4 新たな女神 ミヤビ
第一神殿の中央、吹き抜けの高い天井をもつ祭礼の間。
白くなだらかな壁にはアーチを描くような柱が埋め込まれ、円状の開けた空間が造り出されている。
一つの穢れも許さないような完璧な白い空間。
生花や美しい布で飾られていなかったなら、偏執なまでの完璧さに、物怖じしてしまいそうな場所。
中央では、今にもほころぶ寸前の女神の蕾が、花々に囲まれていた。
当初の真っ白な蕾から徐々に色づき薄紅を帯び、今にも花開きそうに見える。
その蕾に向かって、司祭と高位司祭達が円を作り囲むようにして祝詞を奏上している。
いよいよ女神が目覚める瞬間、司祭や女官、選ばれた貴族たちが祭礼の間に一堂に集められた。大司祭達の外側で膝を付き、祈りを捧げる姿で固唾をのんで見守っている。
私は高位司祭達を囲む円の、最も内側にいる。高位貴族や、有力な司祭達と同じ位置。
地位はあるといっても、所詮外側だと周知させるような位置。これは大司祭の権力の見せしめの意味も含んでいる。
高位貴族と女神の娘を傅かせ、その中央で自らは立っている。
女神崇拝を掲げながらも、最も大司祭が敬われているように見える。
それはどうでもいいのだけれど。
むかつくのは、さっきから大司祭の臀部しか見えないことです。
位置的に仕方ないとはいえ、どうしろというのよ。
しょうがないので、白地に金の刺繍を施した大司祭の正装に、穴でも開かないかなって思いながら見つめ続けた。もちろんお尻の部分にね。
蕾を飾る美しい色とりどりの花々は圧巻の量で、国中の花屋が今日は店仕舞いだと言われても納得してしまうほど。むせ返るほどの芳香。香りにちょっと気持ち悪くなりそう。
私は過度な装飾の理由に思い当たって、本当に気分が悪くなってきた。
この香りと花々は血の匂いと記憶を隠す為のもの。
どれだけ血をはじき白く輝こうが、先代女神の血の臭いと光景は、記憶と結びついて消えない。きっと司祭達もそうなのだろう。
美しい布で紛らわされているけれど、祭礼の間は神殿地下の延長上の形をしている。
女神の蕾の場所は、ちょうど地下の祭壇の真上にあたる。
この場所と、あの地下の方陣は繋がっている?
もしかしたら第一神殿全体が、女神を召喚する禍々しい儀式と術式の一部なのかもしれない。
途端に目の前が真っ赤に染まる。
ほんの僅か柱の陰から垣間見た母の最期が、頭の中で再現される。
怖い、こわい、コワイ。
「アキラ様」
そっと、吐息だけで掛けられたフレドリックの救いの声に、呼吸の仕方を思い出せた。
隣が彼で良かった。
肺いっぱいに息を吸い込みたい衝動を抑え、奥歯を噛みしめて浅く息をする。
落ち着け! 自分の心を叱咤する。
これは、幻覚。
血の匂いも、まぼろし。
強くありたいと誓ったじゃないの。せめて、フレドリックの前でだけでも。
そんな想いに後押しされて、背筋を伸ばす。
部下の前で良い格好をしてしまうのは、私の困った癖。でもこんな時に力を与えてくれるなら、やせ我慢だって悪くない。
大司祭の奏上の最中、新たな女神が目覚める。
大人が入れそうなくらいまで育った蕾の花びらが一枚ずつ開く様は、確かにこの世のものではない非現実に人々を引き込む。
輝く百花の王の中心から、女神がゆっくりと瞼を開け胎児のようにうずくまった身を起こす。新たな女神の姿に人々の熱狂は最高潮に達し、泣き出す者までいた。
彼女の孵化に三年かかった。私は十三歳になった。
正装に身を包みその場に立ち会う。
熱気と狂乱に包まれる祭壇から、目を逸らさないよう顔を上げて。
孵化から二週間。
第一神殿の奥まった一室で、女神との顔合わせが行われた。
正直、祭礼の間ではなくてホッとした。あそこは、地下神殿と血の記憶を思い起こさせるから。
ここまで随分待たされたと思わない?
