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明朝、ちょうど日課の鍛錬が終わるのを見計らったかのようなタイミングで、セルマーは姿を表した。向こうから現れるあたり、律儀な女である。それだけ焦りもあるのかもしれない。
脇に棍を立てかけて、流れる汗を拭き取っている俺の許に、セルマーがゆっくりと近寄ってくる。
「おはよう、アイン。決まったかしら」
「まぁ、な。引き受けるよ。条件はあるが」
「条件……?」
セルマーは眉をひそめ、訝った表情を見せる。俺はといえば、満面の笑みを浮かべてやった。それによって余計に不安を煽られたのか、彼女の瞳が動揺で微かに揺れる。
小悪党か。言い得て妙だ。小心者で、詰めも甘い。焦りと稚拙さからくる強引さも、言い返せば、きっとそこまで自身の身を堕としきれない表れなのだ。
噂ほど悪い奴ではないのだろう。そう思うと、自然とこちらにも余裕が生まれてくる。
「どんな条件かしら……」
「まずは金を返せ。それ、準備資金なんだから、お前が持ってちゃ一生出発出来ねぇよ」
「ああ、そんなこと」
「他にどんなことがあるんだよ」
「いえ、てっきり身体でも要求するのかと思ったわ。男ってみんなそうでしょう?」
「偏見もいいところだな」
セルマーは懐から袋を取り出すと、俺に投げ渡す。それを受け取って、中身を軽く確認した。しっかりと十二枚の金貨は揃っていた。
「手はつけてないわ」
「知ってる」
袋を閉じて、腰に下げた。
「まぁ、とにかく上がれよ。メルティもそろそろ起きるだろうし」
「酷い目に合わされないなら」
「少しは信用しろよ」
思わず苦笑いが零れてしまう。なんだか猫のような女だな、という感想を抱かざる得ない。
「酷い目に合わせるなら、昨日のうちにやってる」
「そうね……」
安心はしていないようだが、納得した様子で頷くセルマーを連れて部屋に戻ると、メルティも既に起きていたようだった。
今日は着替えを済ませてくれていたので、それはいいのだが、俺の後ろについてくるセルマーを見るなり、表情が険しくなる。
「妻に黙って逢い引きですか」
「朝から快調だな」
取り合うのも面倒なので、適当にあしらうと、メルティは不機嫌そうに椅子に座りこんだ。いちいち面倒な反応をする相棒に苦労が絶えない。
メルティは頬を膨らませたまま、セルマーをじっと睨み続ける。さしものセルマーも居心地が悪いのか、身を捩りながら、俺に耳打ちしてきた。
「えらく嫌われてるのね、あたし」
「放っておいたらいい。飯食ったら治る」
腹減って不機嫌になってるだけだろう。そろそろ慣れてきたのもあって、俺の対応も寛容になってきたのではないだろうか。我ながら、一歩成長である。
荷袋からパンを取り出して、メルティに放り投げると、即座にそれを掴み取って食べ始める。頬いっぱいに頬張りながら、むふーと鼻を鳴らし、幸せそうにしていた。
なんて安い女なんだろうか。いろいろと不安になってくる。
「な?」
「変な子ね」
「だから放っておいたらいい」
服を着替えて、荷物をまとめる。
結局、前回メルティの胃袋を甘く見ていたせいで金策が追いつかず、購入でなかったものがいくつかあったので、最低必要なものをメモ書き程度にリスト化していく。
第二層の駐屯地に行けば、消耗品は補充出来るであろうことを鑑みると、下手に荷物を増やすのも得策ではない。というか、食料が大半を占める以上、荷物をこれ以上増やせないというのが正しい。
この点だけは大いに相棒の選択を誤ったと思う。
「昼までに買い物は終わらせたいな」
「安いところ、案内するわよ」
「助かる」
やはりこういうことはまだ慣れていないので、セルマーの提案はありがたく受け取ることにする。
「そろそろ行くぞ、メルティ」
「お腹空きました」
今食ったとこじゃねぇか。
溜め息を飲み込み、メルティにもう一つパンを投げ与えると、それを器用に口でキャッチしながら両手を伸ばしてきた。さすがに溜め息も我慢の限界で、一息吐き出すと、荷物と一緒にメルティを抱き上げる。軽いのが幸いだが、いい歳こいて自分で歩けよという思いは拭いきれない。
「本当に兄妹みたいね」
セルマーが含みのある微笑みを向けられる。
おもはゆさに、視線を逸らし、メルティを放り投げたい衝動に駆られたが、それよりも素早く首に巻き付かれる。器官が締まってるから止めろ。
「兄妹ではないです。夫婦です」
「いいがら……はな、せ……」
