8 邂逅
ミレルとカイスベクファの国境。
関所で行われる予定の顔合わせは、やや強引な形で国境を越え、カイスベクファ国内で行われることになった。
周囲が慌ただしかったから、ミレル側は知らされていなかったのだろう。私も聞いてない。顔合わせに急遽参じられなくなった第二王子の代わりに、国王自らが場を設けたと言われ、文官クラスしか随行していなかったミレルは押し切られる形になった。
ラザー様に会えるのは知っていたけれど、こんな形を取るとは知らなかった。
会見場所として関所からそう遠くないカイスベクファの貴賓館に通された途端、女官や護衛、文官からは引き離されて、一人で次の間へと通される。
髪の中まで解いて確認される入念な身体検査には、正直言って驚いた。
やっと検査が終わって通された奥の間は、カイスベクファ伝統様式の家具と、落ち着いた配色の部屋。
案内人が下がり、辿り着いた部屋で待っていたのは、見知った、けれど私の知っている姿より幾分歳を重ねた男。
「クラウ」
同期であったこの男は、護衛頭を務めていた。ラザー様至上主義で、喧嘩友達みたいな同僚だった。
懐かしくて名前を呼ぶと、片手で制される。
「……本当にライラそっくりだな。肩書だけでも一国の姫に生まれたのに、城で初めて会った時そのままの庶民顔じゃないか。どうなってるんだ」
後半は独り言のつもりだろうが、ばっちり聞こえましたよ。
初めて会ったときは互いに十五かそこらだったから、十四歳になったばかりの今と、余計に重なるのだろう。
「それは私が聞きたいくらいよ」
もっと王族的な、女神の娘って感じのオーラが欲しかった。
「ここまでは確かに筋書き通りだ。けれど俺は、あの男を信用しているわけじゃない。だから、お前が本当にライラかどうか、試させてもらおう」
ごほん、と仕切り直すように咳払いをして告げられる。
名前を呼んだのに? あの男ってフレドリックのこと? ……ほほう。
生前、このクラウとフレドリックはあまり仲が良くなかったのを思い出す。一方的にクラウが、愛想のいいフレドリックをチビッ子と呼んで、ちょっかい掛けてた気がする。私にもよく喧嘩口調だったので、そういう性格なのだ。そんなクラウを口でやり込めるのは楽しい遊びだった。それも思い出す。
一呼吸ごとに鮮明に蘇る、ライラ・オールソンの想い出。
いままで閉じ込められていた場所から、外に踏み出したような心地がした。
視界が急にひらけた感覚。
私は世界の広さを忘れていた。物理的な広さじゃなくて、人と人が繋がって出来ている社会という世界の広さをね。
自然と口角が上がり、クラウをからかう文言を紡ぎ始める。
「あらあら。つまり私とあなたしか知りえない情報を口にしろって事ね。そうよね、ラザー様の安全を考えると懸命だわ。どこかでミレル側にすり替えられてるともしれないものね。良いわよー。確かクラウの初恋は炊事場担当のマリアさんで、彼女が五人の子持ち、しかも孫までいる美魔女だって知らなくって、告白したらコックの旦那さんにすりこぎ持って追いかけられた所から話す? ああでも、あれは結構有名な武勇伝(コックの旦那さんの)だから、初めて付き合ったシルフィさんとの失敗初体験の話の方を……」
「まてまてまて! なんでお前がそんな事を知ってるっ」
「えー。泥酔しながら語ったの自分じゃないのー」
お互い十五歳で城に上がれば、痛い話の一つや二つはごろごろしてるものだ。
「クラウ、諦めなさい。君がライラに口で勝てたためしなんて無かったじゃないか」
くすくすと笑いながら、衝立の奥から懐かしい人物が顔を出す。
彼一人が居るだけで、何の特徴もなかった部屋が王宮の一室に思えてくるから不思議。
金の髪に貴族的な整った顔立ち。少したれ目の緑の瞳が彼の鋭さを上手く隠している。
懐かしいその姿。
「ラザー様」
表向きは第二王子との顔合わせなのに、待っていたのはラザー様とクラウ。
すぐ戻ったら相変わらず仕事が完璧なフレドリックに、ありがとうって伝えなきゃね。
「ご即位、遅ればせながら言祝ぎを申し上げます。その場で支えること叶わず、慙愧の念に堪えません」
王族と女官の立場、そして国が違えば礼も違う。
