11 ある司祭の半生(フレドリック視点)
失ったものの大きさに気付くのは、いつだって手が届かなくなってから。
女神は黒髪と黒目を持つ。だからミレル神聖国で黒髪の男児は栄誉とされ、女神の近くへ侍る司祭となる道が優遇される。
隔世遺伝か先祖返りか、生まれつき青みを帯びた黒髪と、暗い群青色の目。黒髪黒目で通らなくもない。俺の容姿は、神殿の定める条件に合致していた。神殿では高等教育まで無料で受けられるし、成績が良ければ故郷の田舎から王都の神殿にも行けると言われて、家族を病で亡くしてすぐ、二つ返事で神殿に入った。元々器用だったし、嬉々として課題をこなした。他の連中のように、里帰りをする実家も俺には無かったから。
新しいことを覚えて、競争する同年代の子供達を追い抜くのは楽しかった。
しばらくして中央神殿に推挙された。断る理由なんてあるだろうか。故郷の暮らしは村全体が裕福とは言い難く、王都に出てそれはもう田舎者丸出しで見るもの全てに興奮したものだ。
十五歳でカイスベクファへ間諜として派遣されることに決まった。無事に戻れば、所謂出世街道に乗るってやつだ。
国境を越える道中に、ちょうど故郷の近くを通る。道程図を見て、ほんの少しの里心が湧いた。
神殿に入って五年。
出世の前払い、家族の墓参りくらい許されるんじゃないか。そんな安易な気持ちで寄り道を決める。遠回りの分は走ればいい。
同年代と競争ばかりして身に付けた、子供らしい根拠のない自信は、残酷な形で現実を突きつけてきた。
故郷は無くなっていた。
隣の宿場町で聞けば、昨年は特に流感の猛威が酷かった。多くの住人が亡くなり、残った人々はこの地を離れたらしい。冬の寒さが特に影響する。きっともっと南に集落を移したのだろう。
体力があれば死にはしないし、症状が出たら薬で対処できる病だ。完治はないが、薬さえ手に入ればどうにでもなる。けれど、母と姉はこの病で逝った。
王都には流感の話題は届いてこなかった。耳障りな話は中央まで届かないのだ。のうのうと王都生活を楽しんでいた俺は、気付けなかった。
打ち捨てられそのままにされた墓地に立ち、言いようのない空虚さを抱いた。けれど何に対する思いなのか、誰に対する気持ちなのか、俺には正視できなかった。
行き場所なんて他にはない。守ってくれる誰かなんていないのだ。
吐き出せないしこりを抱えたまま、それでも指示通り、カイスベクファの王城に潜入した。
大切な人ほど、あっけなく死ぬ。
力を失くし零れ落ちてゆく命を、必死で呼び戻そうとするが、叶わない。
そんな力なんてない。
分かっているのに、みしりと軋みそうな程その手を握り締める。
ライラ・オールソン女官長。
姉のように、母のように慕っていた。心から尊敬し、こうありたいと人生の目標のように定め、密かに忠誠を誓った。吐き出せなかったミレルのしこりを、いつか聞いて欲しいと思っていた。けれど、それには正体を明かさなくてはならなくて。ほんの少し、あと少しと、ずるずるとぬるま湯に浸かるのを止められなかった。
こっそり分けてくれた手製のタルトは、母の懐かしい手作りの味がした。頭をくしゃくしゃにする手つきは、姉の手を思い出させた。
そんな彼女を救えなかった。
殺したのは同じミレルの間者。何度か顔を合わせたこともあるやつ。
しかも、病をばらまいた。俺の家族に死を与えたものと同じ病を。
流されて、流されて、楽な道を選び続けた結果がこれだ。
家族の死も、故郷が無くなったのも、病ならば仕方ないと飲み込んで。
カイスベクファの快適な環境に、ここでずっと暮らすのも悪くないと揺らいで。
甘えられる人と引き離されるのが怖くて、口を噤み続けて。
もっと頑張れた。あと少し無理をすれば、結果は違っていたかもしれないのに。
女官長はいつだって、主のために最高の舞台を用意することに心血を注いでいた。費用対効果を鑑みて、ばっちり嵌った時こそ部下冥利に尽きると言って、満足げに笑っていた。
