第2話 ブラック企業じゃない、ブラック職場だ
私の入社後、最初の配属先は、驚いたことに金融研究部だった。肩書はリサーチ・アナリスト。
アナリストと云うのは外資系証券の職階でいう兵隊で、公的資格の証券アナリストとはまったく別物だ。
私の当初、夢見た異世界には、金融研究部はなかったのだが、決算書も読めない新人にディーラー業務やM&A業務をさせるというのは無理な話だろう。
ちなみに、私の他の同期は法人営業部と支店富裕層営業部に配属されたらしい。
特に、変わった扱いではなかったのかと安心していると、配属された初日に小山内金融研究部長に言われる。
「椎野君、まずは証券外務員試験に合格しないと始まらないんだ。とにかく、金融研究部の銘柄担当のほとんどが6月末で入れ替えだから……5月の試験、一発勝負の気持ちで取り組んでもらいたい」
「はい、頑張ります」
証券外務員試験とは、証券会社で外部顧客に取引の勧誘をするのに必要な資格で、取得しないと証券会社に就職しても電話一本、メール一通返せない木偶の坊になる基本資格だ。
小山内部長は、念を押すように私に言う。
「言っておくけど、受からなかったらこの先、一年間、ほぼ担当銘柄なしの下っ端の下っ端だ。久しぶりに受験生になった気分で頑張れ」
「は……はい」
証券外務員試験の合格率は6割ほど。金融商品取引業に携わる人間なら誰もが必須の資格なので、受験者は玉石混交だ。
受かる受からないに関わらず、会社の経費で受験させられている人もいるはずなので、ちゃんと勉強をしてれば受かるはずだ……そう考えた私は、かなり資格受験を舐めていたようだ。
しかし、もらったテキストは電話帳程度の厚みがあり、ほとんどが初見の情報で金融商品取引法から取引所規則、証券税制まで、ガチに記憶力勝負だ。
正答率7割と云っても、学習範囲を狭くして良いわけではないので負荷が半端ない。
働きながら合格するって無理ゲーじゃん。
加えて、受からなかったら一年間、下っ端の下っ端って、泣き言の一つも言いたくなる。
しかし、証券会社のなかの人間はもれなく通ってきた道なので、誰も同情はしてくれない。
さらに、久しく思い出さなかったが、私の父も確かに通ってきた道だ。気合で乗り切るしかない。
4月下旬にも試験があるのだが、願書を一ヶ月前に出さないといけないので、受けられない。
5月下旬の試験に向けて昼は新入社員として、夜は受験生として『受かって当然』というプレッシャーを受けながらひたすら暗記を繰り返す。
思えば、ブラック業務の始まりは、この証券外務員試験だったのかもしれない。
勉強するから残業代よこせとは、なかなか言いにくい。
しかし、もし落ちるとなると相当にダメージが大きそうなので、休日もほぼ勉強に当てる日々が常態化する。
こうして、私こと、椎野憂の社畜化が進行し始めた。
そして、どうにか試験をほぼ無難に終えた翌週のことだった。
昼食前に小山内部長から部内全員宛にメールが送られてくる。
『FW:証券外務員試験5月の試験結果について』
げえっひゃぁっ……ちょっと待ってくれ。
試験結果は、厳かに密やかに周囲の目の届かないところで見たいのだが、部長は人の心の機微というものを理解していないのだろうか。
おそるおそるメールを開こうとすると、驚いたことに、苦情を言おうとした小山内部長が目の前にいた。
「椎野くん、やったな。おめでとう」
「え……あ、有難うございます」
突然、部長が声をかけてくれたおかげで、ほとんどの人がメールを開かずに拍手をしてくれる。
改めて入社したかのような儀式に、妙に照れくさいが、立ち上がって周囲に頭を下げる。
「さっそく今日からで悪いんだけどさ、椎野、下半期から船橋VPの担当銘柄を引き継いでよ。彼、来月からトレーディング本部の株式部長になられるらしいから、仲良くしておいて損はないよ」
「は、はい。え、船橋……VP?」
話の急展開についていけず、なんとなく重そうな仕事を任されそうな空気を読み取ると、素直に返事はできない。
まごついていると、細身で長身のエリート然とした船橋さん当人が言う。
副部長格の船橋さんは、白髪交じりの角刈りで四十過ぎに見えたが、36歳でちょうど私と一回りの差がある。
「小山内さん、他人事だと思って楽しまないで下さい」
「いや、人事は『ヒトゴト』と書いて人事。あくまで他人事なんだけど、楽しんでるなんて言われると心外だなあ」
