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ケモノから牙のくちづけ  作者: 野中
2/3

+2+

「柊直澄だな?」


人ごみの中で背中から銃を突きつけられる。

ありがちな始まりだ。

直澄は小さな吐息をもらした。


帰国したとたんにこれだ。



先が思いやられる。



空港でスーツケースを従えながら、直澄はうんざりした表情で頷いた。












+2+
















「二年ぶりにこっちに帰ってきたばかりだって言うのに、連れまわしてゴメンね、直澄くん」


相変わらずのんびりと言われて、直澄も二年前と変わらない声音で応じた。

「いいえ。仕事ですから」

しれっとした言葉に、金髪の青年は笑顔のままで、

「その言い方だと、仕事じゃなけりゃ、付き合うのなんか冗談じゃねえ、って聴こえて」

ぼそり、と呟いた後、顔を子供のようにぐしゃりと歪ませた。

泣き出す寸前のように、目に涙すら浮かべて。


「なんだか僕悲しいなあぁ…」


そりゃあ、帰国した途端、銃を突きつけて、何の説明もなしにここまで連行してきたのは悪かったと思うけど。

縋りつくように言われて、直澄は頬に一筋の汗を流した。

すぐさま、ぎこちなく眼鏡の奥の視線を横に流す。

間髪入れず、棒読みながらもきちんと言い直した。



「ボスの行く先でしたら、いつだって喜んでお供させて頂きます」


「わ、そうなのっ?嬉しいな…っ。ありがとう、直澄くん」



現金にも、ぱっとはにかんだように微笑んで、彼は隣の大男を、えへへ、と見上げる。

こんなでも、彼はこの辺り一帯の裏社会を牛耳る組織のトップに立つ人物なのだから、世の中見た目で推し量れるものではない。性格や容姿はともかくも、彼の冷酷さ、厳格さは直澄とてよく知ってはいるが、時折何かが間違っているような気がしてならないのも、確かな話だ。

見上げてくる青年の笑顔に肩を竦めて、蓬髪の大男は直澄に労うような視線を向けた。

二年前、友好関係にある別の組織のいざこざに関わり、その地域の調整の助力をする為に、長い期間この国から離れていた部下へ、言葉をかける。

「変わらねえな、直澄」

「シンさんも、お変わりないようで、なによりです」

尊敬すべき強さを身につけている年長のボディガードを見上げ、直澄は軽く会釈する。

それに鷹揚に頷くと、シンは先ほどから目の前にしているビルを親指で指し示した。


「お前さんを空港から拉致ってきたのは、早速一仕事してほしいからよ。先日、組織の幹部が一人殺されてな」

「探ってみたら、そいつが取り仕切ってる物資の流通データが改竄されてるところがあってねえ。ばかだよね、いきなり殺しなんてしなけりゃ、バレることもなかったろうに」


直澄の雇い主は柔和に微笑み、しかし表情とは裏腹の棘がある台詞を口にする。

こういうときは、物静かに見えても、かなりの怒りを覚えている証拠だ。

彼は規律を重んじる人物だが、滅多なことでは感情を揺らすことがない。

というのに、これだけ怒っているということは。


直澄は、慎重になるべく深呼吸した。


彼の雇い主は、へたに逆鱗に触れようものなら、それだけで相手を笑顔で殺しかねないところがある。

無表情ながらも気を引き締める直澄を見下ろし、シンは静かに続けた。

「殺された野郎もデータ改竄に気付いちまったんだろうな。だからやられちまった、と。まあ、なんにせよ、組織の一員が殺されたからには、こっちも黙ってられるわけがねえ」



…血には血の報復を。



直澄は頷き、ビルを見上げた。

「そのビルに追い詰めることは追い詰めたんだけどねえ。ヤツは人質とってね、この僕と直接話をしたいって言ってきたんだ。笑えるよねえ、ここまでしといて、何を今更」


おまけに、僕が来てはじめて人質を放すって言ってるんだってさ。


口調は穏やかだったが、今の彼は極めて物騒だった。

「偉そうに呼びつけやがって。クソ野郎が」

「落ち着け、頭領。そんなわけでな、すまんが、直澄、こいつが今から行くって先触れ頼むわ。いきなり顔出すんじゃあ、互いに冷静になれんだろう。微妙な交渉事は、そこらの野郎にゃ頼めないが、お前さんなら信用できっからのぉ」