彼女のように、俺は俺のやり方で、最高の復讐方法を用意しよう。
彼女の葬式のすぐあと、隠せるだけの資料と共にカイスベクファを出た。
ミレルはそんな俺を、あっさりと懐に戻した。
カイスベクファの資料と、学んだ処世術に助けられ、ミレルの高位司祭に取り入ることに成功する。
手伝わされる案件の闇の深さに、ますますこの国を壊す決意が固まった。
一人称を『俺』ではなく、『私』と称して笑みの仮面を張り付けるのにも慣れた頃、大司祭に認められ養子に加えられた。上手く綱渡りをした自覚はあるが、それでも異例の抜擢に驚いた。大司祭が目をかけるのは、殆どが『女神の息子』だから。
俺は違う。少し世渡りに長けた、ただの農民の息子だ。
それでも黒髪と黒目が、彼らにとっての保護色であったのは確かだ。
神殿内に居ると黒髪の司祭や見習いをよく見かける。栄誉なんて当然建前。
他の国では差別や優遇の対象になんてならない黒髪黒目が、ミレルでだけ神殿に集められる。
答えは簡単。
――女神の息子を隠すため。
ずっと女神だけを利用するために、神殿が造りだした構造。
司祭は結婚も許されず、神殿に全てを捧げて生きていくように育てられる。大司祭の権力は大きいが一代限り。
それは神殿が、女神が女神を産むという血の神秘性を保つための『箱』だからだ。
俺のようにほいほい自ら寄ってくる者は、お誂え向きの森になる。木は森に隠せって言ったのは、どこのどいつだったか。
最初はほんの些細なくだらない理由のために、国と人は構造に縛られ回っていく。
どれだけの女神の息子が、自らがそこにいる理由を知っているのだろう。
真実を知らない彼らは孤児として育てられ、神殿へ捨て置かれたのだと、心の底で見知らぬ両親を恨む。
神殿には、見えない女神への怨嗟が降り積もっている。
頂点に上り詰めたある黒髪の司祭は、自らの置かれた境遇の真実を知って、女神を崇拝する振りをしながら、その実彼女達に自らの不遇を、憂さをぶつけ続けていた。
それが今の大司祭エーランド・ヘンネベリ。
ミレルはそうして、誰も幸せになれない螺旋を下ってゆく。
一の姫がライラ様の生まれ変わった姿だと気付いた時の歓喜と絶望を、どう言い表していいのか分からない。
後悔しても決して取り戻せないと思っていた人が、姿を変えて舞い降りた。
皮肉なことに、ミレルの女神の儀式に巻き込まれて。
ミレルの女神は魂をどこかから召喚される哀れな贄だ。その事実を知り、神殿と大司祭への嫌悪は増した。それなのに、諸悪の根源である召喚によって、彼女の魂と再会できたことに歓喜してしまう。
支離滅裂もいいところだ。
出会ってすぐ彼女だと確信出来なかったことに落ち込んだり、小さなしぐさや好物、その日記の筆致で気付いた自分の手柄に、悦に入ったりもした。
心象風景は混乱の極み。
情けなく、彼女の面前で蹲って泣く。
貴女にずっと会いたかった。貴女を取り戻したかった。
そんなことは勿論言葉に出来ない。
彼女のいない十年余りで、勝手に俺の中で熟成された意志だから。
復讐の根源だった彼女を取り戻し、心が決まった。
ライラ様を、この腐りきった場所から逃がさなければ。
よりによって、壊そうとしている国の中枢に、彼女はどうして生まれてしまったのか。
大司祭は一の姫であるライラ様を、贄としてしか見ていない。俺がカイスベクファとの取引を持ち出すまで、第二の女神を産ませる器にする話が進んでいたくらいだ。
そんな事はさせるものか。
信じてもらえないだろうと思いながらも、恥を忍んで十年ぶりにカイスベクファへと繋ぎを付ける。
こちらから触れたら最後、決めた復讐も放り出しその幼い身に縋ってしまいそうで、何度も彼女の方から伸ばされた手をそっと外した。
もう会えないことを覚悟して、カイスベクファへ送り出す。
ちゃんと笑って見送った。
