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北日本旅客鉄道の行方 ~孜々営々のハイエナ~  作者: 錦坂茶寮
Ⅰ.金融爛熟 ~リーマンショック篇~
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第5話 瞳を閉じて

 さて、勢い良く書いては見たものの、サブプライムローンリスクについてのアナリストレポートの結論が悩ましい。


 米国投資銀行は、サブプライム商品で何十兆円にものぼる莫大な不良債権を抱えています、資本市場の危機になるほどです、と言い切れれば、花形アナリストも真っ青といったところなのだろうが、米国投資銀行各社の決算書によると『保有資産(サブプライムローン債権も含め)は時価で評価されています』と断言されてしまっている。


 こういうときに、頼もしき後輩がいればと思いを巡らせると、同じ金研に森村シャロンという同じ帝都大卒の美女がいたのを思い出した。


 確か、同じ金研の6階、クォンツ・リサーチ・チームに配属されていたはずだ。


 そう言えば、二年ほど前の入社挨拶以来、とんと会っていない。

 果たして、まだ、ダリルリンチ社内にとどまってくれているだろうか。


 私が社内のメールアドレスに『Sharon』と入力して社内アドレスを検索すると、あえなく0件と結果が出た。


「やはり消えていたか……仕方がない、部長に相談しよう」


 私が、6階の小山内部長の部屋を目指していると、なぜか、いないはずの森村シャロンがエレベーターホールの隅にいる。


 彼女の日本人離れした顔立ちとプロポーションは見紛うはずはない。

 なんという僥倖ぎょうこうだろう。


 森村と視線が合うと笑顔で挨拶をくれるので、私は少々照れくささを感じながら、そして図々しくも依頼心旺盛に尋ねる。

「あの、森村さん、忙しいところ申し訳ないんだが……その、少し教えてもらいたいことがあって」


「は、はい。なんでしょう? 先輩」

 少し恥ずかしそうに答える森村は、それは可愛くて、不覚にも胸がドキッとした。


 しかし、なぜ恥ずかしそうな素振りなのかは分からないが、森村シャロンが会社を離れても、私のことを帝都大卒の先輩と認識してくれていることに、ちょっとばかり感動していた。


