第7話 親会社を倒す!?外資系に生まれた経営企画室
船橋部長と会うのは、2年ぶりになるだろうか。実のところ、わからないのだが、今の記憶の中では、入社の際にアナリスト担当銘柄を10社ほど引き継いで以来になる。
指示された会議室に入ると、既に船橋部長ともう一人、中年のガタイの大きな男が何か会話している。
ドアが開くのに応じて、船橋部長が私に話しかけてくる。
「ようやく来てくれたね、椎野君、久しぶり。レポート、読ませてもらってるけど、さすが帝都大だね。私のときより指摘が鋭いなあ。会社から嫌われてないか?」
船橋部長の卒のない対応に、私は多少緊張気味だ。
「あ、有難うございます。会社のIR担当者からは嫌われていないつもりですが、肝心のダウンロード数が伸びないので全然、まだまだです」
「おいおい、私が担当していたときより閲覧は増えてるじゃないか。充分、充分」
船橋部長は笑顔で私の肩をポンと叩いて、背伸びをする子をあやすように言う。
そして、船橋部長は、目を転じて私の隣のシャロンにも声をかける。
「いやいや、森村さんもわざわざ呼び立てて済まない。先に紹介しておこう。こちらは、部長秘書の山崎だ」
「株式部の船橋部長の秘書、山崎です。正義と書いてまさよしです」
1メートル80センチ、80キロといったところだろうか。
船橋部長と異なり、愛嬌たっぷりの大きな熊のぬいぐるみのような色黒の男が名刺を差し出してくる。
「金融研究部のシニア・アナリスト、椎野憂です」
「同じく金融研究部のクォンツ・リサーチの森村シャロンです」
社内の名刺交換会も早々に切り上げ、4人でソファに腰を落ち着けると、船橋部長が口火を切る。
「君たちのレポートだが……実のところ致命的なインサイダーに触れる部分があって、ダリルリンチ社として公表することが適切じゃないと判断された」
「えっ……致命的なインサイダーですか?」
「レポートの指摘通りなんだろう。
うちの本家、米国法人自体がサブプライムローンに深く関与していて、身動きが取れないほどに不良債権残高が膨れ上がっているらしいんだ。
ニューヨークの同期が、たまたまバリダ・ショックのときに教えてくれてね。
その同期に君のレポートを送ったところ、『非常に示唆に富むレポートだが、ダリルリンチ自身の神経質な部分に触れている。インサイダーなので理由は言えないが、レポートは公表しないで欲しい』とね」
すると、これまで船橋さんの隣で、もの静かにしていた山崎氏が、鼻の穴をぷくりと広げて云う。
「ああ、同期でニューヨークの平阪だよね。いつもエラいからって、本当に偉そうにしやがって。素直で、ヤなやつなんだよねぇ」
人を腐すのに、これだけ愛嬌のある笑顔で言われると嫌味がないから、人間は不思議だ。
それを聞いていたシャロンが、船橋部長に異を唱える。
「しかし、レポートの内容については、アウトサイダー情報を積み重ねれば誰でもたどり着けてしまいますよ。アナリスト倫理規則にもガイドラインにも抵触してません。公表を控えるなんて信じられません」
船橋部長は、シャロンのそうした反論を意に介する素振りはない。
「ああ、確かに……事実を積み重ねても真相に迫れないレポートが多い中で、椎野君と森村さんの指摘は核心を突いてしまっている。
この点、投資家サイドは、東京のレポートとウォール街の決算書が食い違っているから不信感を抱いてしまう。
米国本社としても『決算書上、米国証券法に則って適切に開示しています。
どこかのアナリストレポートは、投資の参考情報ですので決算書とは異なります』と言った紋切り型のプレスリリースでは、もはや乗り切れないと感じてしまっているくらいにセンシティブだ」
船橋部長は視線を切って明後日の方向を見ながら言う。
「いまの時点で森村さんたちもインサイダー情報の受領者になったから話すが、わがダリルリンチ・グローバー証券の米国法人はサブプライムローン証券を未だにAAA格だとして決算上は特段の開示もせずに保有している。