直澄が生真面目に頷いたとき、ビルの中からスーツを着た女がヒールを鳴らしながら慌てたように近付いてきた。


「ボス、やつは、そろそろ限界が近いようです。お早く…、あら、直澄?」

髪を品よくまとめたその女には、直澄も見覚えがある。

「咲良さん?どうしてこちらに」

それには答えず、咲良は焦りの中にも喜びを滲ませて、直澄に微笑みかけた。


「お久しぶりね、二年ぶりか。帰って来るって聞いてたけど、それが今日だったなんて知らなかったわ。…って、あら、もしかして」

何を思いついたのか、微笑を引きつらせて、咲良は三人の前で足を止める。

嫌な想像をした、と言った様子で咲良は呻いた。





「ハルカったら、それを知っててアナタと早く会いたくて、わざと人質になった、なんて…。そんなこと、ないわよね」





ハルカ。


その名に、直澄は瞠目する。

咲良から視線を引き剥がした。

シンに問うような視線を向ければ、巨漢は苦笑を浮かべた。

なるほど。

だからこそ、直澄の雇い主はどこにでもあるような事態だったにも拘らず、呼び出しに応じたのだ。

ハルカを大切にしている彼が、このまま放っておくわけもない。


―――――二年前、この地を去る日、直澄はハルカと顔を合わせなかった。


確か、彼女は咲良と会っていたのではなかったろうか。

娼婦としての仕事で、何らかのトラブルが起こったようだったから、その処理に追われていたと聞いた。


そう、暗殺稼業から足を洗った彼女は、あろうことか今度は娼婦としての生活を始めた。


今更、まともな生活に戻れはしないから、と。

この咲良は、政財界にパイプを持つ高級娼館の女主だ。

どういう流れでか、すったもんだの挙句、彼女の元でハルカは客を取るようになった。

ハルカが以前の組織から足を抜けたいざこざの後、まともな生活に戻れるように、と、この裏の世界ではない普通の世界の常識を根気よく教え続けてきた身としてはやりきれないが、それはそれで仕方がないのだろう。

彼女が選んだ道だ。

とは言え、娼婦としての生活を始めたのは、単に気紛れと言うだけでなく、ちゃんと理由はあったようだ。


咲良のようになりたい、とハルカは言った。

なぜだ、と訊くと。


『アンタが咲良にだけは甘いからだよ』


拗ねたように、理解不能の台詞を口にした。

直澄が咲良に甘いとしたらそれは、彼女がこの世界では肉体的にはとても無力な存在だからだ。

そう言えば、納得したような、していないような、奇妙な表情で膨れっ面のままハルカは黙り込んでしまった。


あらゆる感情が欠けている、どうしようもなく手のかかった相手。

いい思い出のある相手だとは言い難い上に、相手もあまり直澄にいい印象は持っていないだろうけれど。

時間を共有すれば、直澄には、湧いた情もある。


「行きます」


多少焦りを浮かべて、惑うこともなく、身を翻した直澄に、シンが待て、と声をかけた。

振り向けば、風を切って何かが放り投げられる。

慌てて受け止めれば、正体は黒塗りの鞘。

二年前、こちらに置いていった直澄の愛刀。

「お前の得物だ」

「…、ありがとうございます」


掌に馴染む慣れた感触に、直澄の表情が自然と緩む。

直後、ビルに飛び込んだ。

階段を数段飛ばしで駆け上がる。

状況の説明は何ひとつされていない。

ゆえに、下手にエレベーターを使用して、狙い撃ちにされる危険を冒す必要もない。


―――――人質に、ね。


ヒトの気配のない階段を、息を切らすことなく駆けながら、直澄は眉根をひそめる。

(あの女が?)

