第6話 債券の時価なんてガラクタなんだよ
「森村、おはよう。いったい何がどうしたって、えっ? おい」
時間をおいて振り向いた刹那、森村は音もなく、廊下から化粧室に消えていた。
彼女の席の付近を見ると、脱皮した皮のように脱ぎ捨てられたシュラフに、スーツの上下とブラウス、そして靴が綺麗に置かれている。
なるほど、寝起きだったかと思いつつ、さっき走っていった森村のアラレのない姿を想像して私も目が覚める。
とりあえず、このままでは彼女が化粧室から帰ってこれなくなるだろうからと、せめて、着るものを持って化粧室に向かう。
「おい、森村っ」
化粧室の入り口にでも置いておこうと思って女性用化粧室の前で声を掛けると、消え入るような声が後ろからする。
「は、はぃ……」
見ると、一糸まとわぬヌードより艶っぽい下着姿の森村がいる。
わぁ、どうする、どうする。止まらない視線と、走るリビドーと、張り詰める緊張感。
オフィスにも関わらず、ブラウスを羽織っただけで、清潔感のある薄水色のブラとお揃いのパンティをチラつかせる女子社員が、眼の前にいる非日常感が半端ない。いや、実況解説は不要だ。
私は、形だけでも左腕で顔を覆って、右手でスーツとブラウスを差し出す。
とにかく、手にした衣服を渡さないとと思う使命感が第一で、ラッキースケベの連チャンコースを狙ったわけではない。
「あ……有難うございます、先輩。お願いですので、目は閉じたままで戻っていて下さい」
結局、森村は、私の手からひったくるようにして着衣を手にし、逃げるように化粧室の陰へと消えていった。
森村がロックアウトされないよう、しばらく6階の金研の入り口の近くで待っていると、スーツ姿に身を変えた森村が化粧ポーチを片手に戻ってくる。今日はちゃんとIDは持っているようだ……って当たり前か。
「今まで、誰にも気付かれなかったんですが……まだ7時前じゃないですか。先輩、早く来すぎです。ひょっとして泊まりだったんですか」
それを言うと、法人営業部の単身赴任組は、借上社宅から自転車で朝7時半には出て来ている。
「いや、森村、その……レポート、急いでもらって悪い。大丈夫だったか?」
森村はバツの悪そうな顔で、視線をそらしながら言う。
「大丈夫ですよ、わたしもアナリストですから……これぐらいの仕事の無茶ぶりには慣れています。レポートで使えそうなサブプライムローン商品の評価と保有構造について、JPモレガンが出しているレポートにあったので90年代後半から時系列で調べました」
森村の差し出す分厚いレポートには、過去10年間にわたってサブプライムローンから組成されたローンチ商品、AAA格債とされた部分、メザニン債とされた部分の嵌め込み先ファンドが年次で記載されている。
「確かに、このファンドネームからサブプライムローン債券の投資銀行別の保有概況を追いかけるのは不可能じゃないが……恐ろしく手間だったんじゃないか」
「データ操作はクォンツ・リサーチの十八番ですよ、先輩」
こともなげに言う森村は長椅子で仮眠したせいか、しきりに体側を伸ばして身体のコリをほぐそうとしている。
日本橋の朝陽に浮かび上がる彼女のボディラインに、私は先ほどのシーンがフラッシュバックして思わず息を呑む。
その彼女が叩き出した米国投資銀行の隠れ債務は約1兆ドル。
私はギャップに戸惑いながらも、驚きを隠せない。
なにより、リーマン・シスターズや我がダリルリンチ、モレガン・スタンレー、ゴールドマンなど、具体的な社名まで出てきている。
レビュー委員会からツッコまれたら、とても私だけで答えられるような気がしない。
「このレポートなんだけど、今日にも査読に回したいんだが、森村シャロンと椎野憂の連名で出しても良いか?」
おそるおそる言った私に、徹夜明けでハイになっているのか、森村はこう言った。
「それでしたら、シャロン・M・サイラスでクレジットして下さい。あと、椎野先輩。わたしのことはシャロンと呼んで下さい。なんと言うか、森村は母の旧姓ですので、ちょっと懐かしいというか、変な感じなので」
なるほど、森村家とサイラス家の間に生まれたので、シャロン=森村=サイラスなんだっけか。
「分かった、シャロン。早速、これはレビューに回すとして、すこし教えてもらっていいか……」
私は、口はぼったくなりながらも、シャロンに最大の関心事を尋ねる。
「シャロン、このアナリストレポートの通り、サブプライムローン商品債券が不良債権だと言うからには、債券の時価は暴落していることになるだろう。でも、サブプライムローン債券の時価がニュースになったのは、この前のパリバショックのときぐらいじゃなかったっけ?」
それを聞いたシャロンが、急速に目つきを胡乱げにする。
「椎野先輩、ひょっとして債券の時価ってご存じないんですか?」
「え、市場の引け値じゃ……ない……な」
そう言う私を見て、シャロンは悪戯っぽく笑う。
「そう、債券市場は取引所がないので市場時価はありません」
断言された。そうだ、そのとおりだ。
債券市場というのは、米国債や日本国債のように市場らしきものが存在し、店頭取引価格が公表されているのが例外で、通常は担当者の相対取引による『見えない』市場だ。
サブプライムローン問題で最も致命的だったのは、そうした脆弱な債券市場で、債権の階層化手法とクレジット・デフォルト・スワップ(債権が回収不能になった場合に払い戻しが受けられる金融商品)で化粧を施したサブプライム証券が、格付け会社によって最高格付けが付与されたことだ。
そのため、ウォール街ではサブプライムローン証券は安全・高利回りで人気を呼び、多くのファンドが組成されてしまった。
「ああ、そうだな」私は、債券市場に証券取引所みたいな立会組織がないのは知っていたが、そうすると疑問が湧いてくる。「……とすると、よく投資銀行の決算書に書いてある『債券は金融資産の時価で評価している』って何なの?」
「合理的に算定された時価と言われますけど、その実、適当なんですよ。
日本国債と同格付けの債券なら、ターム(残存期間)が同じ国債の直近値を使ったり、モーゲージ債ならABS(資産抵当債券)のイールドカーブから適当に出すんですよ。ほら、ブルームバーグを叩くと出てくるでしょう?
