1 一の姫 アキラ
本日プロローグと二話同時投稿です。
お気をつけください。
「うふふー。晶ちゃんのほっぺは今日もすべすべー。ほら、笑って笑って」
「めがみさま、おやめくださ……」
「ぷーん。ママをそんな風に呼ぶ子にはお仕置きですっ。こしょこしょこしょー!」
「ひゃっ。おかあさまわきはやめてええええぇ」
ついさっきまで行儀よく腰掛け、お茶と焼き菓子を楽しんでいたソファの上を転げまわってくすぐったがる娘と、全力を注いでくすぐる母。
しかも私が娘の方です。
お か し い。
ライラ・オールソン、気が付いたら二度目の人生がはじまっていました。
ミレルの女神の娘として。
人生何が起こるか分からないとは言うけれど、流石にこれは想像つかないでしょう。
生前外交問題でごたついてたミレル神聖国。そこの当代女神の一人娘、アキラとして生まれるって。
女神によって大陸の慣習とは少し異なる名前を付けられた私の立ち位置は、あくまで女神の娘。次代の女神じゃない。生前の記憶で、ミレルの女神は先代の女神が産むものだと思っていたから、ホッとするべきなのか、何なのか。中途半端な。
理解出来なくても、起こってしまったことは仕方ないわよね。
私は前世の記憶と人格を手放せずに、生まれ直してしまったみたいです。
そしてさっきから人のほっぺを弄り続ける女性が、女神ミヤビ。
黒髪黒目にきめの細かいクリーム色の肌と、すっきりした顔立ち。少し吊り目の涼やかな瞳。彼女の特徴は百五十年前に降り立ったという女神そのもの。
私はというと、黒髪黒目は受け継いだけれど、典型的な大陸民族のとがった鼻に、ちょっとの日向ぼっこでそばかすの浮く白すぎる肌。申し訳程度に女神のスパイス加えたみたいな仕上がりには、子供ながら苦笑いだ。確かにこの容姿は次代の女神じゃなくって、女神の娘よね。
そもそも女神は、赤ん坊として産まれてくるのではないらしいから。
じゃあどう産まれるの? って教師役の司祭に聞いたら、はぐらかされた。おしべとめしべのお決まりの書物を持ってきたので、あの時の私は半目になっていたと思う。そういうのはもうちょい後で良いし、知ってる。
ここはミレル神聖国、首都の神殿の奥。
選ばれた人間しか入ることを許されない女神居住区第一神殿。
一年通して中庭には花が咲き、蝶が舞い鳥が歌う。見目の良い護衛や女官に微笑みかけられ、嫌味を言う輩なんていない。少女趣味を詰め込んだような家具。完璧な箱庭。
生まれてから五歳になった今まで、私は一度もこの箱庭を出たことがない。
世事に疎くなってしまって困るわ。
完璧に整っているのはカイスベクファの王宮と通じる所はある。でもこっちの方が作り物じみてるんだよね。あの頃は裏方の女官、今は取り繕った表しか見えてこない立場だから、その違いもあるけれど。
カイスベクファとミレルの関係が今どうなっているのか、仔細を知りたい。
ラザー様は王位に就けた? フレドリックはちゃんと仕事を熟せているの? 皆元気にやってるかしら?
生前の私のちょっと恥ずかしい詩的な日記、読まずにちゃんと誰か処分してくれた!?
もしかして戦争とかになっちゃうのかな。
嫌だなー。
女神ミヤビは、自身が政争の火種になっているとか絶対知らないだろうし。
「あーあ、一日がもっと長ければいいのに。そうしたら延びた分はべったり晶ちゃんとくっついて、遊ぶ時間にするんだー」
そうしたら、その延びた分もそっくり公務にされちゃうんじゃないかな?