左足を引くようにし、片膝をつくギリギリまで腰を下げ、右手を胸元に添える。
一の姫アキラではなく女官長ライラとしての礼を取る。
「君が居ないから大変だったよ、私の可愛いライラ」
私が居ても居なくても関係なく、王位に就くのは、そして王を続けるのは大変なことだろう。それを笑って茶化してしまうラザー様の優しさに、自然と頬がゆるんだ。
懐かしくもくすぐったい呼び名に顔を上げ、今度は自分の言葉で語りかける。
「お久しぶりです我が君。こうしてまたお会いできる日が来るなんて、夢にも思いませんでした」
ラザー様と古参の部下だけの、お決まりの呼び方。
ラザー様が私の可愛い――と呼びかけたら、我が君と返す。古くから傍に居るものは知っている、内輪の儀式のようなもの。
本来のラザー様は人を『私の』なんて所有物扱いはしない。対外への分かり易い不可侵領域の主張に利用してるだけだ。王城内の敵味方の判別に役立っていたんだから、面白いわよね。もっとも、判別に利用された私達は大変だったけど。
今はラザー様の右隣に控えているクラウだって、同じように呼ばれていたものだ。私の可愛いクラウ、と。今の私二人分じゃきかないくらいの体格をした男まで、可愛いって呼ばれるのだ。
ラザー様はやっぱり器の大きい方だわ。
私には絶対クラウを可愛いなんて呼べない。可愛いクラウを想像して、腹筋が崩壊する。
「本当にライラなんだね。段取りのいい君だから、あの詩に溢れた日記の片隅にでも、生まれ変わりの予定を書いておいてくれれば、話はもっと早かったのに」
「――待ってください、日記ってラザー様も目を通されたのですか。私の日記の扱いはネタか何かですか。死んだ後に酷くないですか!」
まるで生前の執務室でのやり取りのように返されて、条件反射で軽口をついてしまう。
ラザー様は、懐に入れた部下には非常に気安い方だった。お蔭でついつい小言が過ぎて、私は煩いとまで言われていたっけ。
「っふふ。もちろん皆で楽し……君を偲びながら読ませてもらったよ」
くつくつと、口元を押さえながら笑っている。思い出し笑いだろうか。
偲びながらに説得力がない。そうですか、皆で楽しく読んだのですね。
「ラザー様も笑い上戸は変わりませんね。ところでお髭、似合ってませんよ」
ついついジト目で意趣返しをしてしまう。
確か四十の声を聞くお歳。けれど笑った顔はあの頃と変わらず若々しい。口元にたくわえた髭がなければ、二十代で通りそう。
横に控えていたクラウが、がちゃりと帯剣の帯を鳴らした。
無礼な口ぶりへの威嚇らしい。
うるさい。どうせあんたも日記を読んだんでしょ!
「娘にも同じことを言われているよ。でも、これが無いと若く見られてしまうんだ。クラウも会えて嬉しいのにそんな態度を取るものではない」
そう言って、部下を嗜めるラザー様は終始笑顔だ。
「はっ」
直立で返事をしたこのクラウは、内心嬉しくなんかねーよ。とか毒づいてるはず。
「久しぶりね」
改めて話しかけると、クラウはぐしゃりと渋面を作る。
「ああ。どうせなら、生まれ変わってすぐに連絡寄こせよ。中途半端で微妙な時期に寄こしやがって」
「しょうがないじゃない、ほぼ軟禁状態だったのだもの。それよりもう少し再会を喜べないの。フレドリックなんて、泣いて喜んでくれたのに」
あれはあれで大げさすぎたけど。
私の口からフレドリックの名が出た途端、空気がピリッと張りつめた。
視線を交わす二人に、嫌な予感がする。
「その話はおいおい、ね。このまま強引に連れ帰る形になるから、数年は我慢してもらわなくてはならないけれど、ほとぼりが冷めれば適当な肩書を用意するよ。君が片腕に戻れば、私も嬉しい」
途中の言葉が衝撃的すぎて、後半のラザー様の言葉が吹き飛んでしまった。
「…………今日は顔合わせだけではないのですか」
ミレルに一旦戻るんじゃないの? フレドリックが潜入したままで私を強引に連れ帰ったら、彼の立場はどうなるの。
「やっぱり聞いてないのか。あの男が嘆願してきたんだぞ」
クラウは苦虫を噛み潰したように不機嫌顔。
ラザー様は困ったように微笑む。
フレドリックが、望んだ?