苦しい。洒落にならない。
腕を払い除けたいが、荷物が手を塞いでいてそれも叶わない。意識が途切れる前に、荷物をいったん投げ捨てて、メルティを振り払おうと考えた矢先、救いの手が差し伸べられた。
「旦那さん、死にそうよ?」
苦笑混じりのセルマーの言葉に、メルティが慌てて手を離す。
「ごめんなさい、アイン。大丈夫ですか?」
咳き込む俺を覗き込むメルティに、「勘弁してくれ……」と吐露すると、さすがに悪いと思ったのか、悚然と申し訳なさそうに俯いた。ちゃんと反省しとけ。
気を取り直して、部屋を出る。
一階の食堂を通る時、大家のナルアが冷やかしてきたが、大して取り合わず、来月分の家賃を先に渡しておいた。
一万ウレル金貨を四枚受け取り、それをエプロンのポケットにしまいながら、ナルアは「つまらない男だねぇ」と呟いた。
ほっとけ。
◆◆†◆◆
案の定なんだが、荷物の大半は食料で埋め尽くされた。メルティは満足げだが、俺とセルマーはげんなりしていた。当然である。
「これ、半年分かしら……」
「二週間もったら奇跡だな」
二人分の溜め息が重なる。
先ほど購入した大量のクロワッサンを、次々と口に放り込む胃袋怪獣だけが、晴れやかな表情をしていた。意気消沈してきて、途端に荷物が倍以上の重さに感じ始める。
物憂げな視線を送ると、メルティが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんです? 元気がありませんが」
「分かるか? 理由も分かれば花丸やるよ」
「うーん……胃もたれ?」
「マジで胃に穴が開きそうだ」
いっそのこと、お前が胃もたれで倒れてくれれば万々歳だ。
しかしながらこちらの心情と財布の事情を慮る精神は持ち合わせていないらしく、「災難ですねぇ」などと、災難そのものがのたまうのだから、ついには頭痛までしてきた。なおもクロワッサンは口に放り込まれていく。いったいいくつ買ったのか。いや、聞きたくないし、知りたくもない。とりあえず、しばらくクロワッサンは見たくない。
いずれにせよ、必要なものの購入も済んだ。長居は危険だと判断し、俺とセルマーは目配せすると、メルティを担ぎリグ・ヴェーダの入り口へと急いだ。
途中、クロワッサンを手から落としたメルティが、「クロワッサンがっ! クロワッサンがぁ!」などと哀哭し、わめき散らしていたが、一切を無視して走り抜けた。つーか泣くほどかよ。むしろ俺が泣きたいわ。
走ること二十分足らずで、入り口へとたどり着いた。メルティと荷物を担いでいたのもあって、少々疲労感はあったが、走ったせいというより、精神面での疲労の方が大きい。
俺はともかく、そこそこの距離を疾走したこともあって、セルマーが気になったが、彼女は既に息を整え終えていた。失速して遅れるということもなかったし、それなりに動けるようで安心した。
「問題なさそうだな」
「もっとか弱い方が好みだったかしら?」
「守りながら戦うのは苦手なんだ」
「大した用心棒ね」
たおやかに自身の髪を撫でながら、セルマーは口許を緩ませる。
老成した雰囲気がある分、仕草は様になっている。
「でれでれしないでください」
いきなり、メルティが俺の耳を引っ張ってきた。痛みに、思わず目尻から涙が流れた。慌ててメルティの手を振り払い、抗議の声を上げた。
「いてぇな!」
「わたしがクロワッサンを落とした痛みに比べれば」
「確かにおめーは相当痛い奴だなィってぇ!」
また耳を引っ張られた。このアマ。
「すぐ嫌なことを言う」
「お前もすぐに当たる癖をなんとかしろ」
メルティは一顧だにせず、明後日の方向を見て鼻を鳴らした。
ほんとこのアマふざけとる。
とにかく抱きかかえていると危ないと思い、早々に降ろそうとしたが、メルティは頑なに俺から離れようとしなかった。いやもう降りてください。甚だ迷惑だ。
「本当に仲がいいわね、あなたたち」
「どこがだよ……」
セルマーの的外れな感想に、不満の声しか出てこない。これで仲良しに見えるなら、殴り合いの喧嘩だって慈愛に満ちてるだろう。
これから登頂に挑むというのに、疲労感ばかりが積もる。おかげで煮える腹も冷めやんで来たので、結果的に言えば塞翁が馬といったところか。
もっと余裕をもって臨みたいところなのだが、メルティを相棒に選んだ時点で、それは望むべくもないのかもしれない。半ば強制だったから、選んだ、というのも語弊があるか。
「そろそろ行きましょう、立ちぼうけてたら日が暮れるわ」