とは思ったけど、勿論言いませんよ。五歳児の発言じゃない。
女神の発言が、女官時代の疲れ切った時の自分のようでちょっと笑えた。
お疲れ気味みたいなので、よく私が使っていたストレス解消法を女神に勧めてみることにする。甘いものって正義よね。
「はい、おかあさま。あーん」
「! あーん! 晶ちゃんの指ごと食べるクッキー美味しいっ」
差し出したクッキーを指ごとはむりと咥えられて、ちょっと固まった。
でも、どうやら女神は満足らしい。幸せそうに咀嚼している。
こんなに甘々な女神ミヤビだけど、私は彼女に叱られたことも無ければ、一度も同じベッドで眠ったことも無い。
国柄と身分の差異、中身が大人なのも相まって、女神と親子って実感があんまり持てなくて困る。誰かに心情を覗かれたなら冷血だと言われてしまいそうだけれど、圧倒的に接触が少なすぎて、掴み切れていないのだもの。
公務と公務の合間とか、ちょっとした隙間時間にしか会えない。
今だって、これが約二日ぶりの対面よ。
その代わり、女神は会える時間は離れたら死ぬのかってくらい密着してくるし、ひたすら甘やかしてくる。
前世の私は、生まれも育ちもカイスベクファの一般家庭。姉妹で内緒話をしながら一つのベッドでくっついて眠るのが常だったし、母親はいつもいたずらばかりの兄と弟に雷を落としていた。そんな環境に居たので、古臭い貴族の風習に固執しているようなミレルの子育てに、戸惑ってます。
生前仕えていたカイスベクファ王室だって、もう少し親子の交流は盛んだった。乳母に子育てを任せきりで日に一度も会わないなんて、百年以上前の歴史書物に出てくるような因習だ。今時は、親子の絆を疎かにすると、謀反の原因になるっていうのが定説。
あ、親兄弟関係が密でも、謀反は起こる時は起こるけどね。
だから首を傾げたくなっちゃう。
この国で一番尊いはずの女神様が望んでいるのに、どうしてこんなに会えないのかしらって。
「アキラ様、そろそろお暇いたしませんと」
控え目ながら有無を言わせぬ声がかかる。壁際にずっと控えていた女官だ。
「やだやだっ」
駄々をこねる。女官の声に嫌々をして、首を振る。
私じゃなくって女神がね。
ぎゅっと横から抱きしめられると、さらさらの黒髪が当たってくすぐったい。
「おかあさま?」
彼女には公務が待っている。会えるのはまたきっと数日後だろう。
私も憂鬱な大司祭との会見が待ってる。神殿を掌握し、実質の主と呼ばれている男。好々爺然とした見た目とは裏腹に、絶大な権力を持ち、神官と女官たちどころか、国に連なる貴族達からも、畏敬の念で見られている。
私に対しては女神の娘として一定の配慮を見せるものの、定期的に会見を設けるあたり、女神が産まれなかったことに、疑いでも抱いているだろうか。
そこは、私にはどうにもならないんだが。正体ばれたらめちゃくちゃ怖いので、必死に無口な子を演じている。油断するとぺろっとカイスベクファの言語が出てきそうで。
あんまり長居してると女官の立場が悪くなってしまうから、もう行かないと。
「こうむ、がんばってくださいね」
「うん、頑張る。また晶ちゃんぎゅってするために頑張る」
離れるときいつも、彼女の愛嬌と明るさが一瞬だけ陰る。
だから手を伸ばして抱きしめ返す。
彼女が少しでも、明るさを保ち続けられるように。
生前の記憶があったって、そのくらいは許されるでしょう?
