12 最期
ミレル神聖国の神殿は落ちた。
高い塀や壁の一部は無残に崩れ、今まで保たれていた白亜の荘厳さは見る影もない。
ラザー様が特別に貸し出してくれたクラウが、神殿に先行した指揮官と情報交換するのを尻目に、混乱が終息に向かう内部へと足早に進む。
「ちょっ待てってば! 勝手に進むな、おいライラ。お前ほんっとに後で覚えてろよっ」
すぐに追いついてきたクラウの愚痴が、鬱陶しい。
「大丈夫よクラウ、ここは私の庭みたいなものなの。それにもう、女神のいないミレルに戦意なんて欠片も残ってないんだから」
国境でカイスベクファ軍とそのまま合流し、踵を返して神殿へと進軍した。
ミレル国民は、輿入れでついさっき送り出したはずの一の姫の蜂起に、呆気にとられていたものの、予想よりずっと抵抗は少なく制圧を受け入れた。
中央神殿のある首都に入るまで、殆ど衝突らしい衝突も無い。婚約期間に数年かけて行なわれた街道整備が、狙い通りに働いた。カイスベクファとの技術格差を目の当たりにした人々は、ある意味姉妹の内乱でもある争いに、諦めと傍観を決め込んだのかもしれない。
信仰心と女神の存在だけでは補いきれないほど、ミレルは限界だったのだろう。
当然全てが順調に進むわけも無く、神殿に御旗として残った女神は戦を宣言した。
送り込んだ部隊から女神の捕縛と誘拐に失敗したと報告を受け、眉を顰めるカイスベクファ軍の指揮官の横で、私はフレドリックの姿がない事に震えを覚えていた。
先に女神を誘拐して、大司祭だけを吊し上げる手筈だった。
けれどもう戦争ははじまってしまった。
失敗でも成功でもすぐに合流するようにと、フレドリックと約束をしていたのに。本格的な戦闘となれば、神殿内部から協力をしてくれるのは有難いけれど、それよりも彼の無事をこの目で確認したかった。
自分勝手な心の有様に辟易しつつ、反旗の象徴としての役目を果たすしか出来ない身がもどかしい。
首都で本格衝突かと思われた寸前、女神が忽然と姿を消し、ミレル内部は大混乱に陥った。開戦を宣言した彼女が自ら逃げるとは思えず、再度誘拐を実行して成功したのかとカイスベクファは沸きかけた。けれど、そうではないらしい。
どんなかたちでも逃げてくれたことに、内心ではほっとしていた。女神の死はもう見たくないから。
常の大司祭ならばお得意の信仰的演説で人々を丸め込み、纏め上げたかもしれない。けれど、彼は身の内にカイスベクファ側の人間を抱えてしまっている。
イソラ・ヘンネベリ――フレドリックだ。
私が蜂起した後も大司祭の側近くに控え、こちらに情報を流し続け、ミレル側の連携を邪魔し続けた。
有能過ぎる人間っていうのも困りものよね。予想以上の働きが出来てしまうから、ハラハラさせられ通しでしょうがない。
でもそれだってもうおしまい。
追い詰められた大司祭は、数名の司祭と共に塔の最上階に立て籠もった。
心臓が早鐘を打つのを無視し、駆け出すのを我慢して、制圧された第一神殿の祭礼の間の裏手から、真っ直ぐに伸びる塔の螺旋階段を登る。最上階の踊り場まで辿り着くと、扉の前で人だまりが出来ている。何とかと煙は高い所が好きって言うけれど、どうして悪党って上に逃げたがるのかしら。
私はこれから、一の姫として最大の演技をしなきゃならない。
お腹に力を入れて、背筋を伸ばして唇に笑みを引く。
私に出来ることをしなきゃ。
フレドリックだって、彼に出来ることを全力でやっているのだから。
「エーランド・ヘンネベリ」
名前を呼ぶと、視界を遮っていた人垣が割れる。
女神には逃げられたものの、大司祭を追い詰めることには成功した。
大司祭はまだふてぶてしさを失っていない。これからそれを、打ち砕きに行く。
カイスベクファの兵とミレルの協力者の間を、大司祭達のいる部屋の前までゆっくりと進む。
