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北日本旅客鉄道の行方 ~孜々営々のハイエナ~  作者: 錦坂茶寮
Ⅰ.金融爛熟 ~リーマンショック篇~
13/40

最終話 驀地、時給16万6千円のオシゴトへ

 すると、船橋部長は立ち上がって、山崎さんのほうに言い寄っていく。


「そうだ、山崎。サウジアヲムコのVIXヴィックス、決済の確認書はどうなってたっけ」

 山崎さんは退職者の端末とコンソールの片付けをしていた手を休めて、自分の席へと戻ってくる。

「決済時点は10月31日のニューヨーク市場のクローズ時点なので、明日の明け方まで分かりませんが、今の状況をブルームバーグ先生にきいてみましょうか、[INDEX_VIX]S&P30[GO]」端末を人差し指でぎこちなく押しながら山崎さんが嬉しそうに言う。「おっ……きてますよ、部長」


 そうすると部長と山崎さんが、ブルームバーグの画面を印刷して何やら話し込んでいる。

「おいおい……おおっ、ほんとうだ。まさかお前がダリルリンチの月間トップディーラーか?」

「いやいや、それは商社株の清磨きよまさんに譲りますよ」

「あれは別格、バケモンだからなあ」


 そこに、ふらりと森村シャロンがいつものノーパソを小脇に抱えてディーリングルームに入ってくる。

 私が、よく分からない展開に目を白黒させていると、シャロンに背中をペンの先で突かれる。

「先輩、どうなったんですか? 株式部の損益」


「結局、赤字のままだけど。それで、いま、どうするか聞いてたんだが……ヴィックスがどうとか言ってて」


「VIX? ああ、ボラティリティ・インデックスは、山崎さんが昔、船橋部長に言われて勉強してたアレですよね?」


 なるほど、VIXではなくボラティリティ・インデックスと言われれば分かる。

 ボラティリティと云うのは、株価のブレ具合のことをいい、たとえば電力株の値動きに対してベンチャー企業株の値動きが荒いことを『ボラティリティが高い』という。


 ボラティリティ・インデックスと云うのは文字通り値動きの荒さを指数化したもので、別名『恐怖指数』と呼ばれていて、シカゴ先物相場に指数上場されている。


「昔って、山崎さんが何でシャロンに?」

「あ、そう言えば、山崎さんから、椎野先輩にはカッコ悪いから言うなって云われてました。まあ、4月の話ですので忘れて下さい。先輩」

 シャロンの勝手な注文に応じるつもりはないが、そういえば、山崎さんが夜遅くまで残っていたのは記憶に残っている。


 あの時は、副部長になった山崎さんが、株式分の利益に貢献するためのディーラーとしての投資計画、ポジション取りを船橋部長に言われて何か勉強していると思っていたのだが。

 それを、何を勘違いしたのか知らないが、株式指標の先物売買の研究をしていたのかと、独りごちる。


「よく分からないけど、相場が荒れることだけ分かっていれば、VIXの先物オプションを買っておけばいいのか。そうか、それも買えるだけ買えば儲かるのか。山崎さん、さすが凄いなあ」


 私が、なるほど恐慌相場になると分かっていれば大儲けか、などと考えていると、シャロンが冷水を浴びせてくる。


「こんな状況で、都合よく大量にVIXを売ってくれるような先はありませんよ、先輩。あったとしても、恐慌で取引相手が破綻するリスクもあるんですから」


 そこに、突然、船橋部長が会話に割って入ってくる。


「森村君の言う通りだ。

 乗った船の船板を踏み抜くほど愚かな話はないからね。

 VIX指数の先物アレンジャーの信用リスクが一番難しかった。

 ただ、産油国のサウジアヲムコなら、大丈夫だろうと思って、山崎にポジション100万ドルを付けて、例のベアスタショックのときに持ちかけたんだ。

 あのときでVIXは幾らだったっけ……」


 それについては、当事者でもないクォンツ・アナリストが冷静に諳んじる。

「あのときに35から40ぐらいでしょう。9.11以来の最高値でしたから」


「そうそう、9.11の話もしていたよ。それを話しながら、サウジアヲムコの担当者もトリガーがVIX80ならと、100万ドルで10月末までのノックインオプションを相対あいたい取引で設定したんだ」


