10 決行
夕焼けは、どこで見ても美しい。
カイスベクファの下町から見る夕日も好きだったけれど、一の姫として与えられている執務室から眺める、ミレルの暮れなずむ姿も捨てたもんじゃない。
山の稜線に沈みかけ群青色の夜の帳に浸食される空は、誰かの瞳に似ている。
「ライラ様」
バルコニーで涼んでいると、背後から声を掛けられる。
耳元で囁かれる声は、すっかり馴染んだフレドリックのもの。本当の心を吐露しあってから、彼は二人きりの時には私を常にライラと呼ぶようになった。
低くかすれて大人びて、それでいて子供の内緒話のように楽しそうな声。
今日は多めに書類を処理したので事務官の方が追いつかず、一人で休憩していたところだ。室内で作業をしていた事務官と女官は、フレドリックの登場できっと退出済み。明日は残った処理のために早出をすることになって、溜息交じりに出ていったはず。彼等に申し訳ないと思いつつ、久しぶりの声に心が自然と浮き立つ。
お互い多忙で、殆ど時間を取れていなかったから。
「気配を消してから近づくの、やめてって言っているじゃない」
気持ちを抑えて苦笑いで振り向こうとすると、肩に手を置かれて止められた。
「しー。右の方を振り向いたら駄目ですよ。ミヤビ様と目が合ってしまいます」
「あら」
女神は時々、中庭からこのバルコニーに視線を送るのだ。ここが私の執務室だと知っていて、訴える様な瞳で。
「ついでに大司祭とも」
「うえっ」
付け加えられたフレドリックの言葉に、思わず変な声が出た。
女神だけならいざ知らず、大司祭はご遠慮願いたい。
「目を合わせたくはないでしょう?」
「そりゃ見たくないわね。……いま女神の側には大司祭も居るってことね」
「珍しくエーリク様がいないせいで二人きりですね。最近の彼はミヤビ様の側から殆ど離れなかったのですけれど」
「エーリク? ああ、女神の護衛騎士のエーリク・ランツね」
彼はミレルの貴族ランツ家出身の騎士だ。実家のランツ家は旧王政時代の王家の血筋。神殿派とは一定の距離を置いているので、取り込めるかと思い声を掛けた。ランツ家自体からの反応は悪くなかった。けれど彼自身はなびいてこない。かと言って、神殿派に与した訳でもない。存外エーリクの当代女神への忠誠心は強いらしい。――まあ交渉はフレドリック任せだったから、本人と話したことはないんだけどね。
その騎士が側に居ないのに、大司祭と二人なんてお気の毒。
肩に添えられた手に自らの手を重ねて、斜め上の顔を横目で仰ぎ見る。
四年が経ち、十八歳になった私の身長は順調に伸び、こうしてフレドリックの表情を盗み見るにも不自由しない。
――何も知らない者が見たら、釣りあいの取れた恋人同士のように映るかしら。
既に習慣になった仲睦まじい姿を演じながら、中庭からこちらを見上げているはずの、女神と大司祭を想像する。
最近大司祭は、女神の周りに姿を現す回数を増やしている。
私と女神を接触させないために。
彼女が思惑通りになかなか次代の女神を懐妊しないことと、国民からの私への人気が予想以上に上がってしまったせいだ。フレドリックを通して一の姫を支配下に収めているとはいえ、カイスベクファとの婚約以前のように、私と女神の交流を許して二人の意識が変わるのを恐れているのだろう。
カイスベクファは第二王子とミレルの一の姫の婚約によって国交断絶を解除し、物資の援助を行い始めた。実はミレルを落とす時のための下準備として、物資を運び入れているのだけれど、実際に援助や石炭の輸入も再開し、王都までの街道整備の技術的支援にも乗り出している。これが、国民にはすこぶる評判が良い。
一の姫の嫁ぎ先として援助させているのだから、大司祭の当初の目的は達成してる。
国民のカイスベクファに対する好感度を上げてしまったのは、面白くない誤算でしょうけれど。
「街道整備は少しあからさま過ぎましたからね。カイスベクファとの関係がいくら思い通りでも、大司祭とて危機感を募らせるでしょう」
「そりゃそうよ。でもこの案は、女神の承認を受けているのだもの。大司祭は最近の女神の言動を抑えきれないで、袋小路でしょうね」
攻め込む時にあんな悪路じゃ時間がかかって仕方ない。その為の整備事業だ。
カイスベクファが国交正常化と相互繁栄の為にと、建前を掲げ提案し、心優しい女神様は国民を想って頷いた。
女神はここ数年で変わった。
知識を施せないのならと積極的に公務に取り組み、知識を施すのではなく身に付けた彼女の姿は、神殿内で一定の支持を集めている。国民の崇拝は言うに及ばず。囲われた籠の鳥でありながら、彼女はずっと真っ直ぐであり続けている。
その姿勢はとても尊く美しい。
もっとも、彼女のしていることは全て手遅れなのだけれど。
「もしかして今日の訪問は、また女神様からのお手紙?」