残っているのは大司祭と数名の司祭、二名の神殿兵だけだ。
向けられた神殿兵の矛先を無視して、中央の人物だけを見つめる。
どうせ矛先が届く前に、私の斜め左に居るクラウが払う。本職は国王の護衛頭。室内戦闘で損じるようなら、彼はとっくに職を辞している。
「これはこれは、一の姫様。ご気分は如何ですかな? 実の妹であり、この世に降り立つ唯一の女神を追い落とし、国を簒奪したご気分は」
毒をたっぷりと含んだ言葉は、私を傷つけようと発せられているのがわかる。
けれど、響いてなんかこない。
「良くはありませんわ。これから貴方のお粗末な政治手腕の負債を被ると思うと、頭が痛くなりそうですもの」
かぶりを振って、心底呆れたように蔑む。
相手を傷つけたいならこういう風にしなきゃ。
単純に能力が無くて、他国の国民を大量に殺して、国を傾けたから引きずり降ろされるんだと、周囲に知らしめてあげる。
「失敗作め」
大司祭と共にいた高位司祭の一人から、そんな言葉を投げつけられる。
この声は知っている。地下神殿で母の死を狂喜していた男の声。
私の目は光っていたかもしれない。あくまで光る仕様だったらの話だけど。
「女神の娘を失敗作と呼ぶのなら、お前たちは何なのかしら。存在自体を消される女神の息子は、失敗作以下ということかしら?」
彼らは一様に黒髪と黒目の者ばかり。
切り返しに、言った本人がぎくりとしている。まさか、黙っているとでも? この国の闇は全部晒して壊すのよ。
「やはりご覧になっていらっしゃいましたか」
得心した様な大司祭の瞳を真直ぐに見つめる。
彼の髪は歳のせいで真っ白だが、その瞳は黒くぎらぎらと光って見える。
八年前の母の死を、忘れるものか。
「ミレルは創世の女神を顕現させる神聖国などではありません。生贄を捧げる穢れた邪教徒の集まりです」
目を細めて、吐き捨てるように告げる。
「何をおっしゃいます。あれこそ神の御業、他に説明のしようがありましょうか。例え貴女が我々を処刑しようとも、遺志を継ぐ者は現れます。そうして女神はまたこの地に降り立ち、ミレル神聖国をお救いくださるのです」
大司祭の言葉はいちいち仰々しい。他の司祭のように口汚く私を罵るでもなく、未来にまで不安の芽を埋め込もうと、泰然とした態度を崩さない所が腹立たしい。
「神の御業でも邪教の儀式でも、もうどちらにしても二度と叶いませんので、あしからず」
後方から聞こえる低い耳慣れた声に、場違いな喜びが身体を駆け抜ける。ほんの少しだけ、緊張していた頬を緩める。
信じるって決めたのに、声を聞くまでやっぱり心配していたなんて、情けなさすぎるわよね。まったくこれじゃあ、私はどこの心配性の母親なの。
そっと取られた右手の温もりに勇気づけられ視線を合わせると、群青色の瞳が微笑みを返す。
(心配したのよ)
(信じてなかったのですか?)
一瞬交わった目くばせだけで、フレドリックとそんな会話をする。
視線だけでお互いの気持ちを伝えるなんて、久しぶり。何もかもぴったりと合ってる。懐かしく、それでいてあの頃には無かった頼もしさを感じて、不思議な高揚を覚えた。
「どういうことかしら」
にっこりと笑んでフレドリックを促すと、窓の外を示された。中庭の中央で煙が上がっている。混乱で火の手が上がったのかと思っていたら、意図的に燃やしているらしい。
「地下神殿での儀式の祝詞と方陣、その文言と術式の全て。原本から写しまで、燃やし終わりました。ああ、もちろん地下の神殿設備は破壊済みです」
「なっ……なんてことを……」
大司祭は二の句が告げられないようで、口から無意味に息を吸って吐き出す作業をしている。
仕方ないので、私が合いの手を入れましょう。
それはもう盛大に!
