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嵐の予兆を漂わせる薄闇に包まれた周囲は蒸し暑く。
遠くでは、雷鳴に似た機械音。
それは、屋上のまわりを羽虫のように飛び交っている。
この建物内は、幾本かの柱と壁を残して、何フロアかが消失してしまっている。
所有者である組織が、壊滅の際に、爆薬を使用したためだ。
その頃には崩れるのも時間の問題だったから、何人かの幹部がここにあったヘリで逃れたに違いない。
屋上の周りを飛び交う機械音の正体は、それだ。
まともな手段では、もはや地上に戻ることは不可能だった。
そんな、見捨てられた場所で。
恋人同士のように、熱烈に抱きあう男女がいた。
周囲の、崩壊の音など聴こえていないかのように。
正確には。
男が、少女を腕の中に抱き竦めている。
一見、少女は男に心から身をゆだねているように見えた。
しかし、よく見れば、分かる者には分かったろう。
男の片腕は、少女の細い首筋を圧迫するかのように、背後から回されていた。
にも関わらず。
「捕まえた」
彼女は、薄ら笑いを浮かべて呟いた。
絶体絶命の危機に陥ったかに見えた女の背後に立つ男は、眼鏡の奥にある黒い目を細める。
視線を下に向けた。
胸の奥深くに抱きこむようにした女の黒髪、そのさらに下。
押さえ込んだ彼女の右腕。
その腋の下を通して、少女の左手が銃口を彼の腹部に押し付けていた。
腹部と言っても、位置的に随分と横の方だ。
ただ、銃口の向きが問題だった。
弾は肉を削るだけでは済まない。
脇腹から肩口へ抜け、内臓を傷つけるだろう。
致命的に。
立ち込める緊張感のせいだろうか。
屋上にいてさえ、質量を感じさせるような重い大気に不快が増す。
ましてや、他人と身体をぴったりとくっつけていれば尚更。
こんな茶番はさっさと終わらせるべきだ、と言いたげに、少女は億劫な態度で口を開いた。
「あたしの勝ちだね。放してくれたら、見逃してやってもいいよ」
今の男は丸腰だ。
数時間にも及ぶ追いかけっこで、彼が最初持っていた刀。
その在り処は、といえば。
彼らの目の前。
屋上の床に突き立っている。
側にはあるが、手が届く距離でもない。
これで終りだ。
少女の目が、物騒に据わっていた。
思いだすのは、背後にいる男とかわした、数分前の会話。
折角、今まで属していた組織が壊滅し、自由の身になったのに、また別の組織に連れて行かれるなんて、冗談じゃない。
また籠の鳥になるくらいなら、死んだ方がましだ。
言えば、この男は冷静な表情で賭けを持ち出してきた。
追いかけっこをしよう、と。
―――――どんな武器を使っても構わない、この建物を舞台に。
互いの技術を駆使して、相手の命を先に握った方の勝ち。
男が勝ったら、彼女は死を選んではならない。
観念して、籠の鳥として生きろ。
少女が勝ったら。
生きるも死ぬも、そして男をどうすることも自由。
最初の見立てでは、どう考えても少女の方が有利だった。
と言うのに。
現実はぎりぎりの段階で彼女が優位に立っている状況だ。
思いの外、追い詰められてしまった。
遊んだつもりはない。
油断していたつもりも。
単純に、…男が強かった。
それだけだ。
だが、これで最後だ。
とはいえ。
確信しながらも、油断することもできない。
少女は、気の立った猫のように荒い息を繰り返す。
対して、男は。
少女を見下ろし、欠片の動揺も見られない、冷静な声で言った。
「選択を迫る必要はありません。…撃てばいい」
少女は引き金にかけた細い指を、わずかに震わせる。
「最初からそういう約束です。勝ったと思ったなら、好きにしなさい」
教師のような物言いが、勘に触った少女が、殺意から歯止めをのける刹那。
けれど、と男は続けた。
「貴女は撃った弾数を覚えておいでですか?」
唐突な質問に、彼女は動揺を悟られるまいと唇を引き結んだ。
賭けの最初に手の内は見せている。
彼女の武器は、この肉体とこの銃ひとつ。
弾の数は―――――。
「おれが数えたところだと、全部撃ち尽しているはずです。アナタが最初に嘘をついていないとしたら、ですが」
「そこまで落ちぶれちゃいない」
確かに、残りの弾数など覚えていない。
数えていたのは途中まで。
そんな余裕など途中から掻き消えていた。
それで、暗殺者だなどと、よく言えたものだとは思うものの。
ここまで動揺したことなど、今回が初めてだったから。
おかしい。
彼は、確実に女よりは劣っているはずなのに、どうして。
「そうでないと言うのなら、撃ちなさい。行動すれば、すべては明るみに出ますよ」
惑わされるな、と彼女は歯を食い縛る。
間髪入れず、引き金にかけた指に力を込めた。