彼女は厄介な国の女神様かもしれないけれど、私を産んでくれた母でもあるんだから。
この時の私は、面倒臭いけど可愛い人だなぁなんて、女神ミヤビを年上気分で呑気にみていた。
幼い身体はなかなか言うことを聞かない。
ベッドに入るとすぐ寝こけてしまうし、楽しいことや悲しいことがあると、まとめようとしていた考えはすぐに脳内で吹っ飛んでしまう。いや、今はどこぞの貴族の贈り物の子犬を撫でてる場合じゃない。そう思うのに、気が付くと嫌がる子犬を撫でまくっている。いかん、いかん。
大人の感覚で動かそうとした足は縺れるし、昔出来たことがものすごく時間がかかってイライラもしたりする。指が短いっ。
一番辛いのは、見聞きしたことを書き留められないこと。覚えていたくても、書き留める訳にはいかない。ミレルとカイスベクファじゃ公用語が少し違うし、文法も違う。教わってないカイスベクファの文法で書かれた紙とか見つかったらまずい。
一人の時間が全くないような今の立場じゃ、備忘録なんて誰に見られるか分からない。五歳児に一人の時間がふんだんにあったら逆に怖いけど。
なんだかんだで快適だし、戦争の気配もない。
私は基本、大雑把な人間だ。
生前の人々の消息は知りたいけれど、叶わない、今は出来ない事を考えても仕方ない。もうちょっと大きくなるまで我慢、我慢。
そうやって自分に言い訳をしながら安穏と過ごしてた。
私が五歳のおわり、女神が懐妊した。
それまでも会う機会は少なかったのに、更に彼女に会えなくなった。
会って別れる時、女神が泣いて嫌がるようになってしまったのも原因かもしれない。離れたくないと、彼女は泣いた。逆に女神が不安定になるからと、まったく会わせてもらえなくなった。
私に出来ることなんて、中庭で摘んだ花を女官に届けてもらうくらい。それだって、届いたのかどうか。
神殿の司祭も女官たちも、皆口をそろえて次代の女神を望む。
いくら何代か前の女神からもたらされた知識で、お産での死亡率が下がったからって、命がけであることに変わりは無い。
誰からも彼女自身の無事を祈る声を聞けず、この国へ気持ちの悪さを覚えた。神は死なないとでもいうのだろうか。
無事に赤ん坊が産まれた。
産まれた子供は男の子だった。私には弟が出来たらしい。
女神の息子。
生前、聞いたことのない響きに首を傾げるけれど、娘が居るのだから息子が居たっておかしくないか。
ひと月後、ようやく会えた女神ミヤビに対面して、私はこの国の本当の恐ろしさを知る。
彼女は何も変わらなかった。
美しく、歳を取らず、あんなに愛おしそうに撫でていた腹がぺたんこに戻って。
相変わらず私を甘やかして。まるで時が巻き戻ったよう。
――女神は息子を産んだことを、忘れていた。
産まれた子が男の子だと、二度と会えない。
神殿に引き取られる。女神以外が権力を有してしまわないため、らしい。もっともらしくこじつけているが、神殿の司祭連中の戯言だ。女神である母に権力は無い。
娘である私が取り上げられなかったのは、過去にどうしても女神が次代の女神を産めずに身罷ったときに、その娘が女神を産んだ事例があったから。
この百五十年もう何人、女神達の子が神殿へと預けられたのか。
その度に彼女達は何度、忘れさせられたのだろうか。
生前、女神なんて存在しないと思っていた。ただの信仰の偶像だと。
存在はしている。ミレルの外の人間が想像していたのとは違う形で。
彼女は確かに美しく、歳を取らない。
けれど、中身はきっと普通の人間だ。
次代の女神をと言葉でも態度でも周りに促される日々。
女神ミヤビは目に見えて神経質になっていった。その姿は追い詰められた色を帯びて、私を抱き締める腕の力は強まった。産んだ赤ん坊を、取り上げられまいとするように強く。
覚えていないはずなのに。
私が十歳になった年、女神はまた懐妊した。
周りに揃えられた見目の良い男達の中の一人が父親なのだろう。私の、アキラとしての父親も、この中に居るのかもしれない。心と体を通わせた相手を、籠の中に繋ぎとめて気にしない男なんて、対面したいとは思わないけれど。
同じ第一神殿に住んでいるのに、遠目に見ることしか出来なくなった。
私と会うと、別れる時に激しく取り乱してしまうから。