そして、その足元では、実際、かなりの額で傘下のサブプライムファンドから投資家が逃げ始めている。
そんなときに、身内から憶測でも金額が出ると数字が独り歩きする危険性が高い。
だから、ダリルリンチグローバー証券としては市況レポート、業界レポート、銘柄レポートの種類を問わず、この件については情報を出せない。ここまでの理解は良いかな」
シャロンは、いつになく神妙に船橋部長の話に耳を傾けている。
それにしても、椎名憂という男は、大変なインサイダー情報を聞かされてしまったものだ。
そして結果的に、7日間の不眠不休を押してのレポート作業がボツったというのは残念過ぎる。
しかし、レポートのおかげで米国法人本体が助かれば、日本法人も助かるという算段だ。
ならば、これも給料のうち、意味はあったのかも知れないと思って、私は尋ねる。
「それでは、米国本社は損失リスク回避に向けて動いているんですね」
その声に応じた船橋部長は、私には視線もくれずに目を下に落とす。
「いや、それがロットがデカくて簡単では無さそうなんだよ」
「そ、それじゃあ……」
いったい、米国本社は何十億ドルの額面のサブプライムローンを保有しているのだろう。
危険が分かっているのに、既に獅子身中に虫を飼ってしまっているのが悔やまれる。
頭が真っ白になりそうになったが、船橋部長が冷静に話を続けているおかげで、私もどうにか平静を装うことができた。
「まあまあ、毛唐のコトはどうでもいい。我々としては、日本法人が傾かないようにしないことが重要だ。そうだろう?」
えっ、米国本社の皆さんを『毛唐』と呼びませんでしたか、船橋部長?
私は一瞬、前につんのめるような感じがして、慌てて上体を立てる。
「ふ、船橋部長。米国本社はどうなってもいいんですか?」
「ことここに至っては仕方がない。私はダリルリンチの株主じゃなくて、日本の現地法人で雇用されている一社員だ。仮に本社が傾いて現地法人を投げ売りせざるを得ない状況になっても、よりよい買い手に買ってもらえれば何ら困ることはない」
涼しい顔で居直った船橋部長は、見れば見るほど冷静にコトを判じているようだ。
それに対して、すぐに熱くなる自分が未熟過ぎるようにも思えてならない。
確かに、米国本社が倒産しても、日本法人が優良子会社なら他の外資系か、他の金融機関に売却されるシナリオが生まれる。
「それでは、船橋部長は、日本法人が傾かないように、何をするべきだと思われているんですか?」
私は、まるで子供のような質問をしてしまうが、意外な反応が返ってくる。
「いやぁ、その話を君たちに聞こうと思って、今日、足を運んで貰ったんだがね。はっはは……」
船橋部長が苦虫を噛み潰すような顔をして、笑いを噛み殺している。
「ところで、二人とも、将来はうちの萩丘鉄男や、玲・チャールス・ロイドのような看板アナリストを目指しているのかい?」
船橋部長の問いかけに、唐竹を割ったかのような回答をシャロンは言う。
「いえ、わたしは文章を書くのが苦手ですので、証券アナリストになろうとは思いません」
私はどうかと云うと、目指したいところだが、せっかく、売れそうなテーマを見つけたのに、公表できないという不運に巡り合ったというわけで、どうしようもない。
やむなく、シャロンの言に首肯して追従する。
「いえ、目指したいのは山々ですが、アナリストレポートのほうがさっぱりで……」
無理ですとはいえないし、難しいというラインにも乗っていないので、今は語尾を濁すしか無い。
「なら、二人とも経営企画室に来ないか。本来、金融危機への対応なんかは社長室の仕事だが、うちの米国本社の方針を後追いするだけの社長室では心許ない。サブプライムローン商品による米国本社への打撃はやむを得ないにしても、ここまで大きくなった日本法人を巻き添えにはできない。ちなみに、米国法人は内々にメガバンク相手に日本法人の売却に動いてるフシもある」
