生命の木
他のみんなが忘れても、僕だけは覚えている。君が誰であるかを。
九月。夜になれば、少し冷え込んでまだ寒い季節だ。だが、凍えるほど寒いという訳ではない。つまりはもっとも過ごしやすく、生物が活動するにはちょうどいい季節だということ。僕は一年でこの時期が一番好きだ。太陽の光が一層柔らかみを帯びて、大地に降り注ぐこの季節が。大気中の全ての粒子が、まるで生命の存在を祝福するかのように、輝いて見える。そしてそれに応えるように、あらゆる生物たちが、眠りから覚めて、喜びに満ちた歌を詠う。
この季節になると、必ず思い出すのは君のことだ。僕の意識は、大抵辺りに広がって、茫洋としているのだが――人間に言わせれば無目的、ということらしい――この季節の冴え冴えとした光は、僕をゆっくりと覚醒させていく。全ての感覚が鮮明になって、世界が確かにそこにあるのだと、実感する。そうして僕ははるかな過去の記憶へと思いを馳せるのだ。
僕は少々長く生きすぎたかもしれない。いや、自分ではそう思っているのだが、本当の所は分からない。僕は、自分より長く生きた存在を知らないから。僕の知る他の生き物は、みんな僕の側を通り過ぎていく。僕よりも先に死んでいく。地を這う虫。空を飛ぶ鳥。そして、そのどちらでもある人間。そう、僕は人間が空を飛べるということを知らなかった。君が、あのとき、今と同じこの季節に、ここに来るまでは。
「やあ」
この季節特有の穏やかな太陽の光の下、君は古い友人に久しぶりに会うかのように、僕に挨拶した。僕は答えないが、君はそれを気にも止めず、言葉を続ける。
「君はずっとここにいて疲れないのかい」
僕にはそれが当たり前のことだから疲れることはないのだ、と説明したかったのだが、それはできない。僕の声は、人間には聴こえないのだ。
「私は君みたいに忍耐強くないから、ここでずっと突っ立ってるってことは、できそうもない」
そう口にして、君は僕に向かって笑いかけた。
「それでも、今の季節なら、一時間くらいは耐えられるかな。うんざりするような夏の暑さの中では、絶対に無理だと思うけど」
仰向けになって、君は地面に寝転んで僕を見上げる。その視線ははるか僕の向こう、空へと向いていた。君はしばらくの間そうしていたが、唐突にこう呟いた。
「鳥は空を飛ぶ。鳩も、烏もね」
君は指を立ててくるくると回しながら、そう言った。その言葉で、君の目線の先に鳥が飛んでいるのだと意識する。
「それはごく当たり前のことだ。だけど、人間だって空を飛べるのさ。君は知らなかったろう?」
君は僕に悪戯っぽい笑みを向ける。その笑みは、その年の人間にしては、随分と子供っぽいものに見えた。つまりは年不相応だ、ということだ。
「私は小さい時から、ずっとそう思ってきたんだ。空想科学小説の中の夢物語じゃないって。でも私がそう言うたびに、みんなは呆れたような顔をして、私を見てたっけ」
口元をほころばせて、君は言葉を紡ぐ。
「でも、私が実際空を飛んだときの、みんなの反応は実に見物だった。あの中で、君だけが本当のことを言ってたんだって手紙を貰ったときは、とても嬉しかったな」
僕は静かに君の声に耳を傾ける。僕は言葉を返すことはできないが、君はそれでも満足そうにしていた。
それから、君はしょっちゅう僕の下へと来るようになった。君は空を飛ぶ機械――それは飛行機という名前らしい――について、実に嬉しそうに語った。時には専門用語が繰り出されて、何を言っているのか、僕にはさっぱり分からなかったが、そのひとときは僕にとって、本当に楽しい時間だった。
人間の間では、君のような格好をした者を伊達男、と言うらしい。君以外にも、ここを通る人間がいて、そう話していた。僕には人間の身を包む衣服の違いは分からなかったが、君が他の人間に好かれているのは、分かっていた。彼等が君について語るときの顔は、君が飛行機について語るときの顔と、そっくりだったから。
君は僕に多くのことを語ってくれた。その中でも、もっとも鮮明に覚えているのは、君のこの言葉だ。
「夜明け前が一番暗いってよく言うけれど、実はそうじゃないんだ。いつもここに立って世界を眺めている君なら分かるだろうな。生き物が目を覚ます少し前の、あの瞬間は、仄かな光が辺りに満ち満ちている。だから、一番暗くはないんだ。だけど、一番神聖な時間帯なんだよ。空気が清々しく澄んで、ぴんと鋭く張り詰めている。あの静謐さときたら! そんなときに、空を飛ぶのは最高の気分さ」
