9 本当のふたり
帰国後すぐに大司祭への挨拶を済ませ、自室にフレドリックを呼びつけた。
成果に満足げだった大司祭も、咎めはしないだろう。
私はカイスベクファと正式に婚約を交わし、こちらに有利な援助を引き出して戻ってきたことになっている。
「アキラ様」
暗い寝室から戸口を振り返ると、続き部屋の灯りを背に、フレドリックが佇んでいた。
迷子の子供のように不安そうな、そしてどこか絶望しているようにも見える目が癇に障る。
「ライラよ」
「その名は……いえ」
ぐいっと腕を掴んで、寝室へと引っ張り込む。
ここが一番声が漏れないって言ったのは、フレドリックだ。
諦めたのか、素直に扉を閉めて部屋の中央までされるがままついてくる。
「屈んで」
「え……」
「いいから、屈みなさい」
カイスベクファからの帰路の道中ずっと考えていた。どう伝えようと。
背の高いフレドリックが腰をかがめ、膝を折る。
すぐ目の前まで迫った整った顔。
フレドリックは目を逸らさずに、私を見ていた。
その顔を見つめながら、遠慮もなく思いきり抱きついた。
ふざけて鳩尾を打ったことはあっても、今までこんな風にしっかり触れたことはなかった。
フレドリックは一瞬身体を強張らせたものの、無理に引き剥がそうとはしない。
「ごめんね、ちゃんと信じてあげられなくって」
ミレルで見つけた唯一の仲間だと思いながら、心の奥底では信じきれていなかった。
ちゃんと心を開けてなかった。
喉の奥が絞られるように痛くなって、堪えきれない嗚咽が漏れる。
悔しくて、自分が情けなくて、口を真一文字に結んで泣いた。
泣くのにも体力がいるし、所詮姫育ちの体力の底なんてたかが知れている。
泣き疲れた頃、フレドリックが口を開く。
「どうして、戻ってらしたのですか」
問いかける声は掠れている。そんな絶望に沈んだような声を出さないで。
「どうして? 決まっているでしょう。こんな場所に、大事な部下を一人で残しておけるわけないもの」
対する私の声も、泣きはらしたせいでボロボロだ。
部下ひとりに任せてられますか。沢山の女神を召喚しては殺して、病気までばら撒く国なんて、徹底的に潰してやるんだから。
「まだ私を部下と呼んでくださるのですね」
「あったり前。フレドリックは自慢の部下よ」
「貴女を騙して王太子殿下の側に潜り込み、機密文書を持ち出したのに?」
「末席に持ち出せる範囲のものだけね。もっと高度な文書だって、在り処を知っていたくせに」
「貴女を一人でカイスベクファに帰そうとしたのに?」
「それは今でも怒ってるのよ。でも、私だってきちんと信じきれてなかったんだから、おあいこかなって帰りの道中に反省したの」
「――貴女の死を、止められなかったのに」
「それは絶対に違うわ。フレドリックには何の落ち度もないの」
やっぱりその事を気にしていたのだ。
死にゆく時、意識が闇に飲みこまれる最期まで私を呼び続けた悲痛な声。それはフレドリックの声だった。
痛いほど握り締められた手の感触を、覚えている。
私の反論に静かに首を振ると、抱きしめられるままだったフレドリックは、やんわりと身体を離した。
そうして、まるで懺悔するようにこれまでの心情を語り始める。
「ミレルで歳の近い者ばかりが集められ、司祭から様々な教育を施されました。子供は順位を付けたがる。だから俺も貴女に見いだされた時、彼らから抜きんでて国の中枢に入り込めると小躍りしました。カイスベクファでは誰もが甘い菓子を食べ、馬車を利用し水道を使う。仕事をする者にはちゃんと決まった休みが認められ、若い男女は腕を組んで楽しそうに街を歩く。俺の知らないことばかりでした。勝手に彼らを妬みました。女神の施しから得た力を、搾取して幸福を享受していると。奪い返してやるんだと思いました。でもね、そんな俺のくだらない八つ当たりを、ライラ様が打ち砕いたんです」
「私?」
目の前に跪き心を吐露するフレドリックは、大切なもののように手を取ると額に押し当てた。
これまで決してフレドリックの方から触れてくることはなかった。
そんな彼の変化に、内心驚くとともにむず痒くなる。