 私は、驚いて言う。

「すると、10月中にVIXが80を超えれば、100万ドル?」


 それに反応してシャロンが口を挟む。

「先輩、オプション料のみの価格が100万ドルですから、それよりも行使価値は高いはずですよ。それに先渡し価格は指数に連動していないと意味がありませんし……」


 それを聞いて、にやりと船橋部長は微笑む。

「ノック・イン・オプションだから、VIXが80を超えなければ、山崎の100万ドルがフイになるんだから、リーマンショックでVIXが9月に42で止まったときには、椎野や森村の予想を鵜呑みにした山崎に焼きが回ったと思ったよ」


 名前を出された山崎さんが、驚いて言う。

「船橋部長、VIXは、会社が責任を持つって言ってたじゃないか。シャロンちゃんの予想じゃ、VIX70でも厳しかったのに」

「でも、10月に入った途端にVIXが跳ねて山崎を助けるんだから、世の中捨てたものじゃないよなあ。バリューがバリューだけに、直接、ドバイに行ってオプション行使を伝えに行ったら、むこうの担当者も大喜びでね」


 私は驚いて尋ねる。

「大喜びと云うことは、サウジアヲムコもヘッジをかけていて、損はなかったということですか?」


「椎野、あちらさんにとって、100万ドルなんて端数みたいなもんみたいだ。それに、株式相場が恐慌状態になると逆に原油相場が高値になる傾向があるから、ヘッジ手段として都合がいいんだ。出張の時には、リヤドのキングダムセンターで豪勢なディナーまでご馳走になったよ。喜捨ザカートの精神は、このご時世、有り難いもんだ」


 そうすると、ブルームバーグのグラフのプリントアウトを取ってきた山崎さんが戻って来る。

「何を言ってんですか、成田では『俺たち、モサドに消されるんじゃないか』ってブルってたじゃないですか、船橋部長」

「お、VIXは87.88か。VIX1につき100万ドルの約定だから……」


 8,788万ドル、約85億円のオプションバリュー……!


 それを聞いたときには、一瞬、シャロンの瞳孔が2倍ほど大きく開いて固まり、私も『うーん』と唸ってしまった。


 しばらくして船橋部長が口を開く。

「85億の収益を加えて10月の株式部は82億の黒字。渡会副社長殿もさぞ驚くだろう。米国ダリルリンチは敗戦処理中だが、日本法人は最高益。皮肉なもんだ」


 私は、船橋部長の言葉を聞いて気になっていたことを尋ねる。

「ひょっとして、85億円の4割、34億円の報奨金が出るんですか?」


「それが、山崎とはディーラー契約を交わしてなくてね。返す返すも残念でならないんだ。まあ、本人も名義を貸すだけでノルマは負いたくないと言ってるんだから、仕方ないんだけどねえ」


「部長、今月だけディーラー契約というのも承りますが」

 揉み手で擦り寄る山崎さんに、船橋部長は容赦がない。


「残念ながら、椎野のお陰で、新規のディーラー契約は部長権限ではできなくなっててなあ。でも、心配するなよ、今回の山崎と椎野、それと森村さんの貢献については来年の人事でバックさせるようにするから」


 山崎さんは明らかに肩を落としていたが、私としては、船橋部長に最初に言われていた仕事、ダリルリンチ日本法人の存続は果たしたことになる。

 そして、見返りは好きな部門への転出だが、どこに出してもらおうかと悩み始めると、金研以外ならどこでもという面白くない結論にたどり着く。


 船橋部長はそれを見透かしたかのようにして言う。


「どうだろう。この逆境下で黒字のダリルリンチ日本法人が売られるとすると、既存の専業大手には一定の脅威にはなる。しかし、ダリルリンチが総合証券として取り組んでいない分野があって、これを機に参入を図ろうと思うんだが……」


 大仕事を成し遂げた山崎さんが、機先を制して言う。

「ウチが取り組んでいない……グローバル・オファリングとか、グリーンメーラーとかか?」


「違う。グローバル・オファリングは資本市場本部でやってるし、グリーンメーラーはコンプラ違反だ。言っているのはダリルリンチの投資銀行としての能力をフルに活かすバイアウトファンドを作る話だ」