孵化してすぐに顔合わせかと踏んでいたら、とんでもない。
まあ確かに、彼女を周りの環境に慣れさせて、ある程度の刷り込みを完了してからじゃないと会わせられないものね。
大司祭は自分達が親鳥で味方ですよーって、先に洗脳紛いのことをしたのだろう。
この日の為に用意された衣装に袖を通し、髪のほつれを神経質なほど女官達に直された。いつもよりきつめに結われて、頭のてっぺん辺りが痛い。その小さな刺激が、余計に心をざわめかす。
神官の正装に身を包んだフレドリックと共に、次の間から通される。彼にとっても初顔合わせ。神官のぞろりとした長い法衣は好きではないけれど、それさえも似合って見えるから、長身は有利よね。個人的にはカイスベクファ風の、体の線に合わせた仕立ての服の方が、似合うと思うけれど。
重い扉が開かれる直前、隣のフレドリックを盗み見る。高すぎる身長に表情をつぶさに読み取ることは出来なかったものの、彼が司祭イソラ・ヘンネベリの仮面を深く被ったことを感じる。
柔和に微笑んでいるのに、全てを拒んでいる。
ああ、そうよね。
ライラだと気付いてくれる前のフレドリックは、こうだった。
「女神様。一の姫様と、隣は教師役を務めております司祭イソラでございます」
大司祭は用意された壇上の椅子にかける女神の横に陣取り、私達を紹介する。
高位司祭を並べ、私の横には自らの養子であるフレドリック(イソラ)を置き、権力の中枢にあるのは自分だと示すような行為。
ああはいはい、わかってますよって、言ってあげたくなっちゃう。
くだらない。
けれど、くだらない行為には結構威力があることを生前の経験で知っている。
「お初にお目にかかります、女神様」
大司祭の紹介に従い、決められた台詞と仕草で共に腰を折る。
彼女にとっては姉との初対面。
フレドリックと私にとっては、大司祭へ洗脳の成果のお披露目会。
――はじめまして、ミレル最後の女神様。
大司祭からの紹介を受けると、それまでぽわんと緩んだ目でフレドリックの方ばかりをチラチラ見ていた女神は、こちらにぱっと注意を移した。
薔薇色に染まり柔らかい線を描く頬。黒目がちな大きな瞳は、黒曜のように光が宿っている。彼女の動きに合わせてさらさらと流れる、おろした黒髪。クリームのように滑らかな肌。はじけるような若さと、肉感的な大人の魅力の両方を兼ね備えたように見える女神。けれど――
「ずっと会いたかった! 初めまして一の姫様」
豪奢な椅子に腰かけていた彼女は、立ち上がりぱたぱたと音がしそうな足取りで壇上から降りてくる。そのまま司祭や女官が止める間もなく、私の手を取った。
行動の端々に若さが透けて見える。
こんな若い子が発展停滞期にあるミレルに、新しい知識なんてもたらせるの?
溢れ出しそうな感情をぎゅうと押し込め、私は彼女に対して決められた伏し目がちの笑みを浮かべる。
「そんな風に急に手を掴んでは、吃驚してしまいますよ」
「ごめんね。痛かった?」
大司祭の嗜める声に、女神が膝を曲げるようにして私の顔を覗き込む。
女神には階級の概念が薄いみたい。
本当に心配をにじませたような声を聞き、そういえば母も気安い人だったと思い出す。
胸の中にしびれに似た感情が広がった。
これはなに。
今まで蕾だった彼女に対して感じていたのは、死の象徴としての嫌悪だけだったのに。
先代女神と似たところを見つけて、名状しがたい想いが湧き上がりそうになる。
これ以上の感情の嵐なんて、誰も望んじゃいないのに。
痛くはないと答える代わりに首を振ってみせた。
一瞬広がった感情も振り落とすみたいに。
「あなたのこと、なんて呼べばいいかな。名前で呼んでもいい? アキラちゃん、とか」
彼女の口は止まらない。握られた手を振り払うことも出来ず、じっと耐える。
アキラちゃん。
母の声が頭の中で聞こえる。私をそう呼ぶのは彼女だけだったのに。
「女神様は本当に慈悲深く御心が豊かでいらっしゃる。さあ、一の姫様」
この時ばかりは大司祭が割って入ってくれてほっとした。
彼に促されて口を開く。徹頭徹尾、今日の私の発言は決められている。受け答えの用語集は暗記済み。手を握られるのは想定外だったけど。
「身に余る光栄です」
あくまで『アキラちゃん』呼びの賛否は答えない。この場で私が何某かの回答を出すことは、望まれてない。だってここは、大司祭達への洗脳成果のお披露目会なんだもの。
「まだこの世界に来て日が浅いから、分からないことだらけなんだ。色々教えてくれるとうれしいな」
「私に出来る範囲でしたら」
間を置かずに口に出来た。反復練習よ、ありがとう。
私は今、きちんと笑えているだろうか。フレドリックと大司祭の表情が変わらないことに安堵しながら、喋り続ける女神を透過して中庭を眺める。
すぐ後ろの窓から見える生垣は、今日も青々と生い茂っている。
「私のことはミヤビって呼んでね。たった二人の姉妹なんだもの、仲良くしようね」
えへへと、照れたように笑う女神。
窓際の飾り布を揺らし、女神の横を風が通り抜けていく。
中庭からは甘い花々の香りと、草いきれの匂いがする筈なのに。
私は血の匂いを思い出す。
忘れちゃいけない。
数年後には、彼女も母と同じ道を辿るのだ。
すっぱくなる喉を無理やり抑え込んで唾を飲み、微笑んだ。