「私としては、そっちが口実なのですけれどね。一応、麗しの姉アキラ姫に宛てた茶会の招待状を預かっていますよ」
「彼女もめげないわねー」
「そこがミヤビ様の個性です。世間一般の女神のイメージとは合致しませんが、諦めの悪い方ですよね」
フレドリックはそう言って、笑顔の仮面を張り付ける。
私のあまり好きじゃない、ミレルに戻ってから身に付けた暗い笑い方だ。
「敬愛するイソラ先生が、いつも手紙を握り潰しているなんて知ったら、彼女は悲しむでしょうね」
「現実は大司祭の手に渡っているのに、一の姫が受け取って無視をしている形になっていますからね。よろしいのですか?」
他の選択肢なんてないのに、私と女神を引き離すことに一枚噛んでいるくせに、そんなことを聞いてくる。
皮肉な物言いは不安の裏返し。否定して欲しい時の合図。
フレドリックの身に付けた悪癖は、一朝一夕じゃ治らない。
だから安心させるように、少しだけ身体を寄せて彼に体温を分ける。
「実際に無視をしているじゃない。手紙一つで大司祭が喜ぶなら安いでしょう。どっちにしても、彼女と仲良くしてもどうにもならないもの。それなら、嫌われてた方が楽」
薄く笑って、言葉を吐く。
女神は私が婚約してからもずっと、定期的に手紙を書いて寄越す。
彼女はどうしても、姉妹で仲良くしたいらしい。出会った頃は、大司祭管理のもと茶会に出席していたから、余計に諦めがつかないのかもしれない。
宛名の文字が最初は見ていられないような拙さだったのに、最近は随分美しくなった。それだけ書き続けているということ。彼女が努力をしている証。
けれど、私は一通も返事を出したことがないし、婚約後は招待にも応じない。
本来ならいくら一の姫の立場でも、こんな不敬が許されるはずはない。だって相手は神殿のお飾りとはいえ女神様だもの。
許される理由は、フレドリックを通して大司祭の元に、開封前の手紙が全て届けられているから。
こんな陳腐な手段が、大司祭への忠誠を示すことに一役買っているんだから、困ったものよね。
他には、女神の礼拝や祭礼に参列する機会があっても、彼女の視界から外れるようにしている。自然な振りして避けるとか、丁度人垣の死角に入るとか、女官長時代のじみ~な隠密(?)スキルが役に立ってる。
いくら大司祭の望みだからって、彼女には嫌われたっておかしくないことを重ねている。
私だったら完全に絶縁するわ、こんな姉。
祭礼の最中、視線が合うと真直ぐに見つめてくる女神。
歳を取らない女神は、彼女の身長を追い越した私をアキラちゃんではなく、アキラ姫と呼ぶようになった。
「ほんの少し、彼女の手紙を読んでみたい気もするんだけれどね」
思わず本音が口から滑り出た。
独り言のように呟くと、身を寄せ包むように背を暖めてくれていたフレドリックが、笑みを消して顔を寄せて来た。
「――まさか、女神と手を取り合うおつもりじゃありませんよね」
更に声を低く、耳朶に直接吹き込むように問いかけられる。
ふるりと肩が震えてしまった。殆ど日が落ち、暑さから一転して肌寒さを感じたから。決して、フレドリックの声音に脅えたわけじゃない。ないったら、ない。
「するわけないでしょう。この国から女神が消えなければ、意味がないのよ」
ただの御旗だろうと何だろうと、不老の女神の存在自体が、神秘性を帯びて人々を狂信的に導いてしまう。
「それならば、そっと消してしまえば良いのに」
「お馬鹿さん。そういうやり方はもうさせないって言ったでしょ。生きて、二人でラザー様の所に帰るのよ」
「…………」
肩の手を抓ってやると、フレドリックが落胆の息を吐いた。彼はすぐに自らの手を汚したがる。まるで自分が軽い存在だと言うように。
これから行われるのは戦争。
沢山の血が流れ、人が死ぬ。
けれど、それは彼一人に背負わせるものじゃない。
対等にものを言える関係になってから知った。
フレドリックは対人関係の距離の取り方がおかしい。
幼い頃から特殊な環境に置かれ、育てられた弊害かもしれない。普通は人と人が出会ったら、お互い距離を測り、喧嘩をしたり仲良くなったり、合わなければ避けたり、様々なふれあいから適切な距離を自然に取れるようになるもの。
けれど彼は距離を取り過ぎて、詰めることをしない。ミレルで再会したばかりの私にそうだったように。
逆に信頼すれば、ゼロ距離まで近づいてしまう。今、私だけに対して意識を傾けてしまっているように。
女神に対してもそう。
彼女の教育係を務め、女神からは慕われている筈なのに、あっさりと消そうとする。
あんなに熱心に慕われて、五年も教師を務めて、何も思っていないはずはないのに。
きっとフレドリックは自分の気持ちを理解してない。
彼女を消してしまったら、絶対後悔するでしょう?
