エピローグ ~八年越しの手紙~
カナン国大使館、大使の私室のひとつ。
私物の荷ほどきを粗方終えた私は、封の開いた封筒を手にとっては机上に戻しと、無意味な反復動作を繰り返しながら溜息を吐いた。
既に開封済みの少し黄ばんだ封筒。
ペーパーナイフで開けられたのか、封蝋部分が残ったままになっている。
封蝋は百花の王と呼ばれるピオニーを象った紅い紋章。
――かつてミレル神聖国の女神ミヤビだけが使った紋章。
カイスベクファを発つ前に行われた結婚式の後、ラザー様から贈られた沢山の結婚祝いの品の一つとして、手紙の束を渡された。
「女神の逃亡を見逃してやって欲しいと申し出てきたのは、フレドリックだったんだよ。私としてはもう少し積極的に、彼らの滞在地を決めさせて貰いたかったんだけどね。『女神ミヤビに害無し』と私に報告するために、一の姫アキラ宛の手紙を提出してきた。そうして、叶うなら用が済んだ後に正当な受取人である君に渡して欲しいと」
呆れたように笑うラザー様の言葉を思い出して、涙が出そうになる。
けれど、感傷は長くは続かなかった。
「ライラッ」
隣の部屋で荷ほどきをしていたはずの夫に見つかってしまったから。
私の潤んだ目を見つけて、何を勘違いしたのか慌てて目をこすってくる。痛い。
そのまま長椅子に誘導されて、膝の上に抱え上げられてしまった。今日はもう片付けは無理っぽい。私も諦めてその胸元に寄りかかり、鎖骨の窪みで頭を休ませる。
「どうしたんですか。もしかして、書記官の誰かに嫌味でも言われました? まさか、顔合わせで俺とライラを親子だなんてふざけたことを口走った通いのメイドがまた何かを……」
「違うから。寧ろ書記官達の方が、私がいきなり仕事に口出ししたもんだから脅えているし、メイドの子なんて床に頭を擦りつける勢いで平身低頭になっちゃったんだから、そろそろその冷徹な笑顔を向けるのやめてあげて」
預けられた部下達は、皆素直な子達ばかりだ。育てがいがありそうで腕が鳴る。
「親子扱いは看過できません」
「そこはもう誰も誤解なんてしないわよ。こんなに毎日べたべたしているんだもの」
やっぱりそこを気にしてたのね。フレドリックがいくら若く見えても、私達の年齢差は十六歳。周りからは歳の差夫婦に見えるのは仕方ない。中身は違うんだけどねー。
情報の把握が甘かったメイドの子が、初対面で私をお嬢様と呼んでしまったのが拙かった。その時フレドリックの後ろに、『ガーン』という大きな文字が具現化して見えた。
でも今では、砂を吐きそうなくらい毎日べったりの私達を見て、親子発言をするうっかりものはこの大使館半径二キロ以内には存在しないと思う。
今だってどさくさに紛れて項に唇を寄せてきているし。油断も隙もない。
「ちゃんとお礼を言っていなかったわよね。どうもありがとう」
「何の話です?」
顔を上げたフレドリックが首を傾げる。きょとんとした表情が可愛い。
「もちろん、ミヤビのこと」
「ああ。ミヤビ様の手紙ですね」
私が手に持ったままだった開封済みの封筒を掲げると、納得したように頷いてくれた。
「あの動乱の最中彼女を見逃すことも、大司祭が保管していた手紙を持ち出すことも、難しかったでしょう?」
封も開けずに大司祭へとフレドリックが直接届けていたミヤビからの手紙。
逃亡はエーリクや女神の従者たちが協力したとしても、あの混乱中の神殿内部から大司祭が保管していたアキラ宛ての手紙を持ち出すなんて、危険だったはず。
「だって、ミヤビ様に嫌われようとしながら、それでも貴女は彼女を気にしていたじゃないですか。消してしまおうかと言ったら、慌てて彼女に気の無いふりをして。手紙だって一度読んでみたいって本音まじりに誤魔化して。きっと手違いで彼女に何かあったなら、傷付いていたでしょう? ……今のライラの肉親は彼女だけだから」
もしミヤビの身に何かあったなら、後悔して引きずるのはフレドリックより私だった。
