第10話 緊迫、リーマンショック
渡会副社長の一声で会議が終わると、山口本部長と船橋部長が打ち合わせを始める。
「船橋、そういうことらしい。兼務の3人は兼務を解くとして、椎野はどうする? 金研に戻すか?」
「いえ、経営企画は、これからが本番です。株式部で受け入れましょう」
「分かった。小山内と副社長にはオレから話しておくよ」
簡単な打ち合わせで呆気なく、経営企画室の消滅と私の株式部への転属が決まった。
ちょっと、待て。株式部となると、身分はディーラーの扱いになるのだろうか。
気になって、戻るときに聞いてみると船橋部長は笑って答える。
「お前にはディーラーではなく、秘書として山崎の後釜に座ってもらう。心配するな」
そして、即日、人事異動のメールが届いて、私はトレーディング本部株式部に部長秘書として異動になった。
しかし、これまで経営企画室として使っていた場所は株式部長秘書室と名前が掛け変わっただけで勤務内容はまったく変わらず、なんだか狐につままれたような思いだった。
そう、昼休みともなると、船橋部長と山崎副部長、シャロンが押し寄せてきて、まったく実態は変わるところがない。
その真ん中に確信犯として居座る船橋部長が言う。
「とりあえず、株式部は人員倍増で組織拡張は上手くやりおおせた。あとは、利益を倍ぐらいにできれば、半年後の釣り書には銀行系証券からお呼びがかかる程度には、上手くお化粧ができるわけだが、リーマンとウチの破綻スケジュールはどうなってる?」
「キャッシュフローの状況は、第1四半期決算の状況からみて予定通り。破綻は早くて8月から9月ですね」
株式部長秘書室でやり取りをしているのが、金研のクォンツ・リサーチに所属する森村シャロンで、話している内容は米国本社の破綻時期の予想である。
しかも、潰れる前提で次の身の振り方を考えているというのだから、傲岸不遜ここに極まれりだ。
だが、集まっているメンツの誰もが、至って真剣な表情である。
シャロンの言葉を聞きながら、不思議なことに、私の頭は混乱するどころか、妙に冴えていた。
――――2008年の3月にベアスターズ破綻から、リーマンとダリルリンチの破綻まで流れは全てスケジュール通りだ。
まず、3月のベアスターズ破綻により、サブプライムローン危機が叫ばれるようになり、もはや、一過性のモーゲージ債の取り付け騒ぎの範疇を超えた、構造危機であるとの認識が市場に行き渡った。
そして、この騒ぎのお陰で住宅ローン市場への資金供給が止まり、そこから米国の住専(住宅金融専門会社)である連邦住宅抵当公庫や連邦住宅金融抵当公庫といった民営化された旧政府系金融機関への資金停滞、そして2次破綻が叫ばれる。
タイミングとして、洞爺湖サミット直後でも可能と思えた米国住専破綻処理は、リーマンシスターズの処理スキームに応じるパートナー企業探しに引っ掻き回され、迷走することになる。
当初の米国政府、連銀の思惑では追加救済は商業銀行を傘下に持ち、経済的にも影響が大きいゴールドマン・サッカス、モレガン・スタンレーの投資銀行トップ2社に限るとし、それ以外は米国破産法(チャプター11)による破綻処理とされた。
しかし、政府処理案を不服として独自にパートナー企業を探しに、リーマンシスターズがトップセールスを展開するに至って、米国住専の破綻スケジュールは大きく乱れに乱れることになる。
リーマンシスターズには、欧州投資銀行、韓国産業銀行、再生キャピタルなど、多くの関心を引き寄せたものの、最終的に6000億ドルにも上るサブプライムローン不良債権の実態を見せられるや辞退が続出して、結局9月に資金ショートを起こすと呆気なく破綻に追い込まれる。
ダリルリンチも同時期に破綻をしてしまうのだが、最終的にどうなったのか、いまいち記憶にない。
不思議と、国内大手の能村證券の名前が脳裏をよぎるが、さすがに冗談が過ぎる。投資銀行業では、欧米に20年ほど差をつけられている日本の証券会社が外資を救済するなんてあり得ないじゃないか。
私は、頭の中を巡る妄想から目を落とし、船橋部長に話しかける。
「部長、おそらく、今回のサブプライムローン危機の処理方針として、政府、連銀のこれまでのやり方からすると、ドカンと一気に、ゴールドマンからモレスタ、リーマン、フレディマクド、ファニーメンまで一括処理すると思われます。時期は早ければ住専が破綻する7月、それが難しいとなるとリーマンとウチの破綻を待って8月〜9月だと思われます」私は、そこで一番気になっていたことを聞く。「……ただ、それまでに倍の利益を上げる方法は何かあるんですか?」
船橋部長は、私の既視感から出た適当な話を否定せずに、さらに、細かい話を持ちかけてきた。
「椎野、7月から8〜9月まで合わせると、破綻予想時期が7月から9月になる。そんなに悠長な破綻スケジュールは、スケジュールとは言わない。もっと、ピンポイントに予想できるだろう、特にアメリカの政府、連銀の思惑が分かれば……」
「政府と連銀の思惑は、市場の混乱を避けたいというところでしょう」
