第11話 大荒れ、恐慌相場
ダリルリンチグローバー証券の部長会は、基本的にインサイダー情報を扱うインハウス部門の月例会議だが、慣例でトレーディング部門と金融研究部も市況報告のために参加している。
私は4月の部長会に出て以来2度目だが、船橋部長がいるといないとではプレッシャーがまったく違う。
第1会議室には、資本市場本部からDCM部長、ECM部長。
MA本部からコーポレート・コンサルティング部長、金融研究部長。
トレーディング本部から債券部長と錚々たる面々が居並ぶなか、私は株式部長の指定席に腰を落ちつける。
今日は、順番が回ってきた時に報告内容を読み上げるだけなのだが、なかなかに緊張させられる。
なにしろ、報告は資本市場部から始まるのだが、岩脇部長の話は本気で聞いていても数ミリたりとも分からなかったのだ。
副社長が会議室に入って来るやいなや、少し雑談めいた挨拶のあと、会議はあっという間に始まる。
「それじゃ、始めよう。DCMから行こうか」
「DCM部(デット・キャピタル・マーケッツ)の岩脇です。
9月の国内債券の概況ですが、CB(予約権付社債)は前月に続き新規は完全にサイレント、10ヶ月連続で発行ゼロになりました。
SB(普通社債)の発行は公益セクターを除くと、注目された三友銀行の900億円劣後債、10年ものLibor+190bps、最劣後も+200bpsでのプライシングで無事ローンチしました。
つぎに、東京電気の事業債100億円は50億円が2年もの5年もの……」
メモは取らなくても配布される2008年9月マーケットサマリーに要点は書いているので良いのだが、司会役の渡会副社長が質問を挟むので気を抜けない。
「おぅ、岩脇、日芝電気の300億と四菱東京の500億、9月じゃなかったっけ?」
「日芝は主幹事の大山証券の提示した条件と50bpsほど乖離があったようで見送りです。四菱東京も同じく条件折り合わずで発行登録後、見送りです」
「日芝でそんな状況だったら他の弱電なんて社債発行、むりじゃない? 船橋、トレーディング勘定で日芝の社債100億ほど抱えらんないかな。そしたら、日芝の主幹事とれるってさ」
渡会副社長が船橋部長に無茶振りするが、今日はいない。
船橋部長の席に座る私に耳目が集まるが、そこには場違いにも私が座っている。
「船橋部長はサウジに出張中です」
私の朴訥な返答にも、渡会副社長は淀むことなく場を捌く。
「なんだ、なら伝えといてよ、DCMの岩脇が日芝と仲良くしたがってるってさ。よし、じゃあ、次、ECM行こう」
そうして、つぎにECM部(エクィティキャピタル・マーケッツ)鬼頭部長の株式発行市場の報告に話が移る。
しかし、リーマンショックのさなかということもあって、総じて景気のいい報告はない。
おかげで渡会副社長は長嘆息の連続だ。
「あー、ファイナンス案件が壊滅だなあ。うちは銀行じゃないから利息で食うわけにも行かないし、資本市場本部の人員を減らして、法人営業部を強化したほうがディールにむすびつくのかなぁ、鬼頭、岩脇ぃ、どう思う?」
鬼頭部長も、岩脇部長も返答をお互いに譲り合っている。
ちなみに、外資では収益の上がっている部門を強化し、上がらない部門をリストラするのは日常茶飯事。『会社の数字』と『個人の数字』が嫌というほどリンクするのが外資系だ。
9月は、株式部のトレーディング損益も赤字に転じていて、渡会副社長に何を言われるか分かったものじゃない。
こんな時ほど、外資の切り貼り経営ほど楽なものはないと、不遜にも思ってしまう。
その刹那、渡会副社長から声がかかる。
「次、トレーディング、株式部行こう!」
「はい、出張している船橋に代わって椎野が報告します。9月はリーマンショック以降の流動性低下と株式市場のリスク許容度の低下から薄商いのなか……」
報告の途中で渡会副社長の机をトントンと叩く音で、報告が中断させられる。
「市況はイイから、損益報告以下だけね」
「はい、9月のトレーディング損益はマイナス5千万円、前月比3億9千万円減。ディーラーの退職13名、補充採用は1名。あと、先週の暴落で今月も退職予定が5名決定です」
「うーん、9月でマイナス50Mかあ。どうしたもんだろう。10月は先週も暴落があったし、もっと厳しいよなあ。どうだろ、株式部も10年前の5人程度の規模に縮小したほうが傷口を広げなくて済むんじゃないかな?」
副社長が唸るように言うのを聞いて、株式部の縮小を押しとどめようと精一杯、私は考える。
沈黙は金とも言うが、既に部門縮小と言われている以上、沈黙は金ならずだ。
ここで何も言わずに後悔するよりも、言って後悔した方がマシ、私のモットーでもあり、私の悪い癖とも言えなくはない。
「副社長、僭越ながら申し上げます」私は、敢然と立ち上がる。
「確かに9月単月では5千万の赤字です。
ただ、他人を貶めるのは好きではありませんが、リーマンショックで他の証券会社も、自己勘定はどこも軒並み赤字です。
逆に7月以来、金融危機に備えて、船橋部長がリスクポジションを低減させるようディーラーに徹底したお陰で損失を5千万にとどめられたと言えなくもありません」
渡会副社長は、驚いたようにしてこちらの話を聞いている。
「しかも、9月の赤字を出したディーラー13名は既に退職済です。
10月は先週の暴落で確かに損も出ましたが、まだ19営業日も残しています。