 持つべきものは良き後輩である。

「帝都大では工学部だったんだっけ?」

「すごいです、先輩。よくご存知ですね」


「理系の後輩だったから、その、入社の時の挨拶が頭に残ってて……」

「と云うことは、椎野先輩も、ひょっとして帝都大ですか」


「いや、森村……その『先輩』と云うのはひょっとして」

「社内の方は皆さん、先輩ですから。つい……それで、帝都大の工学部について何かご質問でも? それとも私に何かご質問でも?」


 ちょっと、私の感動した心を元の位置に戻すのを手伝ってくれないかと思いながら、森村には悪気はなかったのだと思い直して、話を本題に戻す。


「いや、大学は関係ない。実は、いま、サブプライムローン商品について調べていて……」

「あ、先輩、ラッキーですよ。わたし、いま、サブローちゃんの専門家ですから」


「サブ・ロー・ちゃん? ああ、サブプライム・ローンのことか。その専門家? お前が?」

「まあ、疑うなら、聞いてみて下さい。世界中のサブローについての詳細な情報を握っています」


「それはすごいな。それじゃあ……」

 説明しかけた私は、ほぼ、7昼夜を徹してレポートを書いており、頭がぼーっとして口ではうまく説明ができそうにない。

 悪いが、頭を下げて査読前のレポートを、自称『サブ・ローちゃん専門家』の森村に読んで貰った。


 下にも置かない扱いに、森村はまんざらでもないようで、エレベーターホールの脇のスペースでレポートに目を通し終えると、まるで査読委員のようにこう仰った。


「タイムリーな着想と、サブローちゃんへの知悉、愛情は素晴らしいものがあります。

 論文や他のレポートからの引用も適切です。

 このまま、頑張って結論まで書き切りましょう。

 それでは先輩、ご検討をお祈り申し上げます」


 そこまで言うと、なぜかダッシュで立ち去ろうとする。

 私は大慌てで、森村の腕を掴んでどうにか逃げられないようにして言う。


「森村さん、失礼を承知でお願いだが、レポートの結論の部分を手伝ってくれないか。サブローちゃん専門家としての、それなりの報酬も出すから頼む」


 私がそう言うと、『報酬』の言葉に反応したのか、森村シャロンはとびきりのキメ顔でこう言った。

「それじゃあ、報酬は、おすしで手を打ちましょう。それでは、こちらに元のファイルをメールして下さい」


 報酬はスシ? そう言えば、森村っていわゆるハーフの帰国子女だったか。

 たしかに外観を裏切らないものではあるが、鮨もピンキリ。

 だが、藁にもすがる思いの私は二つ返事で応じる。


「ああ、助かる。スシは約束するから、よろしく頼む」


 まあ、社外協力を仰いでいる以上、回転寿司ぐらいなら安いものだ。


 そう思いながら、メモで渡されたメールアドレスを確認すると『Charon_M_Cyrus@』以下、ダリルリンチ・グローバーの社内アドレスだ。


ーーーーおい、退社してないじゃんか、シャロン=森村=サイラス! いや、つづりがCならカロン=森村=サイラスじゃないか。



 呆気にとられながらも、5階への階段からとって返して、森村シャロンを掴まえる。


「あれ、先輩。どうかしましたか?」

「森村、いつもぶら下げているIDホルダーはどうした?」


「先輩、優しいですね。気づいて下さってたとは助かりました。じつはIDカードを机の上に忘れてきて、ロックアウトされていたんですよ」


 エリート証券レディが、大ポカをやらかしていたことに、少し安心して私は奢りの件について、何となく言う機会を失してしまった。


「……ずっと、エレベーターホールに立ちっぱなしで、扉が開くとダッシュする姿勢を見てると、誰でも分かるさ。ロックアウトされてるなら言えばいいのに」


「いえ、わたし、ロックアウトは日常茶飯事ですし、先輩の手を煩わせて……その報酬のお鮨が減るのも気がかりでしたので」

「報酬を減らすなんて……ケチなことは言わないよ。はい、これで開いた」


 私が半ば呆れてIDをかざして扉を開くと、森村シャロンは頭を深々と下げてクォンツ・リサーチ・グループの面々のなかに消えていった。


 5階の自席に戻った私は、すっかり疲れてしまって、それ以上の仕事は躊躇ためらわれた。

 早々に原稿を森村シャロンに送って、残っていた雑用を済ませて、その日は自宅に戻って眠ってしまった。


 レポートの期限がない時の証券会社の退社は意外に早い。





 翌朝、朝食持参で出社した私はメールのタイムスタンプを見て驚いた。

《Charon.Morimura.Cyrus 04:55 Re:サブ・ローちゃんのレポートファイルの件》


 私は、会社で朝食を取るため、大体7時前には出社しているので、メールは2時間ほど前ということになる。

 さらに、出来上がったレポートを見て二度、驚いた。


 『米国五大投資銀行の自己勘定のトレーディング資産約2兆ドルを分析した結果、半分以上が明らかにサブプライムローン商品の債券と想定される』らしい。


 そして、サブプライムローン証券化商品のほとんどが引当金を積まざるを得なくなる恐れがあるとまで言っている。その額、日本円で約100兆円だ。

 これを真に受けると、日本の国家予算レベルの資金が米国の住宅ローン不良債権処理で吹っ飛ぶことになる。



 私は、急いでファイルをプリントアウトしてクォンツ・リサーチのある6階に足を向ける。

 同じ金融研究部だけにロックは開くが、さすがに朝の7時前では、誰も職場にはいないよなあ、馬鹿なことをしたものだと扉の前で独り言ちていると、後ろから、か細い声がした。


「椎野先輩……おはようございます。すみませんが、まず、目を閉じて下さい。あのっ、絶対にこっちを見ないでください」

※社内メールアドレス……なぜか、日本法人でもファーストネームで検索させるので、結局、よく仕事をする仲間内は、フルネームで覚えるハメになる。


※クォンツ・リサーチ(実在企業ではないほう)……大量のデータをざっくり分析をして、結論を導き出すスキルを手に入れたアナリストのこと。データ量で勝負されると、異論はあっても「誤差の範囲内」で押し切られてしまうことが多い。


※すし……鮨、寿司、スシが、同音異義語であることを知るのは、賭けで勝つか負けるかした時の醍醐味でもある。無論、金額の高い順に鮨>寿司>スシ、であり、寿司以下は回るベルトコンベヤに乗ってくる。

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