ただの上司を失って、あんなに後悔したんだもの。
だから女神は殺させない。
傀儡に出来れば良いけれど、大司祭が張り付いていちゃそれも無理。
密やかに攫い、強制的に遠方へ退場願う予定でいる。
「女神なんて存在しない。ただの張りぼてだったって人々に解らせてこその、ミレル神聖国の最期よ」
もうすぐ秋がやってくる。
仮初の婚約者である第二王子が、成人の十八歳を迎える収穫祭の直後に、一の姫のカイスベクファへの輿入れが行われる予定だ。
国境で一の姫と物々交換でもするように、結婚祝いの品々――カイスベクファの最新式ジオマジョルカ製自動車に積まれた沢山の贈り物――が、車ごと列を成してミレルの首都神殿へと届けられる。
品書には載らない、武器と精鋭の兵を満載して。
沢山の贈り物の中身は、カイスベクファがミレルに奪われた、命の分の破滅。
フレドリックは神殿に残って、カイスベクファの兵を誘導する役目を負う。
大司祭の養子であり、一の姫の公然の恋人という設定を背負った彼を、国境まで同行させることはどうあっても叶わないから。
私達に与する人材を、三年前から本気を出して育てている。
一の姫だからではなく、私自身に仕えると誓ってくれた者も出てきた。
フレドリックは国交断絶状態のラザー様と連絡を付けてみせたように、もちろん独自の手駒を持ってる。けれど、手は多いに越したことはないでしょう?
本番になってみなければ、実際どこまで機能するかは分からない。それでも、女官や文官、貴族の中にも、この国に疑問を持つ芽を埋め込んだ。
人材を育てるのが上手いのだと言ってくれた、フレドリックの言葉を信じて。
・・・・・・・・・・
婚礼の衣装は赤。
血のように赤いドレスは、黒髪によく栄える。
婚礼衣装と言えば大陸では白が一般的だけれど、いつからかミレルで白は女神の貴色。
彼女達と大司祭だけが身に付ける色。
私よりもよっぽど花嫁らしい正装に身を包んだ女神に祭礼の間で謁見し、同じく貴様は新郎かとツッコミを入れたくなる白の正装姿の大司祭から送り出される。
白々しい二人への挨拶を終え辞したというのに、女神は続きの間まで追って来た。
「まって、姉さん!」
鈴を転がす様な可愛らしい声に引き留められて、振り向く。
振り向く時には笑顔と近寄りがたさを張り付けて、ほら、一の姫の出来上り。
こんなやり取り、何年か前にもやったわね。
あの時はまだ私の方が背が低くって、女神は屈んで話しかけてきた。今では彼女の背を追い抜いた。
アキラちゃんでもアキラ姫でも無く『姉』と呼ばれて、心にさざ波が立つ。
「これは女神様。……まだ、なにか?」
自らを落ち着かせるように膝を折り、最上の礼というお決まりの動作をとる。
「これでいいの? イソラのこと、このままで本当にいいの?」
泣きそうに潤んだ瞳が、私とフレドリックの関係(と見せかけた設定)を責めているのだと知って、脱力と共にちくちくと怒りが湧いてくる。
私がフレドリックから貰える感情なんて、上司に対する敬愛でしかないのに。
演技だと分かりながら恋人の振りをするとき、どんな想いでいるかなんて、分かりもしないのに。
そしてこれから起こる出来事に比べたら、それらは些細な事でしかないのに。
「この期に及んで、まだそんな甘いことを仰るなんて」
独り言のように苦言が漏れた。
彼女はいつも私の深淵を突くのが上手い。だからこんなに、本音を止められなくなるのかしら。
女神の後ろに、祭礼の間の扉を開け放ちこちらに近づいてくる、大司祭と女神の従者たちの姿が見えた。
声の届く範囲までまだあと少しある。今側に居るのはフレドリックだけ。
おそらく会話をするのもこれが最後。だからいつも伏せる目を上げて、まっすぐと女神ミヤビを見返す。
正面から本音を隠さずじっと見つめる。
「ねえ、ミヤビ様」
彼女と姉妹であるのは、きっとこれが最初で最後。
今更姉らしくなんて振舞えない。その資格はない。けれど、最後くらい名前で呼んでもいいのではと思った。
彼女と母は違う。名前という記号に拘り続けたのが馬鹿らしいくらい、呼んでみたら案外自然に口から出てきた。
「私は神殿の生け垣が嫌いです」
名前を呼ばれたことに驚いているミヤビを取り残して、意味の解らないであろう話を続ける。
「数代前の女神様は好んだのかも知れませんけれど、庭師達に手間ばかりかけて、特に益もなく、周囲の栄養を吸い上げて他の植物を枯らせるばかり。好んだ本人にも忘れ去られて、ずっと蔓延り続けたまま。あんなもの、大っ嫌いです」
まるで機能不全を起こしている、この国と女神のよう。
ぽかんとする彼女を置いてきぼりに、今までで最高の笑顔と礼を取り、踵を返す。
彼女には伝わらない。
大司祭には聞こえない。
それで良い。
もう、轍は作られ荷は進む。引き返すなんて出来ない。
――戦争が始まる。