口調もあの頃の見習いフレドリックに戻っているみたいだ。
「覚えていますか、初めて頂いた休日。休暇を取ろうとしない俺に、強制的に休みを取らせて街中を案内してくれたじゃないですか。俺は城内を探りたくて、職場を離れたくは無かった。けれど上司の命令には逆らえないから、内心嫌々ついて行ったんですよ」
嫌々だったの。まあ十も年上の上司とじゃ、そうよね。
「身の回りの便利な店と、気に入りの菓子の店に連れてって、最後に主だった通りを教えて、帰ったくらいよね」
久しぶりの外出だったので気分が高揚して、超過密行程で連れまわした記憶ならあります。
「沢山の買い物をして、美味しい食べ物を一緒に食べて、王都一美しい夕日が見える坂道に連れて行ってくれて。まだ背の低かった俺の頭をぐしゃぐしゃに撫ぜて、ライラ様は言ったんです。『休日に休むのも仕事。だから、定期的に休むのは女官長命令よ』って」
何でも器用にこなすし、対人関係も問題無し。上ってくる評価の完璧さに、逆に心配したんだった。そういう子が、ある日突然潰れたりするから。
「その時は特に何とも感じなかったんです。面倒だなって。けれど、命令と言われてしまえば休みを取らざるを得ません。数か月過ごす内に気付きました。多忙を極める女官長に余分な時間なんて無かった。俺に休みを取るのは命令だと言った貴女は、働き通しだった」
「えーと、あの頃はちょうど忙しい時期だったんじゃないかしら。ちゃんと休みは取ってたわ」
「女官長に忙しくない時期なんて、ありましたか。新人のために半日を潰すのが、どれだけ大変なことか。側に置いて頂いて漸く気付きました。気付いて観察してみると、気安い態度やおせっかい焼きは全部部下のためだ。俺だけじゃない、他の部下の為に合せてライラ様の休みは組まれていた。貴女に突っかかってばかりの護衛頭と飲みに行く日まで、きちんと確保してあげるんですから、驚きました」
「……一応それも、休みの過ごし方だもの」
ちゃんと心は休んでたんだけどな。兄弟姉妹くっついて育ったせいで、本当は一人が苦手なのだ。
「そうですね、貴女はいつでも楽しそうだった。だから余計、どこまでお人好しなんだって呆れましたよ。危なっかしいこの人を、俺が早く支えなきゃって思い始めてしまったんです。そう感じて周りを再度見てみると、皆俺と同じ顔をしてる。不思議ですよね、ライラ様は頼れる女官長なのに、助けたいと思わせてしまう人だ」
「それは女官長失格なのでは……」
おかしい。フレドリックの懺悔を聞いていたはずが、駄目な上司暴露になってる。
「全くの逆です。貴女はどんな時も部下を見捨てない。見放さない。だから貴女の部下は誰一人として脱落しなかった。人材を見つけるのが上手いだけだと悔し紛れに言う者もいたけれど、貴女は育て慈しむのが上手い人だ。
ミレルに散々植えつけられた、カイスベクファへの妬みや嫉みなんて、半年も持ちませんでしたよ。何のことはない、俺はただ無条件で撫でられたかった。失敗したら叱って、けれどその後成長を見守ってくれる。綱渡りの綱から落ちても見捨てられない場所が欲しかった。俺をきちんと見て、抱きしめてくれる腕が欲しかった。それに気づいた時にはもう――俺の居場所はここだと決めました。俺が忠誠を誓ったのはラザー様じゃない、あの瞬間、ライラ様に誓ったんです」
「フレドリック」
掴まれた手が熱い。彼の額は熱を持ち、押し当てられた掌はまた涙で濡れてくる。
「だからこそ。保身に走って、貴女に打ち明けられなかった自分が許せません」
打ち明ければ側には居られなくなる。その思いから、フレドリックは問題を先送りにした。
そして侯爵家の晩餐で事件が起こってしまった。
私を刺した給仕は、フレドリックと同じ神殿で育った少年。まだカイスベクファに入り込んだばかりの少年は、功を焦っていた。
あの場で給仕がミレルの間諜だとすぐに知らせれば。あるいは、自分が一歩を踏み出していれば。
フレドリックは私を救える選択をしなかった己を責めた。
「あの時のフレドリックの反応じゃ、私には追いつけなかったわ。お飾りで女官長をしてた訳じゃないのよ」
今の貴方ならわかるでしょう? と問いかける。