ハルカは強い。


優しげながらも容赦ない強さを誇る直澄の雇い主と、そしてシンほどにもなれば、一対一でも十分ハルカを押さえることも出来るだろうが。


過去、何も誰も信頼出来ない状態のハルカを保護するとき―――――というか、あれは立派に野生動物の『捕獲作業』であったと直澄は思っているが―――――その、肝心の二人が役に立たなかった。

なにせ、直澄の雇い主は、ハルカを絶対に傷つけたがっておらず。

シンはシンで、その彼に絶対服従の身だった。


結局は、不意打ちのような状態で、直澄が彼女を捕らえることに成功したのだ。

直澄はどうにか、わずかな引っ掻き傷だけで大怪我もなくすんだのだが、それは本当に幸運だったろう。



あれほど強い彼女が、どうして。



と考えて、直澄は眉根をひそめた。

そう言えば、咲良が先程妙なことを口走っていなかったか。

(…そうだ、わざと人質になった、とか)

だが、深く考えるより先に、人の気配を感じ取り、直澄は足を緩めた。



大勢の人間が、いる。



それを目でとらえるより先に、血の臭いが鼻をついた。

とたん。


顔を上げた直澄は、顔をしかめる。

階段の上に赤い血が広がり、所々に千切れた人体が転がっていた。

腕や足、頭部、内臓。

人体を無駄に解剖したがる狂気じみたこの殺し方には覚えがあった。


当時も、暗殺者らしくないやりかただ、と呆れたものだが、まだ変わっていないらしい。


苦笑した直澄が階段を登りきって、周囲を見渡せば、廊下の遥か向こう、突き当りの部屋の前で、人垣が出来ているのが見えた。

人垣と言っても、知れたものだが。

その中の一人が近付いてくる気配に気付いたのか、振り向いて、目を丸くした。


「お前…直澄か」

小声で言った厳つい男の姿に、直澄は眼鏡の奥の瞳を細める。

「お久しぶりです、ジョウ

彼に近付きながら、直澄は微笑んだ。

「すみません、ご挨拶は後で。通していただけますか?」

「ああ。…おい、道を開けろ」

城が指示すると、人が割れて、僅かに隙間が出来た。


ここに集まっているのは、全員、組織の仲間なのだろう。

その隙間を通って室内に入ると、まず、真正面に、全開にされた窓が見えた。

その向こうに見える、青い空も。

しかし、肝心なのは。

開け放った窓の前に立つ、二人の人物だ。


血まみれの女と、青褪めた男。


直澄は微かにだけ、目を見張った。

どんな状況下で人質になったのかは知らないが、ここまでヒトを殺してやってきたに違いないハルカは、血に濡れて、物騒な輝きを放つナイフを片手に、無表情に突っ立っている。

男は、彼女を後ろから羽交い絞めにしてそのこめかみに銃口を押し当てているわけだが。

毅然としすぎたハルカの様子に、これは本当に抜きさしならず、人質に取られて進退窮まっている状態なのか、と直澄は果てしなく疑問に思った。

男の、怯えきった表情に、直澄は表情を変えないまま困惑する。



これでは、どちらが脅されてここにいるのやら分からない。



とはいえ。

(…女は化けるというが)

もとから綺麗な女ではあったが、こうして、化粧をして普通の格好で黙っていれば、二年前の野生児のような面影は微塵もない。


どころか、上品でおとなしく、儚げな印象すら漂わせていた。


血まみれである、と言う点を除けば。

とりあえずはどうしたものかな、と顎に手をやれば、男が、悲鳴のような声で直澄に命令した。



「そ、その刀を放せ!」



あまりに馴染んでいた為、存在を忘れていた刀に目を落とし、直澄は苦笑する。

言われるままに刀を放す直澄に、男は嘲りを口にした。

「今時、刀だとはな…」

「銃は嫌いなんだ」

肩を竦めて、直澄は次の命令が来る前にぼそりと言う。

「おれたちのボスは、ビルの下までもう来ている。そろそろ、こちらに上がって来られるぞ」

直澄の言葉に、男は竦み上がる。

「い…っ、イヤだ、会いたくない…っ」

「…何を言ってる?呼びつけたのはお前のほう、」


「ああそうさ!だが、もとから助かる見込みなんかない…分かりきってるっ!」

男は、銃口を更に強くハルカに押し付けた。


こめかみが痛むだろうに、彼女は表情ひとつ変えずに、ただ。




目の前の直澄を見ていた。




「なあ…、ハルカ。あんた、オレと一緒に死んでくれないか…? 訪ねていくたび、優しくしてくれただろう?」

訪ねて行くたび?