彼女はこれまで何人産んだのだろう。私にはもしかして兄も居るのだろうか。
ここは女神の国。
女神は次の女神を産まなければならない。
女神ミヤビのお産がはじまり、第一神殿内の私への注意は手薄になった。
幼い頃よりずっと機敏に動けるようになったし、迷路のような内部構造にも迷わなくなった。医療の分野でも、進歩の先駆けはミレルだったけれど、発展させたのは他国だ。ちゃんとした医療技術が浸透しているかも怪しい。
この頃にはそう比較が出来るまでに、国の粗も見えてきた。
五歳の頃は何も出来なかったけれど、今ならきっと出来ることがある。
彼女に対して本当の意味で娘らしくは接することは出来なくても、それでも姉や妹のように想っていた。
今度は忘れて欲しくない。あんまりだもの。
部屋を抜け出したのは、そんな考えからだった。
生前の女官としての、足音を立てずに走る寸前の速さで歩くなんて技能が、こんなところで役立つなんて。
目立たない裏庭を遠回りして、棘の生えた生垣を潜りぬけ、裏階段で降りた地下からは、地に響くような祝詞の朗誦が聞こえてきた。
見張りは表階段にしかいなかったらしい。無人の薄暗くがらんどうとした廊下を、今度は足音も気にせず疾走する。祝詞を聞いてから、脂汗が止まらなかった。心臓は緊張から跳ねっぱなしで、走った負担なんて感じる暇もない。
――私はこの不吉な奏上を知っている。
彼女が運び込まれたのは、神殿の最深部。地下の祭壇。
地下の祭壇なんて、今までの祭礼で一度も足を踏み入れたことはない。
大きく開けた空間には、司祭たちの上げる祝詞と、肌をぴりぴり刺激する張りつめた空気が満ちている。中央に置かれた石の祭壇に寝かされた女神。初めて見る文様の陣が、中央の祭壇から伸びる放射線状に描かれている。普段見かけるミレル語の文字とは違う。
更にそれを囲むように十人近い正装の司祭たちが祝詞をあげる。
硬い石の祭壇に寝かされ苦しむ女神は、まるで生贄のよう。
まるでじゃない、生贄そのもの。
唐突に思い出す。
私もここで産まれたのだ。
余りに茫洋としていて、そして恐ろしい。蓋をされていた記憶が溢れだす。
暗い闇に包まれ死にゆく寸前、私の魂は彼らによって引っ張られ、召喚されたのだ。
「また失敗では困る。今度こそ女を産んでもらわないと」
「男では魂が器に入りませんから」
「女でもあの娘のようでは困るな」
祝詞を唱える司祭たちの更に外から見守る、高位司祭の会話に吐き気がする。
神殿の柱の陰で、口を両手で抑えながらへたり込んだ。
私の時にも声が聞こえた。
「失敗作だ」という男の声。あれは確か――。
「いぃやああああああっ」
空間ごと引き裂くような、ミヤビの悲鳴が上がる。
「成功だ!」「ついに女神が」などと喜色をあげる司祭たちが信じられなかった。
肉を裂くような音と、漂ってくる甘く錆びついた血の匂い。死に際に嗅いだのと同じ匂い。悲鳴はずっと続いてる。
お願いやめて。
私はまだ、心から彼女を『お母様』と呼んでいないの。
怖くて、怖くて、なかなか振り向けなかった。
カタカタと鳴る歯の音が漏れるのじゃないかと、必死で口を押さえ直す。
悲鳴が収まり、恐る恐る盗み見た先には、ひとつの巨大な蕾があった。
沢山の花びらが閉じた姿は、百花の王と呼ばれるピオニーに似ている。
それが、事切れた『母』の腹から生えている。
異様だった。
赤ん坊が一人、中に入りそうな大きな蕾は、身体を突き破って存在しているというのに、血をはじいて内側から白く輝いている。
圧倒的な知識を有する女神の魂が、どこから召喚されてくるのかなんて知らない。
司祭達は同じ女神の身体に次の女神を召喚している。先代の女神を殺すことで。
強制的に召喚された魂。ただの器の肉体。
この場所に神の叡智なんかありはしない。
無理やりに召喚され、人としての尊厳を踏みにじられて、最後はただ次代を産む苗床として命を奪われる。
それがこの国の女神の真実。
隣国から召喚されてしまった私は、彼等にとって確かに失敗なのだろう。
けれど、死の瞬間を受け入れようとしていた私を別の器に引っ張り入れたのは、この国の司祭たちの所業。
生へと引きとめた分の責任は取ってもらおう。
こんな腐った国、絶対に許さない。