プロローグ 女官長 ライラ・オールソン
カイスベクファ王国南端の侯爵領。
国土全体が大陸北部に位置するカイスベクファは、冬の最中はどこもかしこも極寒だ。だからいくら南端と言っても、決して暖かくはない。寧ろ夜ともなれば氷点下。
今だって、窓の外は雪景色。
一方室内では、美しい一枚の絵画から切り取ったように、豪奢で着飾った人々がさざめき談笑する。
その筆頭である主の背中を視界に入れつつ、一見和やかでその実、腹の探り合いと緊張感をはらむ晩餐の様子を壁際から眺める。
職務でこの場にいる私は、壁の花ですらないただの空気。
同僚の中には、貴族の社交をゴシップとして楽しく鑑賞する強者もいる。でも私は胃に穴が開きそうなやり取りを見ているだけで、もうお腹いっぱいです。
晩餐を主催するのはもちろん、邸の主である南の領地を治める侯爵。
国内屈指の有力貴族の一人だ。最近は領地の維持に切迫している貴族が多い中、潤沢な資産を有して隣国と接した領地を管理している。
私の主、王太子ラザー様の王位継承を阻む可能性のある人物。逆に彼を取り込めれば、王位までの手順を速める駒になる。
でもちょーっと、厄介な人でもあるのよね。
だって、侯爵には隣国との密通疑惑がかかっているから。
(報告よりも黒いわね)
(ですね)
私と同じくラザー様の後ろに控える部下のフレドリックと、一瞬の視線で会話する。
フレドリックは、末席とはいえ十六歳の若さで直属の側近へと上がってきた逸材だ。器用さと負けん気、そして持ち合わせた向上心で、数年も経験を積めば私なんてあっという間に追い抜くはず。年長者達からやっかみも随分受けてるはずだけれど、この子がそれを見せたことはない。そんなところも好ましく、褒めると幼さの残る笑顔を見せる姿は、可愛くもある。最近仕事で疲労の溜まっているラザー様と私のちょっとした癒しだ。
彼ならば、すでに二十代も後半に差し掛かっている私よりも、これから末長くラザー様に仕え続けられる。私は若い彼を、自らの後任に育てたいと考えている。
今日は場数を踏ませたくって、護衛にゴリ押ししてフレドリックを同行させた。侯爵との直接対決は面倒な案件だけど、警戒難度はそこまで高くはないから。
ああ、勿論強引な追加は私の命令じゃないのよ、ラザー様です。
――進言とお願いをしたのは私だけどね。
護衛頭には射殺しそうに睨まれた。あとで酒でも奢って機嫌を取らなきゃ。
豪奢な侯爵邸室内は、昼のような明るさと春の午後のような暖かさを保っている。
夜でありながらまるで昼のような明るさを保つ灯りに、外は絶賛どか雪なのに暖炉だけとは思えない快適な温度を保つ室内。
築数百年、伝統の石造りの侯爵邸は堅牢だけれど、通常石造りの邸は底冷えするし薄暗い。そうならない程密閉して薪をくべているというなら、普通毒の空気が出て人が倒れるのに。
そうならないのは、きっと隣国の女神の知識の応用だろう。隣国の女神はこの世界に雷に良く似た電気という知識をもたらした。現在では各国で魔法との融合活用が進みつつあり、ジオマジョルカの研究は花盛りだ。それにしたって試験運用は王城と王都の一部で始まったばかり。
豪華とはいえこんな国境端の、維持費もバカ高い石造りの邸に導入なんて、聞いたこと無いわ。それこそ、お隣の国から直輸入でもしなきゃね。
予想以上に侯爵と、お隣のミレル神聖国の繋がりは深いようだ。
まったく困った侯爵様だこと。
私達の国は現在、南に位置する隣国との問題に頭を悩ませている。
その名はミレル神聖国。
元々ミレルは、カイスベクファの南に位置する小さな農業国だった。
けれど百五十年前、唐突にミレルへと一人の女性が降り立った。
黒い髪と黒い瞳を持つ普通の女性の姿をしているというのに、そのあふれる叡智はまさに神。
当時の人々には彼女の知識は殆ど理解できなかった。それでも辛うじて、施された雫の如き技術を学者たちが解明し、今日のミレルを、そして世界を支えている。