直澄はその言葉に眉根を寄せた。

「奴らのボスの気に入りだって、分かってたんだ。けど、抱こうと思った。…でも結局、あんたを前にしたら、怖くなって抱けなかった…っ。奴らのボスが怖かったわけじゃない、あんた自身が怖くなったんだ!だとしても好きなんだっ、それだけは本当だ…!」

ハルカと、喚く男から目を離すこともできずに、直澄は唇を引き結ぶ。


すると何か。


男はハルカの客。そういうことだろうか。

直澄が思い至った瞬間。

ハルカが、淡い色合いの口紅を塗った唇を微かに開いた。

「…怖い?」

問いかけに、男はがくがくと頷く。

「ああ、ベッドの上で、裸であんたと向かい合ったとき…まるで、あんたが」

冷や汗をかいて、男は続けた。



「『死』そのものに思えた」



その言葉を耳にしたとき。

ハルカは大きく溜息をついた。

「鬱陶しいなあ、だからなんなの。単にアンタが不能だったってだけでしょ。情けないったら」

あけすけな物言いに、ハルカを人質にとった男のみならず、周囲も呆気に取られる。

直澄は大きく溜息をついた。


そうだ、これがハルカだ。


「アンタたちも、いつまでもぐだぐだそこで無駄にたまってんじゃないよ。何も出来ないんなら、どっか行けば? 役立たずなだけじゃなくって、暑苦しいんだよ」

あまりの台詞に、直澄の背後で、城が低く呻くのが聴こえる。

「このクソアマ、命令がなけりゃ、俺たちだってこんな面倒くさいことしたくねえんだよ…」


だが、アンタたち、と言いながらも、ハルカが真っ直ぐに見ているのは直澄だけだ。


直澄にしてみれば、呆れるほかない。

この状況下で。

ハルカが自力で、拘束から逃れられないはずがないのだ。


ハルカが何を考えているかは知らないが、これはとんだ茶番といえた。

「ここにいるのは木偶の坊だけ?」

苛ついたように言い放ち、ハルカはナイフを持っていないほうの腕を上げて、自身は動かないまま手を前方に差し伸べる。


「そうじゃないって言うんなら」


直澄は目を伏せて、先程床の上に落とした刀の下に足先を突っ込んだ。



次にくるのは、命令だ。



ならば先に動く方がいい。

彼女を人質に取る男が直澄の動きに気付いて、何かを叫ぼうと口を開きかけた。

だが、それより先に直澄が動く。

蹴り上げた刀。

宙に浮く柄を握って、低い位置から走り出しながら刃を引き抜く。


直澄の目を見つめたまま、ハルカが言った。





「さっさと、奪え」



「…仰せのままに」





言葉と同時に、直澄が刀を跳ね上げれば、掌に骨を断つ鈍い感触。


更に力を込めれば、呆気なく刀は肉から抜けた。


と同時に、直澄は伸ばされていたハルカの腕を引いて、その身体を胸に抱きこんだ。


男が目を見開くのと前後して、銃を持った彼の腕だけが、ごとりと床の上に落ちた。

痙攣する指先から銃を掬い上げ、直澄はハルカを抱いたまま男と距離を取る。


男は、痛みに苦悶の表情を浮かべたが、片腕と銃を失い、丸腰になったこと。

そして、人質を失い、自身の優位性が失われたと見ると、怯むことなく身を翻した。


逃げ道がまだあると確信させる、鮮やかな撤退だ。


城たちが銃を構えようとするが、下手をすれば直澄とハルカに当たってしまう危険性がある。

そのせいで、彼らは躊躇ってしまった。

とは言え、男と城たちとの間にいる直澄の刀も、ハルカのナイフも、男には届かない。

ナイフを投擲しようとしても、それよりも男が隣室に逃げ込む方が早い。


その状態を振り向いて確認した男が、嘲笑を浮かべるその目に、片手で銃口を彼に向けた直澄の姿が映った。


それならば確かに届くだろう。


だが、確か直澄は先程、言わなかっただろうか。




銃は嫌いだ、と。




逃げ切れる、と確信した男が隣の部屋へと抜け、壁に身を隠す寸前。






銃声が、轟いた。




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