担保債券)の多くは引き取り手がなくなり、投資銀行傘下のヘッジファンドは資金繰りに行き詰まった。
そのため、既存のサブプライムローン債のリスクを更に細分化し、償還確実な上位の部分だけにAAA格付けを取得して売却するCDO2と呼ばれる更に胡散臭い債券が発行されていた。
それでも、多くの米国投資銀行の首脳は、嵐は一時的なもので、異常事態が正常化すれば、ふたたび資金がモーゲージ債市場に還流してくると勘違いしていた。
ヘッジファンドから流通しなくなったモーゲージ債を親会社の自己勘定で買い取り、気息奄々のファンドを延命させていたのだ。
資金難のサブプライムローン・ヘッジファンドを多く抱える投資銀行ベア・スターズは、サブプライムローン債券管理会社を直接IPO(株式公開)させようと最後の動きを見せていた。
当初、プライムローンを含む住宅ローン担保証券を安値で買い叩くと大きな宣伝をして、好感をもって受け入れられていた子会社IPOだが、共同引受幹事証券のダリルリンチ証券が土壇場で手を引いたことから、ベアスタの転落が始まる。
最終的に、ウォール街の投資家ヒアリングと需要調査では総スカンを喰らい、ベア・スターズ株式の下げは加速する。
そして、株価はついに年初来の半額になった。
このウラに船橋室長の作為があるのかと思ったのだが、尋ねるとうまく、はぐらかされてしまった。
2008年3月。
依然として、投資銀行系ヘッジファンドからの資金逃避は続いていた。
債券市場が悲鳴を上げ、FRB(米国連邦銀行制度委員会)が伝家の宝刀『流動性供給措置』で債券市場に最大2,000億ドル(20兆円)上限で公金を注ぎ込む事態になった。
そして、名門投資銀行ベアスターズは呆気なく追い込まれ、クイックニュースがFRBの苦渋の決断を速報で伝える。
《NY債券 FRB 3日物レポ取引で45億ドルの緊急資金供給=JJ》
《FRB、ベアSに対する流動性供給に満場一致で賛成=速報=》
《NY株式 ベアS報道に落胆し急落、ベア株一時50%安=NQK》
2008年3月14日深夜(日本時間)、市場の批判を浴びながら、FRB(米国連銀)は商業銀行のJPモレガンを通じて公金投入に踏み切った。
ついに、米国巨大投資銀行の一角、ベア・スターズが崩壊した。
※モーゲージ債(MBS=Mortgage Backed Securities)……住宅ローン(=モーゲージ)を担保として発行される債券で、モーゲージバック証券、住宅ローン担保証券とも言う。サブプライムローン債も、モーゲージ債の一種で、2005年以降、住宅ローン債務破産が相次いで発生すると、サブプライムの呼称とともにリスクの高い商品として一躍有名になった。
※フォーム10K……米国における決算短信。有価証券報告書に該当するもの。このほか、四半期報告書に該当するフォーム10Q、臨時報告書に該当するフォーム8Kなどがある。米国の場合、決算短信の開示は大企業の場合には決算日後60日以内と決められている。
※宮城県の銘菓は『萩の月』であり、兵庫県の有名なゴーフレットは『風月堂』であることは、論を俟たない。
※モーゲージ債を親会社の自己勘定で買い取る……サブプライムローン債券を購入した投資家から債券の払い戻し請求を受けた場合、債券を組成したヘッジファンドには買い戻す義務はなく、市場で再売却されることになる。しかし、そこで大幅に債券の価値が下落していることが明らかになると、取り付け騒ぎになりかねないため、一部では債券の買い取りが行われていた。