楽しんでるって? ええ、もちろん。衆人環視で女神召喚の終焉なんて、ご褒美だもの。
「イソラは儀式の経験がないのではなくって? それなのに、よくご存じね」
「そのために養子という立場を、甘んじて受け入れたのです。ああ大司祭様、私と同じように密かに逃がそうとされた書簡を持たせた司祭については、全員捕らえさせて頂きましたので。――こちらを優先して、女神の捕縛に協力できませんでした。怒っていらっしゃいますか?」
大司祭から私へと戻した視線を逸らさずに、ほんの少し首を傾げて笑ってみせる。
くっ。この角度で首を傾げるとか! 分かっててやってる、ずるいっ。そんなことしなくたって、私はいつもフレドリックを許しちゃうのに。
心の中で軽い愚痴を言いながら、表情では一の姫の体裁を繕う。
「怒るわけないでしょう。女神なんてどうでもいいのです。貴方は私の愛しい人ですもの」
フレドリックは繋いだままの私の右手を持ち上げると、自らの額に押し当てた。
額に手を押し当てる所作は、ミレルの女神が臣下に許す最も栄誉な行為。やり過ぎな気もするけれど、それを模した姿は一番の意趣返し。
「イソラ何故だ。お前ならば私と同じ道を歩むことが出来たのだぞ。女神を操り、この国を支配し、真の導き手であれたのに。それをっ! そんな女神の失敗作に篭絡されおって」
感情をむき出しにする醜い表情に、影の最高権力者としての威圧はもう感じられない。
大司祭の心の防波堤は、フレドリックだった。
上手く逃がして、女神の召喚を成功させるつもりだったのだろう。
器なら私がいる。
カイスベクファに加担して国を簒奪した、愚かで、司祭イソラに篭絡された、控えの一の姫が。一の姫が子でも身籠った頃、攫って召喚に使う算段だったのだろう。
残念でした! うちのフレドリックは、徹頭徹尾そんな子じゃありませんー。
「出来るからといって、歩むとは限らないでしょう。戻った時からずっと、私はこの国と、エーランド・ヘンネベリ大司祭の破滅を願っていましたよ。ですが、アキラ様の教育係に抜擢してくださったことだけは、感謝しています。出会えなければ、俺は救われなかった」
一人称が変わる。
フレドリックの群青色の瞳には、私だけが映っている。
「その女はお前を捨てて、カイスベクファの第二王子へと嫁ぐのだぞ。所詮同じ胎から産まれた女だ。女神のように、全てを捨てるのだ」
大司祭の髪はかつて黒かった。その瞳は今でも黒々としている。
彼はかつての女神の息子。その一人。
大司祭まで登りつめたエーランド・ヘンネベリは、自らが神殿で育ち、司祭以外の道が許されなかった理由を知ってしまった。
彼はその行き場のない怒りを、代々の女神に男達をあてがうことでぶつけた。
どの女神も生贄にすぎないのだと、支配しているのは自分だと自らを納得させるように。
「お母様はそんなこと望んでいらっしゃいませんでした。子供と母親を引き離したのは貴方たち。記憶を消したのも貴方たちじゃないの。貴方はかつての被害者かもしれないけれど、沢山の人々に同じ思いをさせた加害者よ」
頂点に立ったなら、自分の代で改めれば良かったのに。
女神の知識なんて数代でほとんど出尽くして、ミレルは立ち行かなくなっていたのだから。
「……ふ…ははははは! 私を殺せっ。女神を追い出し神殿を穢し、占領されたミレルと共に悪名を轟かせればよい。一の姫アキラよ!」
遂に大司祭のネジが飛んだらしい。
その姿と先程までのやり取りで、彼らの唯一の戦力だった神兵達の矛先は下がっている。
どう考えても、今守ろうとしてる司祭達は思考が痛すぎる。はっきり言って一般の人間からしたらドン引きよね。神兵達も戦意喪失してくれたみたいで良かったわ。
「殺しはしません。国際裁判で、怨嗟と恥辱にまみれなさい」
冷たく言い放ち、踵を返す。
ミレルの一の姫の救援要請を受けて軍を出した形になっているカイスベクファだが、もちろん国際裁判は免れない。根回しはしてるんだけどね。形式上は避けられないから。
けれどミレルから被害を受けた国は、何もカイスベクファだけではない。その場は大司祭の弾劾裁判の様相を呈することになるだろう。
「裏切り者っ!!」
やれやれと、気を抜いたのがいけなかったのかな。
声と共に懐刀を構えて、少年が向かってくる。
ちょうど、クラウの位置とは正反対。
歳の頃は十二、三の司祭見習い。茶色がかった黒髪に、少し吊り目の瞳。
――ああ、彼は母にそっくり。
一瞬で悟った。女神の息子、私の弟。
これは因果応報なの? 私が生まれた弟を探さなかったから。
全てがゆっくりと動く世界で、鈍色の光に前世の最期を思い出す。
仕方ないのかな。
でも、またフレドリックが泣いてしまいそう。
衝撃は、いつまで待っても来なかった。
その代り、守るように包むように私を抱える温もり。
「……フレドリック?」
横倒しになった視界で、すぐ近くに群青色の瞳。
「この一歩をずっとやり直したかった。今度はちゃんと間に合ったでしょう?」
どうしてそんな満足げに笑うの。
どうして目を閉じるのよ。
「目を開けてっ。お願い、こんなの嫌よ、ねえ」
まわりの喧騒が遠い。
大司祭も初めて会った弟も、意識の外に吹き飛んだ。
広がる赤と、力を失う手。
痛いほど手を握り締めて揺さぶるのに、握り返してはくれなかった。