当たり前に享受している技術は、みんなミレルからもたらされた知識が基になっている。医療、鉄鋼、教育、法の整備まで。
ミレルは先進国へと飛躍を遂げ、他国はそのおこぼれに縋った。全ての近代化はミレルから。
ミレルは彼女を創世の女神となぞらえて、『ミレル神聖国』と国名を改めた。
まあ、お察しの通り当時はミレルの女神を巡って色々あった。
それはそうでしょう。牧畜と穀物育ててる国だと気にも留めていなかった小国に、大国は皆こぞって頭を下げなきゃいけない状況になったんだから。
まず、そもそも創世の女神信仰の発祥地とされる宗教国家がキレた。それうちのだから! って感じで。
この世界の殆どの人は創世の女神を信仰している。創世の女神信仰っていうのは、天から海の中心に降り立った黒髪黒目の女神様が、涙を落とし世界に大陸と人を創ったっていうお伽噺みたいな信仰のこと。まあ、ありがちな神話の類だ。女神が降り立った時に最初に創ったとされる西大陸は黒髪黒目の人口が多いから、そのあたりが由来かもね。
信仰発祥の地は今、宗教国家の総本山だ。
ミレルの周りの国も黙ってない。今まで農業しかない所に、色々融通してきたでしょ。なんで知識小出しにするのよ、ってね。
でもね、当時の女神の手腕も大したものだった。
武器と兵を持って集った各国の王やら大司教やらを、会談ひとつで収めてみせた。
それ以来、百五十年前からミレル神聖国は女神の国。
女神は知識を人々に惜しみなく施し、武器で制圧をしようとした国々は自らの蛮行を恥じて、友好を誓ったとか。
史学で学んだ内容ですから、本当の事情なんてのはわからないけど。
それから何代も代替わりをするものの、ミレルにはずっと女神が存在する。
「老いることのない女神なんて、本当にいるのかな」
椅子に掛けたラザー様の言葉に、空気が一気に険呑さを帯びる。
そもそも今夜は、この核心を突くための舞台だ。
不老を謳われる人智を超えた存在の女神様。彼女達は初代を除き、表へ顔を晒さない。
百五十年の間に世界は変わった。
ミレルからもたらされる知識で急激に近代化が進み、知恵者たちは応用を始めた。
今では人が国の境を行き来するのも容易くなっている。巷では見聞録が流行し、大陸横断を果たしたさる貴族の著書は売れに売れているらしい。私もこっそり一冊手に入れたけれど、けっこう面白かった。
国々の文化が均一化されるに従って、ミレルは埋没していく。
言い方は悪いけれど、女神の知識を売り物にしていたミレルは徐々に歩みを緩め始め、権威を弱め、それにつれて閉鎖的になりつつあった。
人っていうのは現金なものよね。
ミレルの周りの国々から、密やかに声が上がるようになった。
そろそろミレルとの付き合い方を変えても良いんじゃないかって。
という訳で、話を元に戻しますよー。
侯爵の領地のすぐ南はミレルと接していて、侯爵家は代々羽振りがいい。
国に忠誠はあっても、隣国と交戦すれば地理的に疲弊は避けられない立場。調度品を見る限り、ミレルからの財と知識の流入も、便宜を図ってもらっている。当代侯爵は特に顕著だ。
ラザー様はミレルに肩入れし過ぎの侯爵の手綱を握るため、急遽晩餐会に出席した。既に国の意思としてはミレルと距離を置くことは決定しているから、侯爵を説得(と言う名の弱みを握ることが)出来れば、陛下の心証を上げ、議会も円滑に運営できる。
……正直、予定をねじ込むのは大変だった。侯爵が本来支持している第二王子派にばれずに予定を組むの、すっごく大変だった! 腕の見せ所でもあったけどね。
派閥が違っても、王子であるラザー様に招待状が来ないなんて有り得ない。勿論侯爵の方も断られることを見越して招待状を寄越した。それを逆手にとって、南の領地で行われる晩餐会への招待にギリギリまで返事を出さず、急遽出席の知らせと共に訪問した。