セルマーがそう言って、先行する。
「そうだな。メルティ、そろそろ降りろよ」
「もう少しこのままがいいです」
「いきなり襲われたら困るだろ」
何からとは言わないが。
しぶしぶ、といった様子ではあったがようやくメルティが俺の腕から降りて片腕が開放される。俺は荷物を担ぎ直し、セルマーの後を追って塔の中へと足を踏み入れた。
◆◆†◆◆
これで三度目となる巨塔リグ・ヴェーダの内部は、相も変わらず気味の悪い景色が広がっていた。赤く淀んだ空に浮かぶ黒い太陽が禍々しく陽光を放つ。そして入ってすぐの所で、予想外の人物が俺たちを待ち受けていた。
「やっと来たわね」
「なんでここにいるんだ?」
そこにいたのはシアンだった。軽装具に身を包み、三尺刀を肩に立てかけて、岩場に腰掛けていた。
「あんた、怪我は」
「治ってはないけど、この通り、大丈夫よ」
立ち上がって、三尺刀を一振りする。風を薙ぐ鋭い振りだ。
だとしてもだ。こんなに早く退院が認められるとは思えない。まさか抜け出してきたのか。なんのために。
俺の抱いた疑問を汲み取ったのか、シアンは目を細めた。
「わたしも連れて行って欲しいの。もちろん、自分の身は自分で守る。迷惑はかけないわ」
「つってもなぁ……」
シアンは怪我人だ。確かに重症とまではいかない。たが本人がいくら大丈夫だと言い張っても、やはり危険は伴ってくる。怪我はいざという時に足許をすくうものだ。
気の進まない俺に、シアンが続ける。
「あなたが帰った後、ギルドの人間が来たわ。聞かれたのは、例の積荷の件。向こうは濁していたけれど」
思わず瞠目してしまう。
サヴァンニ商隊はやはり何かを運んでいたのだ。しかもギルド経由で。それが何かまでは分からないが、ギルドが執着しているのだから、当然それだけのものなのだろう。
ただ、それが何かをはっきりと言わないということが、彼女の不信を強めている。たいてい隠し事なんてものは疚しいものだし、気持ちはよく分かる。
「別にギルドを恨んでるわけではないの。ただ、わたしには知る権利がある。その積荷が、仲間の死に釣り合うものなのか」
「釣り合わなかったら、どうするんだ?」
「それでも構わないわ。護衛に失敗したのはわたしたちだもの。それで当り散らすほど、子どもじゃないわ」
つまり、知りたいだけ。
それだけのために、ここへ来たということになる。しかしそれだけとは思えない、シアンの瞳からは強い意思が感じられた。
それが逆に、俺に疑念を積もらせる。
「後追い自殺は勘弁だぞ」
「優しいのね」
「そんなんじゃねぇけど……」
ただ、病室で見た時の弱々しさが頭から離れないのだ。
放っておいたら、死んでしまいそうな微笑が。
俺は、どうすればいい。
どうにも決めあぐね、メルティに目配せをするが、返ってきたのは「アインに任せます」という一言だった。セルマーも、ただ肩を竦めるのみだ。
いやそもそも、今回はセルマーの依頼という形でこの場にいるのだから、セルマーにこそ決める権利があるんだが……。
だが俺の抗議の視線も虚しく、どうあっても、セルマーは俺に委任するつもりのようだ。
呻吟する中で、シアンがなおも続ける。
「ギルドは捜索隊を組み終わったわ。明朝、出発する予定とも」
だから無理を押して飛び出してきたのか。
このままだと、ギルドはきっと積荷を優先する。シーバスの亡骸や遺品は、どういう扱いを受けるか分からないから。
彼女の意思。それはつまり。
「弔いたいの。仲間なんだもの……」
その切実な言葉に、ようやく胸のつっかえが取れた。
一番納得出来る理由だ。
それが彼女の願いなのだと。
ならば断るのも野暮というものだ。昔、師匠がよく言ったものだ。女の願いは極力叶えてやるものだと。なら、俺の答えは一つしかない。
「わーった。行こう。ただし、死ぬんじゃねぇぞ」
「ええ、もちろんよ。ありがとう、アイン」
カンパニュラの花のような微笑みに、照れくささを覚え、慌てて視線を逸らす。妙に顔が熱くてかなわない。
「でれでれしないでください」
「いっでぇ!」
いきなり、メルティが尻をつねり上げてきた。急な痛みに飛び上がりそうになる。このアマ。
何しやがるんだとも思ったが、まぁ、おかげで気は紛れた。
尻を押さえながら、三人に向き直る。
「まずはD7を目指す。行くぞ」
「それは構いませんが……お尻押さえながらだと締まりませんね」
メルティがくす、と笑いながら言った。
おうこら、誰のせいだと思ってんだ。