私が繋いだ話をシャロンがサラッと繋いでいく。
「とするとマーケットとしては、リーマン破綻の影響は10月の第3四半期決算には折り込みたいところですよね。椎野先輩」
「……となると、リーマンは買われる側だから、リーマンの月次連結決算が出る9月第2週が提携先候補の判断の出るタイミングか! つまり、リーマンがチャプター11(イレブン)、連邦破産法適用申請に踏み切るタイミングになる」
ファンド単体なら日々決算ができているので、タイムラグは生じないが、リーマンシスターズ本体とファンドが取引しているため、リーマン連結の8月末の財政状態を知ることができるのは、どうしても翌9月の第2週になるのだ。
私の言葉を聞いて、船橋部長が言う。
「おそらく、9月中旬だ。リーマンの破綻処理スキームが決まるまで、連銀としては見守らざるをえない。政府が潰したと言われれば責任問題になるからな。しかし、9月中旬まで待てばリーマンの破綻スキームの是非も決まる。遠慮なく政策カードが切れる状態になると言うわけだ」
そして、それまで聞き役に徹していた山崎副部長が言う。
「そこまで分かっているなら、倍どころか10倍の利益ぐらい簡単に出ますよ。ねえ、船橋部長」
「よし、ちょうどいい。山崎も副部長と言いながら1億はポジションを持てるんだから、今日あたり投資計画表を出してくれないか。今日の後場で発注できるようにしておくからさ」
「そ、そうですか……」
山崎さんは何気に、私とシャロンのほうを見て助けを求めているようだが、残念ながら実際の相場の勝ち方なんて分かりっこない。
それに、十二時半が近いとあって、昼休みは終わり、シャロンも金研に戻る頃合いだ。
山崎さんは、その日以降、終電近くまで会社に残って何か調べ物をすることが多くなっていた。
2008年7月。
まず、『ファニーメン』と『フレディマクド』が、サブプライムローン債券で資金繰りが行き詰まりを見せた。
しかし、両社とも元は公的融資機関であり、公的支援には国民の理解を得やすく、FRBも準備していたため早くから政府支援を打ち出して資金繰りを支えられた。
2008年8月。
『リーマンシスターズ』、『ダリルリンチ』、更にサブプライムローン保証をしていた保険大手の『AIC』の3巨人の資金繰り悪化が市場関係者の情報として伝えられるようになる。
すぐに破綻とはならないものの、FRBは沸騰する世論に翻弄され9月を迎えるまで何も手を打てないでいた。
2008年9月。
まず、『リーマン』に関しては独自に各方面と買収交渉を始めていたため、結果的に買収相手が次々に手を引いた途端、『リーマン』はクレジットクランチにより破綻してしまう。
リーマンショックとして歴史に名を残した史上最大の60兆円の負債を抱えた投資銀行リーマンシスターズの倒産事件だった。
そして、同時に資金難に陥った我が『ダリルリンチ』は、事業性を買われて『バンク・オブ・アメリカス』によって米国事業は救済合併された。
残る欧州アジア部門は驚くなかれ、国内勢の能村證券がほぼノーキャッシュで買収した。
最後の『AIC』は、一般保険も扱っていたため、公金投入が許され米国政府管理下に置かれることになる。
また、余力のあった『モレガン・スタンレー』、『ゴールドマン・サッカス』は、それぞれ、政府支援が受けられるように商業銀行持株会社に移行する。
そして、大統領府が事態収拾の切り札として、金融市場に大量の資金を安定供給できるように『金融安定化法』を提出する。
――――本来、ここで、リーマンショックは収束するはずだった。
しかし、公金によるウォール街救済反対の声に『金融安定化法』が下院で、まさかの否決となり、ここで初めて、明確にNY市場で金融株を中心に株式の投げ売り、ダウ暴落という事態につながっていく。
2008年10月。
9月はどうにか平静を装っていた東京株式市場も、10月からは乱高下を始めマーケットは噂で動き、実態で下げる動きを繰り返していた。
10月6日の部長会の日に、部長と山崎さんが珍しくサウジアラビアに海外出張ということで、船橋部長の代理としてペーペーの私が、渡会副社長が仕切る部長会の報告のために出席することになった。
※洞爺湖サミット……2000年の沖縄サミットに続いて地方開催となった2008年のサミット。ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパで7月に開催された。警備費だけで30億円がかかり、なぜか、夕張市などの地方財政が厳しい中、行われたバブリーなサミットとの風評被害が北海道では残されている。
※十二時半……証券会社の昼休みは、東京株式市場の休場に合わせて11:30〜12:30となっているところがほとんど。
※ダウ(暴落)……NY市場の株価指標はS&Pダウ・ジョーンズ社が開発提供するNYダウ(工業株30種平均)で、東証でいう日経平均にあたる。わずか30社だが、アップルからエクソンモービルまで、工業にとらわれない柔軟さでピックアップされたアメリカ発のグローバルカンパニー30社が名を連ねる。




