ザビエルの嵐が丘
梅毒トレポネーマ(以下梅毒と記す)をわが国に持ち込んだのは、フランシスコ・ザビエルと、一部では言われている。これは、ともすると宗教論争にもなりかねないので、「一部では」とさせてもらった。
もしかしたら、当時貿易のあったポルトガル、インド、中国を介して別の者により伝わったのかもしれない。しかし、そういう論説は今のところない。
もし彼でないとしても、彼に同行した船乗りや弟子達(殉教者達)が伝道(?)したことは、彼らが鹿児島に上陸した、それ以前に書かれている日本の文献、書物に梅毒に関する記載が無いことからも明らかである。
その伝染拡散速度は、まるで動物の神経シナプス中の神経伝達物質が、レセプターを介して伝わるがごとく速かった。
彼らはまず鹿児島に着き、領主、津島貴久の許しを得、布教を開始した。
1549年のことであった。その後、平戸に向かい宣教した。
翌年彼は京都に向かった。その途中で山口に立ち寄る。山口の領主、大内義隆に謁見できたが、当時の日本は男色(同性愛)を罪としなかったことをザビエルは「鬼畜にも劣る行為」と言ったとされている。
その為、大内氏から激怒され、山口を離れ、最初からの目的である、京都に向かった。
ザビエルが京に着く随分前から、梅毒は江戸はおろか、日本中に広がっていた。
なぜそのようにすぐに広がったのかという罪深さを今は論じるまい。それよりもむしろ、これから述べようとしている物語は、それをまずはじめに伝えたことの重要さに言及している。
その忌まわしい事件は1991年の秋、山口市で起こった。
山口市は狭隘な地形に、ひっそりとした佇まいを見せている。街の中央付近に、亀山という小高い丘があり、頂上はありふれた、どこにでもあるような公園になっているが、展望の美しさは筆舌に尽くし難く、山口市を一望できるすばらしい風景だ。その山口市に日本最初の教会を設け、信徒を増やしていったザビエルを記念し、1952年(昭和27年)亀山の中腹に建てられたのが、ザビエル記念聖堂である。
その聖堂が9月5日、焼けた。
その後何年間か焼け残った聖堂の外壁やザビエルの鐘が保存されていた。隣には山口ザビエル資料館があり、燃え上がる聖堂の惨劇を移した写真集が置かれてあった。資料によると、「5日の夜未明に出火、二昼夜燃え続け、やっと焼失した」とある。現在は新しく山口サビエル記念聖堂として、1998年再建されている。
道永友美恵は、小学校の頃から看護婦になりたいと思っていたし、なるんだと決め付けてもいた。でもこうして、希望の憧れの職業に就いて、余年が過ぎようとしている今、ふと感じる、自分は何なのかという懐疑や、幻想――そういった得体の知れない憂鬱さといったらいいのか、自分でも制御できない暗澹たる思いは、友美恵の日常を襲いつつあった。
看護師が医療の中の補助的な役割で、医師の責任、指導管理下のもとにこの仕事が成り立っていることは否定できないけれど、本来の職務である看護とは別の、それを逸脱した仕事の忙しさが充満している現状で、憤懣を超えた、転化しようもないやるせなさを呈してきたといっても、誰も反論し得ないだろう。
(この朦朧とした切なさは何?)