この邸の裏方たちは上を下への大騒ぎだったはず。想像するだけで胃に痛みが……。同業者としてそこは申し訳ないと思いつつ、こうでもしないと取り繕われてしまうから仕方ない。
さて侯爵様の反応は――などと耳を大きくしていると、目の前を通りかかる年若い給仕に違和感を覚える。
さっきまでこんな子居た? 足運びはまるで水の流れのように淀みないし、ピンと伸びた背筋も申し分ない。けれど、何故か違和感が拭えない。
隣の部下を見る。
フレドリックは、目を細めて給仕を凝視していた。顔に出てしまっているのは、ちょっと減点。違和感を見つけたけれど、原因を特定出来ずにいるみたい。
ああ、袖の長さが他の給仕のお仕着せと違う。少し長く見える。
小さなものなら袖下に隠せそう。
お仕着せの裾のラインは家によって違うので、制服は当主から年に一度支給されるのが慣例だ。大きめに作ることもあるけれど……。
――侯爵様は若く美しい少年に目がない。
そんな噂を思い出して、眩暈がしそうになる。まあだからこそ侯爵はラザー様じゃなくて、劣勢な第二王子を支持しているのよね。第二王子は御歳十二歳。侯爵の理想にぴったり合致する。ラザー様だって、見た目は虫も殺さないようなキラッキラした理想の王子様だけど、残念ながら二十代なので。
年若い給仕は、侯爵の審美眼に耐えうる容姿をしていた。偶々好みに完璧に合致した、躾の行き届いた少年なんてものが、偶然で門戸を叩くものだろうか。
侯爵という立場なら、確かに自ら集めることも可能だ。けれど我が国は人身売買を禁じているし、政敵であるラザー様の目の前に、こんな簡単に弱点を晒す危険を犯すとも思えない。
ミレルからの貢物は物や知識だけではなく、人もだったとしたら?
ざわざわと、胸のあたりから嫌な予感が広がっていく。
女官としての勘、とでも言えばいいのか。
年月を積み重ね、体に染みついた経験が危険を告げる。
警鐘のように鳴りやまない。
身体が勝手に、給仕に体当たりをしていた。
勘違いだったら、謝ろう。眩暈を起こして倒れたって言い訳しよう。
視界の端に、鈍色の反射が見えた。
どこかで悲鳴が聞こえる。
室内のはずなのに音が近く感じたり遠く感じたりで、上手く聞き取れない。
私が給仕の前へと身体を投げ出せたのは、ほんの少しの幸運と、反復訓練の賜物。
ラザー様から絶対の信頼を頂いているなんて囁かれていても、何もかも完璧に熟せるわけじゃない。出来ない事の方が多い。だから、出来る最善のことをする。
未来の国王を守るのは護衛の仕事。
私は時間稼ぎの壁くらいにしかなれない。
重くて億劫な身体を叱咤して首を動かすと、護衛に囲まれ迅速にその場から遠ざけられるラザー様と目があった。
よかった。
ラザー様、どうか熱くなり過ぎないでくださいね。
ちゃんといつもみたいに、この機会を逃さないで。
侯爵は生かして利用しなきゃいけない人材なんですからね。
説教臭いとよく彼に煙たがられた小言が、頭にいっぱい浮かぶ。
言葉は出てこない。口の中がぬるついて、サビ臭くて開くと泡と空気が漏れるだけだ。
腹のあたりが凄く熱くて、同時に芯から冷えてくる。
命が零れ落ちていく感覚。
「女官長! ……ライラ様っ!」
声が聞こえた気がする。……誰?
何だか手が痛い。万力で押さえられているみたい。どこの馬鹿力よ……。
ああ、そろそろ目も耳も限界みたい。
引き際としては悪くない。市井から上ったのにこんな位置に留まれたんだもの。
遺族年金だって、ラザー様が支給してくれるはず。そのくらいは頑張ったでしょう。
握られた手が、なかなか感傷的な気分へと身を委ねさせてくれない。
そんなに振り回さないで。
うう、寒いなあ。
死ぬ時って怖いばかりだと思っていたのに、そうでもないんだ。
ただ寒い。
そう独りごちながら、冷たくてどろりとした闇に沈みこんだ。
これが私、ライラ・オールソンの最後の記憶。