出立の朝の姿を思い出す。
やっぱりあの揺れる瞳を見逃しちゃいけなかったんだ。
私はようやく、事態が予想外の方向へ進んでいたことを知った。
フレドリックはカイスベクファの片田舎で育った農夫の息子などではなかった。
ミレル神聖国で生まれ、神殿に引き取られ育て上げられた間諜。
それが彼の本来の姿。
適性を見込まれてカイスベクファに放たれた。人生のほとんど全てをかけて、ミレルと女神の為に情報を集める駒の一人。
王太子付きの末席として引き上げられた時は、歓喜したはず。
愚かな私は、部下だと思っていた彼の正体を見抜けなかった。
私の喪が明けるより前に、手の届く王宮の書類と共にフレドリックは姿を消した。ついでに何の価値もない女官長の日記まで携えて。
「見抜けなかったのは私の落ち度です。如何ようにも罰を受けます」
謝ることなど滑稽だろう。謝った所で、許されるような失態じゃない。しかも、手駒にわずかな期間とはいえ隣国の間諜を抱えていたとは、ラザー様の王位にも影響したはず。
頭を垂れたまま上げる事が出来ない。
そうだったの。
フレドリックが仮の姿だったんだ。
司祭イソラ・ヘンネベリが本当の姿だったのね。
ねえ、騙して利用していただけなら、どうしてミレルで私を助けたの?
どうして綱渡りのように無理をして、ラザー様の所まで私を届けてくれたの?
出立の朝に見た、諦めたような揺れる瞳のフレドリックの微笑みが頭をちらついて離れない。
「ものごとはそんなに単純じゃない」
頭上からクラウの盛大な溜息と声が降ってきた。
更に悪い事は重なるもので。
ライラ・オールソンを刺した給仕の少年は、フレドリックと同じように放たれた間諜だった。
取り押さえられたあと、最後の力で液体の入った小瓶を割り、恐ろしい病気をばら撒いた。
すぐに護衛に囲まれ退出したラザー様と部下達は幸いにも感染しなかったものの、室内にいた者達が罹患し、それと知らず潜伏期間に外へ運んでしまう。その冬カイスベクファでは、風邪のような症状が流行った。熱が出ても直ぐに下がるその症状を、侯爵邸の事件と関連付けられる者なんていなかった。
一年後。
侯爵領を中心に、多くの国民が亡くなった。
冬期の雪で閉ざされ、他地域に感染が広がらなかったのは救いだったものの、春の訪れとともに届く死者の報告に人々は膝を折って嘆いた。
見計らったように、ミレル神聖国から助力を申し出る書簡が届く。
カイスベクファで蔓延している流感に見える病は、一時ミレルでも流行った恐ろしい病気であること。初期症状は酷くはないが、二度目からは激しい発作を引き起こし、体力のない者から死に向かう。
特効薬はないが、定期的にミレルの女神がもたらした薬を摂取すれば、死には至らない。半永久的に摂取し続ければ。
完治の薬はなく、ミレルの用意した薬を半永久的に買い続けなければならない。
外道の所業だ。
カイスベクファの議会は紛糾し、国王も頭を痛めていた。
そんな時、馴染みの商人の一人からラザー様に小包が届けられる。
フレドリックからの書簡と書物だった。
書簡にはこの病の完全な治療法はミレルにも存在しないこと。抑制薬の精製に利用された、女神の原書の写しが同封されていることが書かれていた。
女神の原書は、女神の知識の原本だ。それは決してミレルの外には出ないし、彼女達の知識は高度すぎて、或いは基礎を省略しすぎて理解が難しい。だからミレルは完全な再現を諦め、安易な利用ばかりを繰り返している。
今回だって、女神の知識から病気の発見には成功したものの、特効薬は存在せず、症状を抑える薬を精製するのがせいぜい。それで十分だと思っているような国。ミレルには、知識を昇華させ進化させる知恵と信念が足りない。