この思いは日増しに強くなる。掴みどころのない、意地悪で寡黙な悪魔を追い出したいのか、忙しいけれどこのまま反面、ぬるま湯にも似た怠惰な毎日に流されてゆく生活を打破したいのかは友美恵にもわからない。
(もう25歳になってしまったんだ…)
まだ25歳の若さで、老人のような気だるさを覚えてしまう。友美恵はそんな自分が嫌でたまらなかった。
(こんな毎日をこのまま過ごしていいのだろうか…、来年は26か…)
そんな疑問をいつも自身に投げかけ、巡らせている。倦怠が全身に現れ、世俗から逼塞しているようだ。
友美恵は、思春期の頃に読んだ、「嵐が丘」をもう一度読んで見たいと思った。別にこれといって理由はなかった。ただ、水面を漂い揺れる浮き草のような、外部からのちょっとした干渉や刺激に対しても、敏感に反応せざるを得ない心の動き、そんな青春の未熟さに向かって、後戻りをしてみたい。そう思った。
(そうだ、「嵐が丘」は浅井君に貸していたんだった)
浅井洋司は友美恵の前の職場の同僚だった。臨床検査部門を受け持つ技師である。歳も同い年で、なかなか気が合っていた。でも、友美恵がその病院を退職しようと思っていた時、親身になって相談に乗ってもらうほど、それほどは深い友人関係はなかったので、辞める時も理由も聞かれなかったし、「そうか」の一言で、それっきりになった。貸した「嵐が丘」もそのままになってしまっていた。
浅井は友美恵から借りていた本を返そうと思っていたのだが、なかなか返せないでいた。というのは、友美恵が退職して、職場が違うというだけで、友美恵に会う機会ががない。借りていた本を返す目的でわざわざ会おうという理由もわざとらしく思えたのだ。
浅井は友美恵とはそんなに親しい付き合いはなかった。ただ、友美恵は読書家だという話を聞いていたので、貸していた本を忘れているとは思えなかった。気まずい思いをしながら、毎日が過ぎていき、それと共に返すタイミングを失っていった。
雨の降りしきる9月の中旬だった。秋雨前線の停滞を誰もが動かして欲しい、もうそろそろ去ってくれてもいいんじゃないのか、そんな懇願をも誘うほど、雨は降り続いていた。
路地にたたずむその女性は、傘を差していなかった。長い髪が肩から頬に張り付いたように、また、全身薄いワンピースが雨でびっしょりに濡れて体の線を浮き立たせている。もう夕暮れで、誰も彼女とすれ違う人影はない。彼女は寒さに震えながら、雨宿りさえしないでとぼとぼと歩く。
狭い路地を抜け、大通りに出ると、タクシーを拾おうとした。だが手を上げても、どのタクシーも止まってくれない。空車のランプを明々と灯しているのに。
浅井は丁度その時、歩道を歩いていて、彼女とぶつかった。ぶつかったというよりは触れたという方が正しかったが、その時彼女はよろけた。彼の差していた傘の柄が、彼女の肘の辺りに当たって、濡れた地面に膝を付いた。別にわざとした訳ではない。浅井は考え事をしながら歩いていたので、彼女が見えなかったのだ。
「御免なさい」
彼女が先に謝った。
「あ、いえ、僕の方こそ…」
浅井は彼女の顔に釘付けになる。いや、顔だけではない。彼女の全身の美しさに昂せずにはいられなかった。その容姿は彼を魅了するのに、ほんの一瞬しか時間を要しなかった。
「浅井君?」
浅井は彼女に見惚れていたので、以前の同僚、道永友美恵であることに気付かなかったのだ。
「やっぱり浅井君なのね。ああ、助かった」
「道永さんじゃないか、こんなところで何してんだ?」
二人にとって久しぶりの再会だった。久しぶりなのに、ずっと会ってないことに対しての挨拶など構わず、いつも会っている二人のような口調、それは、互いが他人行儀さの拒絶を促すような会話の始まりだった。大げさにいえば、時間を越えた信頼が、互いの脳裏に位置づけられていたのかもしれない。浅井はそっと彼女を傘の中に入れた。
「ええ、今ちょっと傘がなくて…」
友美恵は立ち上がりながら、恥ずかしさのあまり、理由にもならない訳のわからぬ言い訳を言った。
浅井は、(道永さん綺麗になったな)と、心の中でそう呟いた。
「あれからどうしてるんだ? 急に病院辞めちゃって。今どこの病院にいるんだよ」
「私、もう看護師やってないの」
「うーん、世間じゃ看護師が足りねえのに、免許持ってて、看護師しないのはもったいないとかぬかしやがるけどよう、きつい仕事だし、医者の小間使いなんてやってられねえよな、実際」
浅井は自分には似合わない、妙なしゃべり方をしていることには、途中で気付いたが、いつの間にか知らず知らず、友美恵を弁護していた。
友美恵は聞いているのかいないのか、下を向いていた。はにかんでるようにも見えたが、実は他の事を考えていたのだ。言い出そうか止めようかこんなこと頼んでいいものなのか、しばらく躊躇していた。
やがて友美恵は決心した。
「浅井君、私と一緒に山口に行ってくれない?」