昔から彼女を『私の可愛いライラ』なんて呼ぶ主と、おせっかいな護衛頭、かつての仲間に囲まれて、彼女には幸福に生きて欲しかった。たとえそこに俺はいなくても。
ある種の後悔は取り戻せた、これで良かったじゃないか。
彼女が笑顔なら、俺はもっと思い切ってミレルの闇の底に踏み込める。
「それなのに、戻ってきてしまうんですからね」
「? なあに、フレドリック」
自室で机に向かっていたライラ様がこちらに振り向いた。その姿に、独白を口に出していた事に気付く。
せっせと今日の忘備録、という名の日記を仕上げていた彼女が不思議そうに見つめてくる。
「何でもありません。もう宜しければ、預かりますよ」
「ええ、ありがと」
分厚い冊子に凝った意匠の鍵付き。その鍵を丁寧にかけて、彼女が日記を手渡してきた。受け取った日記をしっかりと懐に仕舞いこみ、微笑む。
「確かにお預かりしました」
「よろしくね」
部屋に冊子を置いておくと、誰に見つかるか分からない。俺が預かりますと専用の鍵付き冊子を用意して頷いてもらえてから、ずっと続く習慣だ。
本当は一の姫付きの女官はすでに彼女に傾倒しているので、その心配はないのだが。流石というべきか、積極的に手駒を増やし始めたライラ様は強い。前世は大国カイスベクファの女官長、然も有りなんというところ。
だから、まあ隠す必要も本当はないのだが、これは俺の密やかな楽しみなので許してもらおう。今日も部屋に帰りついて、日記に目を通すのが楽しみだ。……鍵? もちろん二つ作ってある。ただ彼女は知らないだけで。
笑顔に対して罪悪感を覚える感覚なら、とっくの昔に麻痺している。
せっかくの罪滅ぼしと贖罪の行動は、戻った彼女に打ち砕かれた。
一の姫として抑圧されていたライラ様の心は、カイスベクファでの邂逅を経て、かつての女官長としての自信と感性を取り戻しつつある。心のあり様を解き放ったのが自分じゃないことは癪に障るが、戻ってきたのはこの場所。今側に居るのは俺だ。
だからもう、諦めることはやめにする。
かつて抱いた敬愛とは違う感情が混ざっている己の心も、受け入れて認める。
きっとあの頃からこの感情は混ざっていた。
障害が大きすぎて、ガキの俺には自覚が難しかっただけで。
目の前の無防備な頬に、顔を寄せる。いつだって彼女は甘い香りがする。
「フレドリック?」
「しぃ。最近手綱が緩んでいるのではと疑われているのです。少しだけお付き合いください」
そう言って窓の方に視線を送る。
「了解」
ライラ様は勝手に大司祭が通りかかったと解釈して大人しくなり、こちらの首に手を回す。
この大司祭への言い訳は役得だ。いとも容易く彼女に触れられる。
けれど、遠目から分かる程度のふりでは、最近満足出来なくなってきた。
肉体的に彼女が成長してきたこともあるが、俺への精神的な壁が取り払われたことが大きい。
たった二人の共犯者として信頼を寄せた瞳で見つめられると、立場と環境を無視して寝室まで抱えていきたくなる。
それを抑えるために大活躍なのが、彼女の詩的な日記だ。
あれは良い。
深刻なことが書かれているのに、花畑状態の筆致にすべて吹っ飛ぶ。本当の彼女を表すように、いつだってふんわり柔らかい。
ライラ様の心の中を、独り占めした気分にさせてくれる。
「さ、もう大丈夫ですよ」
身を起こすと、手を離しぼんやりした風の彼女と目が合う。
「二人で早く帰りましょうね」
花が咲いたように笑いかけられて、醜い心が勝手に傷を負う。
帰れば貴女は、カイスベクファ王の忠実な部下。沢山の慕うものに囲まれて、俺はその内の一人に成り下がる。
一の姫の仮初めの輿入れまであと少し。
彼女の中で幅を占められるように、点数稼ぎをしておきたい。
諦めるのは、やめたのだから。
「ええ。今度は絶対に、ライラ様の手を離したりしません」
失ってから気付いた大切なものは、今目の前にある。
もう二度と奪わせない。