今回の赤字は株式部のディーラーを減らして手仕舞うより、規模を残して取り戻していくほうが賢明かと思われます」
私は、渡会副社長に一礼して着席するが、その言葉に場がざわつく。
なんだか、当たり前のことを言っただけなのに、少し予想と違った反応だ。
「ふうん、そう」渡会副社長は私の方を見て、やや不機嫌そうに言う。「それなら、船橋に言っといてよ。10月の株式部のトレーディング損益がプラ転するまで、株式部のディーラー新規採用稟議に渡会は一切、ハンコ押さないからって。もちろん、10月は黒字だよねぇ」
「……もちろん、そのつもりです」
船橋部長の金融危機回避策を信じて、私はそう答える。
すると、渡会副社長は手元のマーケットサマリーにメモ書きにペンを走らせながら言う。
「ちなみにさ、近々、金融庁のほうから新しい『カラ売り規制』が導入されるらしいから、達成は厳しいかも知んないけどね」
渡会副社長はニヤニヤと下衆な笑みを浮かべながら言う。
場は混沌としたまま、副社長の号令で話題が切り替わる。
「それじゃあ、次、トレーディングの債券!」
続いて、国債、政府海外債の話題に移っていく。
部長会は東京株式市場の開く前、8時半過ぎには終わった。
さて、大口は叩いたものの、10月は9月以上に東京の株式相場は混迷を極めた。
肝心の船橋部長も、最初に話を報告した時には、あの渡会を相手によく言ったもんだと面白がっていたので、少し安心していた。
なんとなくだが、私は理由もなく、状況は改善していくものだと信じていたのだ。
しかし、想像以上の荒れ相場に株式部全体のトレーディング損失は改善するどころか、日に日に深刻の度を増していった。
9月に火が付いた金融危機は、10月になると経済危機に発展し、各国政府は対応に追われた。
10月8日には、急激な円高で輸出関連株が売られ、東京株式市場もほぼ全面安で引けは9.4%安の9203円と大きく10,000円台を割り込んだ。
さらに、10日には、国内の太和生命保険がサブプライム絡みで、東京地方裁判所に特例更生法の適用を申請し経営破綻する。
日本企業は無傷と思っていた株式市場は動揺し、日経平均が一時8,115円(11.4%安)まで値下がりした。
そうかと思うと、14日には日経平均株価が8営業日ぶりに反発し、終値は史上最大の上昇率14%高の9,447円で引け9,000円台を回復した。
こうした『行って来い』の相場にも関わらず、株式部のディーラーは経験のない値動きに翻弄され、まったく勝てなかった。
底だと踏んだ所から株価の底が抜けたり、天井と思ってカラ売りをかけたところから一段上がったりと云う感じで惨憺たる状況だ。
私が株式部秘書として取り纏めている株式部のトレーディング損失は、10月20日時点で1億6千万円を超えた。
その後の東京市場は盛り返すと見せかけては下げるリスク回避の動きが鮮明になった。
22日の日経平均は2003年5月以来、5年5ヶ月ぶりに8,000円を割り込み、終値は7,650円の前日比9.6%安で、戦後5番目の下落率となった。
そして、27日には日経平均株価が、円の独歩高などを材料に警戒感が続き、主力株を中心に幅広く売られ7,162円で引ける。
結局、ディーラーが方向感を掴めないまま10月の株式部のトレーディング損失は2億9千万円まで広がり、黒字どころか大きく傷口を広げる結果となった。
先の部長会での一件は、社内ではかなり有名になっており、『渡会副社長に4年目の椎野というアソシエイトが噛み付いた』という武勇伝になっていた。
金研に戻ったシャロンも心配なのかメールや内線で、状況を聞いてきてたのだが、状況が絶望的なのでさすがに紅茶を飲みに来る回数も減っている。
しかし、部長会を翌週に控えた10月31日の金曜夕方になっても、当の船橋部長も山崎さんも、ノルマを負ったディーラーのような切迫感はない。
ただ、10月の締めの数字が出た以上、株式部の運命は決まったも同然だ。
私は意を決して、31日のトレーディング損益集計表をメールした上で、船橋部長の席のほうに行く。
「船橋部長、先の部長会では無駄口を叩いてしまいスミマセンでした」
心のなかではジャンピング土下座を決めながら、実際にも90度を超す最敬礼をして言う。
「椎野、その話は過ぎた話だ。もういいよ」
心なしか、船橋部長の潔さが却って気持ち悪い。
まあ、船橋部長に逆上は似合わないし、私だけで責任を取れる問題でもないのだが。
※Libor……ロンドン銀行間金利。発行条件決めのときに東京銀行間金利のTiborとともによく使われる。読みはライボー派とリーボー派に分かれる。
※bps……ベーシス。金利の単位で0.01%。債券の発行条件の肝となる部分で、発行体の信用度と償還期間でほぼ決まるが、±20bps程度のマージンがあるため、不幸にも条件が合わずに見送りとなるケースもある。当然、法人営業担当の腕の見せどころでもあるが、外資系は意外とグリップは弱い。
※行って来い……日経平均7000円など、ノックアウト・オプションが設定されていそうなラインに向けて強引に相場が動いて、一旦、7000円割れと同時に急速に値戻しするような相場状況。この時に、『これは、行って来いだ。必ず戻る』と言うと大体、死亡フラグで往復ビンタを食らう羽目になる。