 船橋部長が私のほうに視線を移して言う。

「椎野は金研で証券アナリストをやっていたから分かるだろうが、割安で放置されている株式というものがいつの時代にもある。それを自己勘定で買うのはプリンシパル融資部の仕事だが、ダリルリンチに運用を委任しているファンドに買わせて割安要因を取り除いて売却する。すると、高値で売れるから、出た利益を、証券会社とファンドで分配して、ローリスクハイリターンに儲ける仕事を始めようと思うんだ」


 なるほど、そう云う手があったか。

 私が、率直に感心したところに、シャロンがキツイ一言を投げる。


「それって、経営権を担保に不要な事業を切り捨てたり、社員をリストラして会社を競売にかける、いわゆるハゲタカ・ファンドなんじゃないですか?」


 船橋さんは恬として恥じないどころか、笑みを浮かべながら答える。

「森村さんは、ハゲタカ外資は嫌いかい?」

「いえ、どちらかと言うと何をするのか興味があります」

「そう、所詮、外資系証券。やってないほうが機会損失だ。無論、ハゲタカ行為も、敵対的買収も良い。だが、今後はリーマンショック後で、不況が長引くような地合いになる。だから、再生キャピタルの側面も持つ、ちょっと欲張りな部門になる。かねがね、MA本部長の山口さんと意見交換をしていて、実は名前も決まっているんだよ」


 船橋部長が取り出した企画書には、『投資銀行インベストメント・バンキング部(仮称)の新設について』と書いてある。


 銀行というと堅実なイメージが浮かぶかもしれないが、実態はバイアウトファンドだ。いや、再生ファンドでもあるんだっけ。なんでも出来ると言われると、少し、ワクワクしてくるから不思議なものだ。


「船橋部長、新しい部の人事は決まっているんですか?」

「じつは、私が兼務部長ということ以外、まったく決まっていないんだ。私がもう一つこだわっている経営企画室の復活もあって、こっちは財務部と人事部から人を貰うことになっている。できることなら、山崎が法人営業部との社内コネクション役をする実質部長格の副部長、そして、案件のエクセキューションは椎野と森村さんに頼めると有り難いんだが」


 船橋部長の言葉に、山崎さんが言う。

「法人営業部に戻っても良いんだけど、同期の船橋がたってのお願いと言うなら、行かないとマズイよなあ。椎野先生はどうする?」

「私も、金研とここで培った決算分析とかも活かせそうですので、投資銀行部でお世話になろうかと……」


 すると、山崎さんが大声で肩を抱え込んで言う。

「だよなあ、椎野先生。この先も頼むぜ」

「は、はい」


 見ると、シャロンは手荒な祝福を受ける私から離れたところで言う。

「山崎さん、わたしも椎野先輩と一緒に投資銀行部に入りたいんですが、そんなにグシャグシャにされたくないので」

 船橋部長が上機嫌で言う。

「森村さん、有難う。おかげで、投資銀行部も華ができて嬉しいよ」


 和気藹々とするなか、山崎さんが言う。

「船橋部長、とりあえず、投資銀行部の発足記念ということで、祝杯をあげにいきますか」

「そうだな、ちょうど仕事も一段落だ。椎野も森村さんもどうかな?」

 私が首肯うなずいている横で、シャロンはすごい勢いで言う。


「部長、お鮨はどうでしょう?」


 その日は、金曜日ということもあって、ふつうの店は取りづらいと言いながら、船橋部長は銀座の鮨屋の席を用意してくれた。

 無礼講ということで、シャロンが大喜びでお好みネタの注文を乱発し、船橋部長が少し引いている気がしたのは気のせいではないだろう。

 さらに、シャロンに鮨を驕る約束をした私に至っては、よく食べ、よく飲むシャロンに畏怖すら感じていた。




 その後、船橋部長が新たに設置する経営企画室の準備にはいると、しばらくしてダリルリンチ・グローバー証券日本法人と四菱東京銀行の資本提携が発表された。

 元のグローバルアジア拠点の日本担当部門は能村證券に吸収され、日本法人は米国バンク・オブ・アメリカス&ダリルリンチの傘下で四菱東京の資本を借りて事業拡張していくという、極めてアクロバティックな組織再編となった。