「山口? 山口って、長州藩だっけ。それと秋吉台があるところか?」
「そう、その山口だけど、私の行きたいのは山口県の山口市なの」
浅井は地理に疎いから、山口と言えば、そんなことしか知らない。それにしても、彼の知っている道永友美恵と、今ここにいる彼女は別人のようになったなと、彼は思った。
「何を言い出すんだ。久しぶりにこうして会えたっていうのに。第一、それどころじゃないだろう? びしょ濡れじゃないか」
「藪から棒にって思ってるでしょうね。でも、今私、浅井君しかいないの」
浅井はしばし当惑した。そして、友美恵の目を見つめた。打算のない、美しい素直な瞳がそこにあった。
今ずぶ濡れになっている娘と青年が向かい合っている光景を、傍目から見るとどんなふうに映るだろうか。
「そうか、わかった、一緒に山口に行こう」
「ほんと? ありがとう」
友美恵は、そっと胸を撫で下ろすように微笑した。
二日後、浅井と友美恵は山口市の亀山公園に来ている。
秋の長雨は依然としてやまない。亀山の中腹辺りに建っているザビエル記念聖堂も、雨にうたれていた。
ここに来る前、友美恵はDNA鑑定を山口県警に申し出た。丁度1週間前のこと、この亀山公園にて白骨死体が発見され、マスメディアに発表されてからというもの、友美恵は眠れなかった。15年前家を出て行った父かもしれないと、直感でそう思ったからである。なぜそう思うのか、警察には言わなかった。友美恵の主張が強く、粘ったのが功を奏したのか、DNA鑑定をしてもらえることとなり、先ほど浅井と二人で県警本部に立ち寄り、結果を聞いてきたところである。
浅井には全部事情を話してあった。結果は、ほぼ間違いなく、友美恵の父親ということだった。
山口では、ザビエルのことを、濁らずに「サビエル」と発音するらしい。
この緑の丘の上にクリーム色の尖塔が突き出している聖堂がある−−筈であった。昭和27年にザビエル来日400年を記念して建てられた。
サビエルは京都に着いた時には当時、足利幕府の権威は失墜しており、戦乱の世で荒れ果て、天皇にも会っていない。とても布教どころではなく、すぐに平戸に戻り、そしてまたここ山口にて布教活動をしたと文献にある。
新しい記念聖堂が建てられていた。中に入ってみると、教会という雰囲気はしなかった。こちらの清掃員だろうか、60歳くらいの婦人が掃除をしていた。友美恵が言葉をかけようと、すると浅井が先に声をかけた。
「おばさん、ここにあった資料館はどうなったんですか?」
「ああ、それはもうなくなって10年になるかのう。今は土産物屋があるだけじゃ」
「そうですか…。それなら前の聖堂の写真とかもうないんですよねえ」
「あるよ」
「え? どこにあるんですか?」
「わたしゃ前にそのサビエル資料館に勤めとったからのう。家にいっぱいあるよ。見たいなら、ついてきなせえ」
と言って、とぼとぼと、腰を少し曲げながら、歩いていった。浅井たちもその老婦人について行った。5分ぐらい歩いて着いた家はその老婦人の家らしかった。一人暮しらしい。
「これ」と言って友美恵に渡されたのが、何枚もの聖堂の写真である。堂内にあった筈のサビエルと当時の信者達を描いた壁画やステンドグラス、敷き詰められていた深紅の絨毯、荘厳たる雰囲気、そんなものはこの写真の中だけにしかあじわえない。また、焼ける時の写真もあった。火柱が立ち、どんどん燃える写真もあれば、完全に焼失している写真もあった。何人もの野次馬の写っている写真もある。
友美恵が、「あ!」と感嘆の声を漏らした時の顔はまるで、なにかに怯えているように、浅井には見えた。
「やっぱりお父さん…」
「親父さんが写っているのか?」
と浅井が尋ねる。
「これ、絶対お父さん。私、忘れてないもん。おばさん、これ、平成3年9月5日の写真ですよね」
「そうだよ。右隅に写っているじゃろう?」
そういえば、日付入りの写真だ。
「浅井君、いえ、洋司さんありがとう。あなたがいなければ私、ここまで来れなかった。」
友美恵が自分の名前で呼んでくれたことのほうが、浅井は嬉しかった。
その時だった。友美恵はあの時のことを刹那に思い出した。父が出て行 った日のことを。
10歳の時、私が覚えているのは隣の部屋での母の大きな声だけだ。
母は言った。
「あなた、梅毒なんですってね!どこの女郎屋に行ってそんなもの貰ってきたのよ。この恥さらし!」
母から罵倒され、急に家を出て行ったことが今わかるなんて。やりきれない思いを友美恵は浅井の胸にすがりたかった。
父は、梅毒をこのわが国に持ち込んだそのザビエルへの復讐が、あの聖堂への放火であったのではないのか。そして、焼失したのを確かめ、亀山で自殺した。
友美恵は思う。父は代々母子感染だったのではないかと。
あの真面目な父が母を愛さなかった筈がないと。
友美恵は嵐が丘をもう一度読んでみようと、再び思った。
(終)
嵐が丘との関連は? と訊かれると、困ってしまう。