あと一発でも残っていればいい。
そうすれば。
―――――しかし。
「…おれの勝ち、ですね」
弾は、出なかった。
銃口は、鉛を吐き出すことなく沈黙し、その脈動を彼女の掌に伝えることを拒絶していた。
突きつけられた事実に、少女の身体からへたへたと力が抜ける。
下に座り込んだ彼女の頭を、身を屈めてぽん、と叩いた後、男は静かに言った。
「約束は、守っていただけますか」
「…くどいっ」
悔し涙の浮かぶ目で男を睨み上げた美しい少女に、彼は微かにだけ微笑む。
微笑まれたことに虚を突かれた彼女に向かって、男は悪戯っぽく囁いた。
「弾の数を数える余裕がなかったのは、おれも同じだったんですがね」
だって、アナタは強かったから。
その台詞に、少女は目を瞠った。
「じゃ、じゃあ、さっきの台詞は」
ちょっと待て、と思う。
「ハッタリだったってのか…っ? だって、あたしの耳の横にあったアンタの心音は全然乱れてなかったのに」
まったく動揺もせずに、この男は堂々と嘘をついたのか。
呆気に取られる。
目を丸くした彼女に向かって、もう笑みの消えた顔を向け、身を起こした男は肩を竦めた。
「終わりよければ全てよし、です」
「な…っ、んて、乱暴な…。もし弾が残ってたらどうするつもりだったんだ…っ」
少女には、自分が大概無茶な自覚はある。
だが、この男には敵わないのではないか。
妙な敗北感に打ちのめされた女が両肩を落とす。
それを尻目に、彼は手すりの方へと足を向けた。
途中で、突き立っていた自身の刀を引き抜く。
落ちていた鞘にその怜悧な刀身を収めた。
「おれが怪我をするだけの話ですよ。アナタを逃がすつもりはなかった。アナタを生きて連れ帰ること、それがおれの雇い主の至上命令ですからね、死んでもそれは全うします。それだけの、金を貰ってる。…まあ、ハッタリだとしても、運も実力のうちと言いますし。それに」
手すりのところまで行き着いた彼は、くるりと振り向いて、そこにもたれかかりながら冷ややかに言い放った。
「あそこで撃たせて、おれの言ったことの方が真実だったなら。…ハルカさん、より、アナタの敗北感は増したでしょうから」
事実、そうでしょう?
カッとして、顔を起こした彼女は男を睨み付けた。
「…嫌なヤツ。そんなことしなくても、負けは負け。大人しくついていくよ」
約束したからね、とハルカが立ち上がった瞬間、遠くで響いていた雷鳴のような音が近付いてくる。
ふと湧き起こった風に乱れた髪をハルカが押さえた。刹那。
薄闇を切り裂くナイフのような明かりが、屋上を照らした。
こちらを向いている男の背後、このビルの階下から、ヘリが爆音を立てながら浮き上がってきたのだ。
今更、壊滅した組織の幹部たちが戻ってくるとは考えられない。
こんなところへ今やってくる物好きは、…この男の仲間くらいだろう。
案の定、それを横目で確認して、男はひとつ頷くと、身を起こしながらハルカに手を差し伸べる。
来い、と言うことか。
一瞬たじろいだものの、彼女は、苛立たしげに愚痴を漏らしながらその手目指して大股に屋上を横切った。
「ああ、もう。アンタの雇い主ってのも、大概物好きだね。いくら天涯孤独の身の上だからって、偶然見つけた身内が殺し屋でこんなヤツだって知っても、それでも一緒に住もう、なんて言うんだから。…カタギじゃないにしたって、いい度胸だよ」
「まあ、おれの雇い主ですからね。あの方と会われた後は、ひとまずはおれと一緒に住んでもらうことになりますが」
「…なんでさ」
「アナタに一般教育を教えるよう、命令を受けています。暗殺者としてでなく、普通の人間としての」
「ふうん。じゃ、アンタはあたしの先生なわけだ」
「そうなりますか。一ヵ月後には、おれは国外での仕事を請け負ってますから、この国から離れます。それまでには教育を終わらせるつもりです。覚悟なさってくださいね」
「勉強は嫌いなんだよ」
爆音に負けない大声で言い合った後、まるで当然のように差し出された手をとる前に、ふと興味が湧いて、ハルカは男に尋ねる。
「…アンタ、名前は?」
男は無表情のまま機械的に応じた。
「柊直澄」
だが、重ねた掌は温かく。
奇妙なほどに肩の力が抜けた。
白く、凶暴な光の中で、直澄が穏やかに囁く。
その声は、二人を照らしながら屋上へ降りてくるヘリの音に掻き消されることなく、不思議とはっきりハルカの耳に届いた。
「ようこそ、おれたちの家へ」
彼を見上げ、プロペラに攪拌された空気と立ち込める湿気とに、ハルカは溺れるように喘いだ。
嵐は、近い。
自分を含めて、人間は一様に、道具。
セックスはお遊戯。
殺しは趣味。
そんな世界の中で。
――――――――恋など、まだ知らなかった。