そう言ってから、君は悲しそうな顔をして、視線を下に向けた。
「今はもう、昔みたいには、飛べないけれどね。体が思うように動かないから」
君は時折寂しそうに、どこか遠くを見ることがあった。表情を曇らせて、水平線の彼方を眺めるのだ。それは嬉々として飛行機について語る顔とは、明らかに違っていた。
「私が空を飛ばなければ良かったんだ。みんなが私を英雄扱いするが――それでどれだけの人間が死んだ? 私は人殺しだよ。直接手を下してはいないが、それは免罪にはならない」
そう暗い顔で、俯いて自身を責める君を見るのは、僕にとっても、身を切るように辛かった。僕はそのとき君に言いたかった。君が空を飛ばなくても、他の人間がそうしただろう、と。君が全てを背負う必要なんかないんだ、と。だけど、それはできない相談だ。僕が君に話しかけることは、不可能だったから。
季節は移ろう。君はあれから何度ここへ訪れただろう。あるときを境にして、君の表情はだんだんと暗くなっていった。ここにずっと立っているだけの僕には理解できない。その憂愁を。その孤独を。僕は君を慰めたかったのだが、僕の声はやはり君には届かない。
「最近、体調が思わしくなくてね。みんなが、私に気を遣ってくれるのは分かるんだけれど、肩身が狭いんだ。どうして私はこんなに駄目な人間なんだろうって思ってしまって」
そう言ってから、君は弱々しい笑みを浮べる。
「でも、私はどうやっても、みんなの望む姿にはなれないらしい。みんなの思いに応えることはできないんだ」
呟く君の姿はいつもよりも頼りなく小さく見えた。
僕が君に最後に会った日のことは、よく覚えている。その日はとても寒かった。冬であっても、昼間からここまで気温が下がるのは、滅多にないことだ。吹きすさぶ風は異様に冷たく、冷気が身に染みた。僕はその寒さに震え慄く。君は鬱々とした表情で、僕の前に立った。それから、くずおれるようにして、地面にしゃがみこんで、呻き声を上げながら、君は慟哭した。
「私には生きることが重荷なんだ。どうして、人間だけがお互いに殺し合わなければならないんだろう。君みたいに、誰とも争わずに生きていくことができたら」
その魂の底から絞り出されるような悲痛な叫びは、僕の意識をきりきりと締め付けるように苛んだ。僕は君の苦痛から目を背けたかった。それは僕にはどうしようもないことだったから。僕には君を救うことなどできない。
「嫌なんだ。嫌なんだよ、もう飛行機が人殺しの道具なんかに使われるのは。あんなことはあの大戦で十分じゃないか。どうしてこの地まで血に染められなくちゃならない」
君は僕の身体に寄りかかるようにして、か細い声で、呟く。
「何か喋ってくれ、何か……」
それきり、君は来なくなった。君が、首を吊って死んだのだと知ったのは、それから大分経ってからだ。その死を悼んで、君が嘆いていた戦争は一時止んだらしい。人間が僕の下で、そう話していた。
他の生き物は全て、僕を置き去りにして死んでいく。
それはいつものことだ。だけど、とても寂しかった。本当に長く生きてきて、そう思ったのはこれが初めてだった。
僕は基本的に、人間のように何かに祈るということはしない。それでも、この柔らかな太陽の光が、辺りに満ち溢れる季節には、君が確かにそこに存在したという記憶を、世界に留めておきたいと望むのだ。それは、やはり人間の祈るという感覚に似ているのかもしれない。人間がよくするように、神に縋る訳ではないけれど、この宇宙、この世界を成り立たせている、存在するというその力の一部に、君を付け加えておいて欲しいと、僕は切に願う。それは僕の意識を超えたところにあって、届かないものだけれど、僕はそれが確かにそこにあることを確信している。そして、それははるか遠い未来、僕が死んだ後に、誰かに語りかけるだろう。そうすれば、君は忘れ去られることはない。永遠に。
この話はもちろんフィクションですが、彼にはモデルがいます。ライト兄弟に比べて忘れ去られがちな、愛すべき飛行機野郎、アルベルト・サントス・デュモンです。季節の描写がおかしいのは、彼が晩年を過ごしたのが、ブラジル(南半球)だったから。分かりにくくてすみません(汗)