第3話 森村シャロン
7月まで、引き継いだ銘柄ファイルは電子ファイルを別にしても、かなりの量になった。
1社につき、過去3年の投資家説明資料が、キングファイルに容赦なくファイリングされている。
引き継ぎ当初は覚えていた話も、7月下旬の第1四半期決算短信が出回る頃には、すっかり抜けてるものも多く、キングファイルを読み返し、引き継ぎメモを見ながら対応する。
この仕事を真面目にやっていると、昼間は決算発表や業績修正への対応で、まったく時間がなくなってしまう。
そのうえ、日本の会社の決算期は3月決算集中なので、4月、7月、10月、1月は毎週100社を超す決算発表が行われる。
そのため、残業が常態化し、通勤時間が惜しく、家にすら帰れなくなる日々だ。
まさに、瞬く間に日々が過ぎていった。
さて、新卒リサーチ・アナリストとなると、給与は外資といえど高くはない。モデル給与で600万円ほどである。
このモデルというのが、去年の実績から予想される支払額で、残業代込みとなる。
時間給にすると酷く、時折、食事をとりに行く牛丼屋のアルバイトの深夜時給に実質で負けていたのは確実だ。
おそらく、労基の定める都内の最低賃金にも満たない程度かもしれない。
食事が取れる日はまだましで、不規則な生活と乱れた食習慣で、体重は1年で10キロほど減り、腕時計が緩くなるほど腕から肉が落ちてしまった。
ただ、道を極めて花形アナリスト(職階はマネージング・ディレクター)となると、待遇は全く変わる。
個室と移動用の車が用意され、年俸は最低でも4,000万円の天井知らず、しかも、メディア露出が多くなり出版や講演などの依頼も受けることになる。
こうした副収入については、外資系は極めて寛容で、すべて個人の副収入として懐に入る。
私は、アナリストとして、しばらくの間、ひたすら決算資料の数字更新と字面の更新を続けながら、マネージング・ディレクターの花形アナリストを夢見て切磋琢磨した。
ダリルリンチでの金融研究部の兵隊であるアソシエイトとアナリストの仕事は、『ダリルリンチ・日本株400』という、大型株、中型株の中から選ばれた400社を継続ウォッチして、『強く買い推奨』『買い推奨』『中立』『売り推奨』『強く売り推奨』の5段階レーティングをするセルサイドのアナリストレポートを供給することだ。
そのアナリストレポートを作成するのが、金融研究部のお仕事なのだが、『ダリルリンチ・日本株400』を担当するアソシエイトとアナリストは実働で20人ほどしかいない。
実働というのは、実際にレポートを書く人の数ということで、不思議なことに花形のアナリストともなると本の執筆や講演、テレビの仕事で忙しく、レポートはほとんど書かないのだ。
私は1年目にして22社もの銘柄を担当し、決算は四半期に一度、年間延べ88本もの決算短信を整理し、アナリストミーティングにも出席した。
それに加えて、業績修正などのイベントも発生するので、休みなんてない。
アナリストレポートでは、昨年のレポートに合わせて、決算数値を更新し、会社公表の数値や業界動向を踏まえて、字面を更新する。
ちなみに、表紙の投資判断はレビューの際に、シニア・アナリスト以上の社内審査を経て確定することになる。
ただ、腐るほどの仕事をこなしているおかげで、年収の方もモデルより150万ほど上がる。ハズレと思ったセルサイド・アナリストも捨てたものではない。
――――2007年4月。
3年目になった私は、証券アナリストの資格試験にも無事受かり、職階もシニア・アナリストに上がって担当会社も少し減らすことができた。
そして、金融研究部にも待望の新卒社員が入ってきた。私と同じ帝都大学卒で学部では金融工学を専攻したリケジョで、風の噂によると父方がアメリカ人のいわゆるハーフでかなりの美人さんとのことだ。
伝わってくる話では、配属がクォンツ・リサーチ・グループで、同じ金研といってもフロアも一つ上の6階だ。ひょっとすると、次に顔を合わせることもなく、消えていなくなっているかもしれない程度に儚い縁だ。
初出社の日に、新人ということもあって、義理堅く5階の証券アナリストグループのほうにも挨拶に来た。
噂通りの美人だが、私には違和感があった。シャロンとは、どこかで会っている気がする。俗に言う既視感は、疲労の蓄積によって脳が見る幻覚だとも聞く。
おそらく、働きすぎなんだろう。私はそう思い込もうとしたが、さらに追い打ちのように聞いた事のある声がする。
「この度、金融研究部クォンツ・リサーチ・グループに配属になりましたシャロン=森村と申します。何かと至らぬところはあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」と言って、シャロンは愛想よく微笑む。
名前から受ける印象とは違い、正真正銘の日本人より発する日本語は美しく、流れるように鼓膜を揺らす。
アメリカ系のいわゆる『ハーフ』とのことだが、茶髪に少し青みのある眼以外、ふつうの日本人と何ら変わるところはない。
ただ、目鼻立ちはハッキリしていて、口唇はぷるんとしてナチュラルピンク。
付け加えるなら、スーツの上からも分かる程度にプロポーションは並外れて良い。
簡単な挨拶だったが、部屋に居合わせた数人の同僚と立会の小山内部長が拍手をしている。
私も拍手を送りながら、部屋を去るシャロンと偶然、視線が合うとなぜか笑顔で手を振られ、ドキリとする。
彼女と何かの縁でもあるかと思っていたが、結局の所、それは思い過ごしフラグだった。
何か仕事上の繋がりでもあれば、それとなく聞き合えるのかもしれないが、私の業務とクォンツ・リサーチ・グループの業務は重なるところがなく、ご縁がないことを悔やむばかりだ。
そして、また決算の時期を迎えると私は繁忙のバンドワゴンに揺られながら、あっという間にカレンダーを7月まで移動させられた。
※アナリストレポートの投資判断……会社によって異なるが、400社を5段階でレーティングした結果、ほとんどが『買い推奨』となる場合が多い。特に発行会社の顔色をうかがっているわけではないが、そもそも、優良会社を上から400社選んでいるので、将来の業績見通しが色良いというのが実態に近い。『売り推奨』銘柄については、投資判断を引き下げた後、継続ウォッチから外してしまうケースも多く見られる。
※業績修正……東京市場に上場している企業は今季の業績予想を公表しているところが多く、当初公表した業績から大きく変動が予想される場合、原因となった事実と修正予想業績を公表することになっている。欧州、米国ではアナリスト予想業績は公表されているが、会社は業績を公表していない(会社による株価操縦の恐れもあるため)。日本企業でも業績予想は公表しないと公言する企業が出てきているが少数派である。