自分の気持ちを理解してなかったのは私のほう。
そんな複雑な想いを、フレドリックはあの頃から酌んでくれていた。
その優しさに胸が締め付けられる。
女神の魂召喚という恐ろしい神殿の所業と構造の犠牲者なんて、絶対に出したくはなかった。
けれど、真実を話すことも近づくことも叶わなくて。
早々にその部分は諦めたつもりだった。
なのに、彼女が寄越す触れることすら叶わない手紙が、細い一本の糸のように私達を繋いでいた気がする。
私は前世のライラ・オールソンだった時の家族に会うことは出来ない。
女神召喚で、失敗だとしても記憶を保持した転生が叶ってしまうならば、死者の蘇生を願い術式の復活を目論む輩が出てきてもおかしくはないから。だから私の転生を知っているのは、ほんの片手の人々だけ。
前世の家族には会わない。告げない。これはカイスベクファ国王陛下との約束。
そしてフレドリックも、ミレルを離れて墓参りにすらいけない身になってしまった。
そんな彼は、私が妹を失わないようにと考えて動いてくれた。
「ありがとう」
彼女を生かして逃がしてくれて。
手紙をわざわざ手に入れてくれて。
感謝のキスを夫の頬に贈ると、お返しに先程擦られた目尻に優しくキスを落とされた。
「惚れ直しました?」
「惚れ直したも何も、最初からずっとフレドに夢中よ?」
変わらぬ炎を灯すような群青色の瞳を見つめる。
その瞳にはもう、翳りや諦めなんて見当たらない。
翌日、勇気を出してミヤビからの手紙を開く。
最初は拙かった文字が、段々と上手く優美に変わっていく。
初めて会った時は、ただ姿が美しいだけかと思った彼女が、内面的に人として成長してゆく。その姿をつぶさに味わわせてくれるような筆致。
年下の姉を気遣う、思いやりと好意に溢れた手紙。
まっすぐな気持ちをそのまま言葉に乗せた文章は、一生読むことが叶わないと思っていた。
私はあんなに酷い姉だったのに、彼女の手紙はこんなにも温かい。
「ねえフレド、私は彼女に返事を書いてもいいのかしら。数年越しの返事だけれど、喜んでくれると思う?」
隣に佇む夫を見上げると、温かい手で肩を撫でられた。
「ええきっと。でも、受け取ってくれなくてもいいじゃないですか。何通でも書けばいい。彼女がしたように、ライラの本当の気持ちを伝えれば。同じ国に居るんです。何度でも、貴女の心を私が届けに行きましょう」
ああ、そうだ。
ミヤビが何年にも渡って手紙を綴ってくれたように、私だって綴ればいい。
彼女への気持ちを、何十通だってしたためればいいんだ。
拒まれたって突き返されたって、彼女に伝えたいことは泉のように湧き出てくるのだから。
「不本意ですが、貴女の愛すべき文章を愛でる権利を、彼女にも少し分けてあげることにします」
なんて、フレドリックが真剣な顔をして言うものだから、私は泣き笑いを止められなくて困った。
ペンを取ったら想いが溢れる。
まずはやっぱり母のこと。
私がカイスベクファ出身の女官であったこと。
ミヤビが何も知らずにいることに焦り、苛立ち、そしてどうにも力不足だった自分の感情をぶつけてしまったこと。
今は私の夫になったフレドリックのこと。
そしてもちろん、貴女がいなかった三年間のミレルのこと。
そうそう、女神の従者を務めていた四人の青年達が、貴女のお蔭でその後のミレルの大きな助けになっていること。
したたかなランツ家のこと。
そしていつか、会いたいです。会って沢山お話しをしたい。
会って直接謝りたい。
貴女に姉と呼ばれるの、本当は嬉しかったから。
そっと、書き上げた手紙を胸に抱きしめる。
心に浮かんだのは、初めて会った時の彼女のはじけるような笑顔。
完結までお付き合い頂きありがとうございました。
2人企画、アキラ編はこれにて完結となります。
また、ナツ様のミヤビ編の完結に合わせて番外編を一話投稿する予定です。ミヤビ編と合わせて、そちらもお楽しみ頂ければ幸いです。