「株式部のディーラーはノルマ重視の鉄火場。関わりたくない気持ちはお分かりでしょう……しかし、異動前に後任を用意して頂けるとは有り難い限りです」
「ああ、椎野君は外務員試験をパーフェクトクリアの金の卵だ。なんでも教えてやってくれ」
船橋さんはチラリと私を一瞥すると、こともなげに言った。
「それじゃあ、今日の午後から引き継ぎにかかります」
私は船橋さんの担当銘柄のうち、大型株3社を除く10銘柄と、大型株3社の代わりに寄せられてきた10銘柄の合計20銘柄を7月から担当することになった。
昼からの引き継ぎの前に、船橋さんが私に尋ねる。
「椎野、就職活動の時の『いい会社』を比べる基準は何だった?」
「売上の大きな会社とか、負債が多くない会社とかですね」
そう、就職のときに重要なのは就職先が潰れない程度には安泰でないと困る。
「それは従業員の立場からすればそうだろうが、証券会社に入った以上『いい会社』の基準はただ一つ、時価総額を最大化させることに注力している会社だ」
船橋さんの話に置いていかれないように『時価総額=株価✕発行済株数』と脳内変換する。
「それは、株価が高くなっている会社ということですか?」
「単純に云うとそうなる。ファイナンスで株数を増やせるのも株価が高くないと無理だ。株価は資本市場が会社に下す唯一無二の評価だ。そして、我々の仕事の評価は、時価総額に応じた手数料で決まってくる。だから株価が上げようと努力している会社に関われば、我が社の収益も上がる」
「そうすると、株価が下がっている会社の担当になると損なんですか?」
「いや、株価が高すぎる場合は調整が入るのは当然だ。セルサイドの証券アナリストの仕事は株価が適正水準かどうかレーティングすることだ。しっかり相場が見えていれば、レーティングを外すことはない。ついでに椎野君の評価も下がることはない」
相場を見るって、どうやって見ればいいのか。さすがに答は分かっている。
”相場のことは、相場に聞け”
証券会社に入ると、この手の格言をよく耳にする。
それ以上は、立ち入って訊くことはなかったが、船橋さんの引き継ぎ事項はそれぞれの企業の特徴である強みや抱える問題点を網羅していて、さらに時系列の役員の内幕情報まで内容は鮮烈だった。
他の先輩アナリストの引き継ぎ内容にも不満があるわけではなかったが、船橋さんの企業の息遣いまで聞こえてくるような情報までには達していなかったのも事実だった。
すべからく、会社とは人の集まりであり、その人との出会いで会社の印象もまったく変わってくる。
外資系証券はブラック企業である、私はそう聞いていたが、ブラック企業でもキッチリ仕事を教えてくれるならウェルカムだ。
ここで、私の社畜化を宿命付ける理想の証券マン、船橋VPを見てしまったことで、いよいよブラック企業の片鱗を見せ始めるダリルリンチ・グローバー証券のなか、担当銘柄の業界研究と企業分析に明け暮れるサービス残業にまみれていくことになる。
※VP……外資系証券会社の職階の一つ。下から非人間扱いの『アナリスト』、激務の『アソシエイト』、手下がつく『マネージャー』、課長級の『VP』、部長級の『マネージング・ディレクター』、
人事に口を出せる『パートナー』の5〜6の階層から成っている。
※大型株……東証上場会社のうち、時価総額と流動性(売買状況)から上位100社を取引所が『大型株』として指定したもの。なお、中型株は同様に上位400社の中で大型株に入らなかったものを言う。
※ファイナンス……上場企業に関して言えば、エクイティファイナンスのことを指し、新株の公募発行増資の事を言う。まとまった株数が市場に出るため、株価が上昇するとの期待がないとファイナンスは出来ない。ファイナンスをした会社の株価がその後下がってしまうようなファイナンスディールを『ワースト・ディール』と呼び、市場から非難される。
※セルサイドとバイサイド……証券アナリストとして一般に知られているのはセルサイドのアナリストで、アナリストレポートを量産している。一方、証券の買い手である機関投資家や富裕層営業を行なう部署に所属する証券アナリストも存在し、バイサイド・アナリストと呼ばれる。古豪の証券アナリストが多く、目が肥えているため、下手なレポートを書いていると再起不能になるような質問を投げつけられる。