あと、サブプライムローン債券みたいな満期保有目的の金融商品だと額面を基準に逆算しますしね」
そんな適当なものが、投資銀行の決算書で時価とされているというのも眉唾だ。
「シャロン、それって日本でもアメリカでも、そうなのか?」
「あぁ、なるほど。椎野先輩は金研でも株式アナリストだから、変な問い合わせとか来ないんですねぇ。
クォンツには春先になるとモーゲージ債とか買ってる銀行や企業とか、監査法人とかから、いろんな債券の時価の照会が来るんですよ。
債券に市場時価なんて無いって投げ返してた時期もあるんですけど、適当に時価を作らないと決算が出来ないって言われて……今はなぜかクォンツ・リサーチの仕事になってるんです」
おお、時価を適当に作るとは、クォンツ・リサーチって訳が分からん程度にクリエイティブだ。
そうすると、決算書の言うサブプライムローン商品の時価が額面評価というのも、まんざら嘘でもなさそうだ。
当然ながら、格付けの悪化しているサブプライムローン債券の格付け変更依頼なんて、発行体が要請するはずがない。
そして、格付けの変わらない債券は昨年と同じ『合理的な時価』でもって評価される。当然、損失は出ない。
よって、米国投資銀行各社はサブプライムローン債券の再評価という爆弾を抱えながら決算をしていることになる。
これは、サブプライムローンのリスクを初めて定量的に推測したという点から見て、かなり含意のあるアナリストレポートじゃないだろうか。
私は、居ても立っても居られずに、手直ししたアナリストレポートを査読に回す。
これは、世界の投資家を震撼させるレポートになるのかも知れない。そう思うと、ちょっと、そわそわした気分になる。
自分でも、こんなにリリースが待ち遠しいレポートは初めてだ。
もし、世界的に金融不安を煽っているサブプライムローン商品の正体を突き止めたとなったら、日本人初のノーベル経済学賞も夢ではないのかもしれない、と思う程度には浮ついている。
加えて、将来のマネージング・ディレクター昇進とサブ・ロー・コメンテーターとしてのテレビ出演に、各種講演のオファーまで織り込んでしまう。
そんな夢見心地の私だったが、結果から言うとレポートはリリースされず、保留となった。
その代わりに、かつての上司、船橋トレーディング本部・株式部長から直々に会って話が聞きたいと呼び出しがかかる。
喜んで良いものか、悲しんで良いものか、分からないまま、私は呼び出しに応じることにした。
私は、シャロンに内線で要件を伝えると、8階のトレーディング本部のフロアで待ち合わせることにした。
※ローンチ……債券を発行すること。Launchから来ている。これをランチ、乃至、ランチする、と言う流派はない。
※メザニン債……メザニンは中二階のこと。債券を発行する際に償還が優先される部分(AAA格が取得できる部分)と、売却しない劣後債の間に残った部分をメザニン債という。ミドルリスク・ミドルリターンの債券。
※格付け会社……債券の償還可能性について、投資家に対して目安となる指標を提供する会社。格付け会社に依頼されて内部情報を精査して出される『依頼格付け』と、依頼なく外部情報だけで出される『勝手格付け』が存在する。有名な格付け会社として、S&P、ムーディーズ、フィッチ、そして、国内系のJCR、R&Iがある。比較的厳格な海外3社と、緩い国内2社の格付けには慢性的な差が生じており、海外3社のレーティングを『ソト格』という。
※イールドカーブ……残存期間が異なる債券の利率をグラフにしたもの。横軸に残存期間、縦軸に債券などの利率をとると、期間が長くなるほど利率が割高になる曲線グラフが得られる。