カイスベクファは違う。
国民の命がかかっているのだ。
ミレルから抑制薬を買い続けながら、国内ではこの書物を元に特効薬の開発に心血を注いだ。五年の月日を費やして、カイスベクファは特効薬の精製と量産に成功した。
そうして堂々と、国交断絶を宣言したのだ。
「写しはね、フレドリックの筆跡だった。写して国外に届けるのは難儀しただろうね」
「恐らくミレルからの抑制薬でも特効薬の精製は出来た。だが、こんな短期間では不可能だっただろうな」
二人の声に、じわりと緩む涙腺を引き締め、唇を噛みしめる。
「けれど、王宮の機密文書を持ち出すなんて……」
「機密文書と呼べる物なんて無かったよ。彼が持ち出したのは、せいぜい見習いに手の届く範囲の書類」
「しかし彼の位置ならもっと高度な書類の閲覧も」
書類の整理も手伝わせていた。在り処だってある程度は把握していたはず。
思わず顔を上げてしまうと、まるで我が子でも見つめる様な慈愛に満ちたラザー様の瞳と目が合った。
「どうしてだろうね。対外的に見て彼が持ち出せる範囲の書類だけを持ち出して、本当に危険な物には手を出さなかった」
フレドリックは本当に裏切り者なのだろうか。確かにミレル出身かもしれないけれど、結果的に彼の行動はカイスベクファの多くの命を救った。
私のことも、救おうとしてくれた。
「だがそれ以来音沙汰無しで音信不通。おまえの件が十年ぶりの連絡だったんだ。うちへの抑制薬の売り付けが失敗したあとも、大司祭の養子なんかに収まれるんだから、やっぱり古巣に戻った間諜なんだよあのチビッ子は」
「フレドリックはそんな子じゃないわよっ。今だって私を救おうとここに寄越して……」
ラザー様の意見に珍しく反論するようなクラウの言い草に、思わず睨みつけて反論してしまう。自分でも散々フレドリックの暗い瞳を疑っていたくせに。
ああでも、本当の計画は教えてくれなかった。きっともう一生会わないつもりで送り出された。
何を考えているの。
どうして嘘を吐いたの。
「ねえライラ。このまま君を王都に連れ帰る用意は出来ているんだ。あとは指示を出すだけ」
つまりまだ指示は出していないということ。
「そうなったら国交断絶を継続どころか、小競り合いは避けられんだろう。あの病から十年以上経って、国力も回復した。軍辺りがミレル憎しに傾いてる。あのチビッ子の立場は風前の灯だな」
裏切り者と言いながら、どうして昔みたいにフレドリックをチビッ子って呼ぶの。
二人の暗に言いたいことなんて、これしかない。
ラザー様に、再度最上の礼を取る。
「時間をください。あの大馬鹿を引っ張って帰って参ります。彼にどうぞ弁解の余地を。それに、腐り落ちるまで放置するのではなく、不味い所を切り取って、美味しく食べた方がお得じゃありません?」
軍が動きたいなら、動かしてガス抜きしてやればいい。ついでに国を広げてもいい。
但し、フレドリックを連れ帰って、膿んだ部分だけを集中砲火出来る最適なタイミングで。
「それでこそ私の可愛いライラだね」
「がっつり叱ってやれよ。部下の尻をひっぱたいてやるのも、上司の務めだろ」
二人の待っていたような言葉に、自然と唇が弧を描く。
十年以上離れていても、変わらぬ呼吸のやり取り。
私が説明されずに一人で寄越されたと知って、希望を見出したのかもしれない。今思えば、クラウの演技は大根だったし。
何故だろう。
フレドリックの秘密を知って、多くの事を隠されていた事実に傷付いたはずなのに、仲間だと信じていたミレルに居た頃より、今の方がすっきりしている。
今度は唇を噛みしめるのではなく、笑顔でラザー様にもう一度頭を下げた。
覚悟してなさい、フレドリック。