大人になったフレドリックなら気付いているはずだ。経験の浅い彼の反応では、長年の勘で動いた私に先んじることは出来なかったし、事前に打ち明けていれば、残念ながら彼の推測通り拘束されていたから、そもそも給仕の正体には気づけない。
「そういう理詰めなところ、好きですよ」
フレドリックが少しだけ笑った。
「あら、ありがとう。クラウ辺りには可愛くないってさんざん言われたんだけどね」
「でもラザー様はいつだって貴女を『私の可愛いライラ』と呼んでいました」
「うん? まあ、決まり文句みたいなものだから」
少しの沈黙の後、息を吸って、フレドリックは意を決するように口を開いた。
「俺がやって来たことは、まったくもって情けない責任転嫁です。貴女を弑した大元を壊すなんて、子供の発想だ。けれど大司祭の苗字を得るために随分あくどいことを重ねてきました。今更貴女にまた会えたからって、何もない振りして安全な場所に逃げるなんて出来ません」
私の手を退けた下の瞳は暗い。けれど、静かな炎が燃えているように激情を感じた。
赤い炎よりも、ずっと静かで熱い、青い炎。群青の瞳は決意の光を湛えている。
「私もよ。ここで産まれ、十四年も暮らしたの。何もしないで帰るなんて出来ないわ」
「だから戻っていらしたのですか。陛下は、護衛頭は貴女の手を離したのですか。あの頃は叶わなくても、今の身分なら何不自由なく、陛下のお傍で過ごせるのに……」
この頓珍漢な発言に、思わず目を眇めてしまう。
右手は人質に取られてしまっているので、空いた左手でフレドリックの右頬を押さえる。
良く聞こえるように、聞き間違いも聞き漏らしも許さないように、額が付くほど顔を近づける。
「その陛下からちゃんとお許しを頂いて戻ってきたの! 私は大人だから、きちんと報告してから実行に移すのよ。フレドリックみたいに自分勝手に行動しません」
「今の俺は、亡くなった時のライラ様より年上ですよ。それなのにまだ子ども扱いですか」
言葉は不満げだけれど、口にするフレドリックはちっとも悔しそうじゃない。まるで私が正しくて、自分が間違うのは当たり前だと思っているみたい。
「そんな風に諦めたような顔をしないで。貴方は私よりずっと優秀で、まだまだ成長できるんだから。傷付くことを忌避して隠し事ばかりされてたんじゃ、本当の信頼関係なんて結べないわ」
今、心の中から顔を覗かせている十六歳のフレドリック。彼の根幹はそこから進んでいない。
ミレルで十四年も過ごした私の中身が、全く成長していなかったのと同じように。
それでは駄目だ。
しっかり聴いて欲しくって、その瞳を覗き込む。
「十歳の時、女神の儀式を目の当たりにしたの。母は生きたまま胎を引き裂かれる苦しみを味わいながら、この国に殺されたわ。私はあの恐ろしい場所で、悲鳴が出ないように自らの口を塞いで震えていることしか出来なかった。もっと頑張れば助けられたかもしれないのに。勿論これだって仮定よ。やっぱり何も出来なかった可能性の方が高い。けれど、あの悲鳴は一生忘れないし、後悔は拭えない」
私の瞳の熱は伝わっただろうか。決意は伝わっただろうか。
「対等なら、支え合わなきゃ。お願いだから荷物を分けて。私にも、貴方に心を晒させて」
この国の闇に刻まれた傷は、きっとお互いにしか見せあえないから。
貴方も私もこの国に生まれた。
生まれた国を壊したいと願っている。
「二人でこの国を壊すんですね」
「そうよ。共犯ね」
そう言って笑むと、フレドリックも微笑んだ。その拍子に彼の目尻から涙が零れ落ちる。
近すぎる視界の端で、月夜に光る涙の粒がこの世の物とは思えないくらい綺麗だった。
もう目を瞑ってなんていられない。
今まで自分からは何も出来なかった。そんなの、我慢ならない。
人は出来ない事の方が多い。だから、出来る最善のことをする。
最善を尽くそう。
女神の娘として、一の姫として何が出来るか考えて来たけれど、結局は手持ちの武器で戦うしかなのだから。
カイスベクファの女官長と、見習いでミレルの間諜。のち、神殿育ちの女神の娘と、大司祭の養子の青年。
そんな私達にしか出来ないやり方だってある。