 そして、資本提携の公表後、ダリルリンチ・グローバー証券の日本法人初の日本人社長として、四菱東京銀行から派遣される鷹取氏が就任することになった。


 かつての豪腕副社長の渡会氏は顧問職に退き、すっかり老け込んだとの噂だ。




 そして、ついに、クリスマス休暇前に新年度FY2009の私の辞令が届く。


[2009年1月1日付、人事異動と組織改編について]


 新設:MA本部の下に投資銀行部を設置する。

   :取締役会直属の経営企画室を設置する。


 異動:船橋 つよし(トレーディング本部株式部長 ヴァイス・プレジデント職)

        【経営企画室長 兼務 投資銀行部長 マネージング・ディレクター職】


 異動:山崎正義(トレーディング本部株式部シニア・マネージャー職)

        【MA本部投資銀行部(新設)ヴァイス・プレジデント職】


 異動:椎野 憂(トレーディング本部株式部アソシエイト職)

        【MA本部投資銀行部(新設)プロジェクト・マネージャー職】


 異動:シャロン・森村・サイラス(金融研究部アナリスト職)

        【MA本部投資銀行部(新設)シニア・アナリスト職】



 現在のMA本部の下に投資銀行インベストメント・バンキング部が創設され、同時に、私は、よく分からないプロジェクト・マネージャー職を拝命した。


 辞令によると、年収は倍以上の基本給2,000万円に加え、モデル成果給28,000万円とあって、28,000万円が2億8,000万円と脳内変換されるのに多少、時間を要した。


 モデル成果給というのは、ふつう、所属部署が当初予算通りの収益を生み出したら支払われる額が書いてあるのだが、合算して年収3億円は、年間就労時間1,800時間で割ると時給16万6千円となる。


 兼務の船橋部長を除くと、おっちゃん、坊っちゃん、お嬢ちゃんの3ちゃん投資銀行部がどれほどの利益を上げるのかは分からないが、新年早々、法人営業部の持ち込み案件に驚くことになる。





(リーマン篇・了)

VIXボラティリティ・インデックス……恐怖指数と呼ばれるが、平時は10~20程度の数値で、恐怖でも何でもない。これまでの最高値はシカゴ先物の公表値ではリーマン・ショック後の10月相場での経済恐慌時に89となっている。リーマン・ショック時(VIX:42)にVIXを慌てて買い込んで、10月相場でバーストしたディーラーも多く存在する。


※グローバル・オファリング……全世界向けの売出行為のこと。一般的な国内投資家向けの売出よりも、手間が掛かるが、広範なニーズを取り込めるため、発行条件は良くなることが多い。


※グリーンメーラー……かつての小糸製作所事件でもあったように、嫌がらせ的に株式を買い集め、困った会社関係者に高値で株式を引き取るよう要請すること。なお、緑色の封書で送ってくるわけではなく、何がグリーンなのか環境問題の専門家に問い合わせずにはいられない。


※エクセキューション……業務を遂行すること。外資系では案件の獲得と業務の遂行は、評価として必ず50:50のウェイトで分割され、個人の評価に落とし込まれる。なお、なぜ『業務遂行』と言わずに『エクセキューション』と言うのかは謎のままである。


※3ちゃん……元は零細農家で爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんの家族農家を『3ちゃん農家』と呼んだことから昭和38年に普及、その後、『3ちゃん工場』、『3ちゃん企業』を経て脈々と受け継がれている。決して、ワンチャンスが3回あるわけではない。今となっては『3ちゃん農家』が衰退し『1ちゃん農家』となって婆ちゃんのみ頑張る姿に日本の農政の苦悩が垣間見られる。


投資銀行インベストメント・バンク……日本で言う一般的な銀行は『商業銀行コマーシャル・バンク』と呼ばれ、直接一般から預金を預かり、それを企業に貸し付ける『受信業務・与信業務』を行っている。それに対して、証券会社のことを投資銀行と呼ぶ。これは、証券会社が投資案件を見つけて投資ファンドを組成し、資金を投下するビジネスモデルをとっていることによる。

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