――――え、本当なのか。
これはアナリストレポートなんて書いてる場合じゃないだろう。さっさと経営企画室とやらで、日本法人の生き残り策を見つけ出さないと、米国法人の倒産に巻き込まれてしまう。
クビを縦に振るしかないと思っていると、シャロンが訊く。
「その経営企画室というのは、その……最後はどうなるんですか?」
「最後というと、無事に金融危機を乗り切ったらということか。それは会社にとってはめでたいことだが……」船橋部長が思案顔で言う。「最後は解散ということになるだろう。その際には君たちの希望に合うような部門に転属させるようにする。それでどうだ?」
シャロンの思わぬ一言でとんでもない報酬がぶら下がる。
前提条件として、日本法人が然るべきところに落ち着いたらというミッションがあるものの、次の配属部署を自由に選べるらしい。
はい喜んで、と言おうとしたら、また、シャロンに遮られる。
「そう言われても、わたし、特に行きたい部署もないですし……いえ、知らないだけかもしれませんが」
何故か、あなたはどうなのよと云うような目で、シャロンが視線を送ってくるので、私は促されるようにして言う。
「希望部署は、今、この場で決めないといけませんか?」
「いや、状況が落ち着いたらでいい。そもそも、危機がいつ来るかなんてこと自体、約束されていないからね」
「それと、立ち入ったお話で恐縮ですが、船橋部長は、経営企画室とどういう関係になるんでしょうか?」
「部長会での内諾ベースだが、私が株式部との兼務で室長になる予定だ。頭の固い渡会副社長だけが、社長室があるから要らないんじゃないかと言っているけどね。そのお陰でこうして隠密裏に、内部人事を進めている訳なんだがね。いま、人員で専従が決まっているのは、この山崎だけという心許ない状況なんだ」
「まあ、アメリカ五大投資銀行の一つダリルリンチが立ち往生しかねない未曾有の事態ということで、俺ぐらい優秀な人材がゴマンと必要なんだよなあ」
心許ないと言われた山崎さんが強弁する。
「分かりました。私は経営企画室への異動、いつからでも構いません」
私の言葉に、船橋部長が安堵の表情を浮かべる。
「椎野君、ありがとう。あと、森村さんも早く答えを出してもらえると助かるんだが」
私はシャロンに何も促すつもりは無かったが、視線を向けると、彼女は決まりが悪そうに答える。
「わたしも決して断るつもりではないんですが、今のクォンツ・リサーチで担当している仕事も面白いので……」
「じゃあ、しばらく兼務ということでどうだろう。金融研究部の小山内部長には、こちらから話を通しておくから」
シャロンの曖昧な回答を、そのまま形にしたような提案に彼女も首肯く。
「なら、これで経営企画室は準備でき次第、発足だ。今後ともよろしく頼むよ」
そう言って船橋部長と握手をすると、思いもかけず暖かくて大きな手だということに気付かされる。
「森村さんも、兼務で大変だと思うが、社運がかかっている。力を貸してくれ」
「はい、こちらこそ」
シャロンも満更ではないようだ。
そして、2008年1月にダリルリンチグローバー証券日本法人に、経営企画室が正式に発足した。
※IR……インベスターズ・リレーション、株主・投資家対応のこと。これに対して広報対応はパブリック・リレーション、PRと言う。上場企業に特有の担当部署。
※AAA(トリプルA)……債券の償還可能性が極めて高い場合に付与される最高格付け。デフォルト率はほぼゼロで、償還がほぼ確実視される。
※経営企画室……企業の将来の経営計画について、その策定、役員会での決定、管理について執行する部署。外資系証券会社の場合、海外の本社から伝えられた計画数値を管理しているだけの場合が多い。