影の中の友人
五月の柔らかな日差しが、教室の窓から差し込んでいた。
一ノ瀬蓮は、数学のノートを開いたまま、隣の空席をじっと見つめていた。
「一ノ瀬くん、また樹くんの席見てる」
後ろの席から、控えめな声がした。クラスメイトの浅倉美月だ。蓮はゆっくりと振り返り、少し困ったように眉を下げた。
「あ、ごめん。…あいつまだ来ないなと思って。いつもなら予鈴が鳴る前に、『一ノ瀬、宿題見せてくれよ』って駆け込んでくるのに。珍しいよね」
「そうだね。樹くん寝坊かな? 一限目が苦手な数学だから、それで余計に起きるのが嫌になっちゃったのかも」
蓮は苦笑いして、頷いた。
「だね。二限目あたりに、悪びれもしない顔でひょっこり現れそうだよ」
そんな平穏な空気は、教室のドアが勢いよく開いた瞬間に凍りついた。担任の教師が、今まで見たこともないほど蒼白な顔で入ってきた。
「全員、席に着け。動揺せずに聞いてほしい」
教室が静まり返る。蓮は机の角をぎゅっと握りしめた。
「今朝河川敷で、佐伯樹くんが亡くなっているのが発見された」
静寂の後、悲鳴に近いざわめきが広がった。美月はその場に泣き崩れ、他の生徒たちも口々に「嘘だろ」「信じられない」と声を上げた。
そんな中、蓮はただ一人声も出さずに立ち尽した。
「一ノ瀬、大丈夫か?」
隣の席の男子が肩を揺らす。蓮の指先から、シャープペンシルが音を立てて床に転がった。
「嘘…だよ。先生。昨日、一緒に帰ったんだ。また明日なって、笑って別れたんだ。あいつが死ぬなんて、そんなの…そんなの、ありえないよ!」
蓮の叫びは、教室にいた全員の胸を突いた。彼は震える膝を支えきれず、その場に頽れた。
数時間後、蓮は警察署の薄暗い応接室にいた。目の前には、ベテランの佐藤刑事が座っている。
「一ノ瀬くん、辛いだろうが。少しだけ昨日のことを話してくれるかい?」
「はい。何でも話します。樹を殺した奴が野放しなんて、僕は耐えられません」
蓮は腫らした目で、まっすぐに佐藤を見つめた。
「昨日の夕方、六時に駅前の図書館で別れました。彼は『塾に行かなきゃ』って。僕はそのまま真っ直ぐ家に帰って、母におかえりって言われて…」
「帰宅したのは、何時ごろかな?」
「六時十五分です。帰ってきて玄関の時計を見ました。僕が、無理にでも塾まで送っていれば…あいつが誰かに狙われてるなんて、気づいてあげられればよかったのに」
蓮は顔を覆い、肩を震わせた。佐藤刑事は深く溜息をつき、少年の肩を優しく叩いた。
「自分を責めるな。悪いのは犯人だ。君の証拠は、お母さんの証言とも一致している。君は、樹くんの親友だったんだな」
「親友なんて…僕が言うのもおこがましいくらい、あいつには助けてもらってばかりでした」
蓮は涙を拭い、佐藤を睨むような鋭い視線を向けた。
「佐藤さん、お願いです。僕も捜査を手伝わせてください。あいつの最近の様子なら、僕が一番知っています」
「気持ちはわかるが、君はまだ中学生だ」
「僕の成績は、学年でトップです。論理的な分析なら、大人にも負けません。樹の無念を晴らすためなら、僕は何だってします!」
佐藤は、少年の瞳に宿る悲しみを超えた強い意志に圧倒されたようだった。
「わかった。公にはできないが、君が気づいたことがあれば、いつでも私に連絡してくれ」
「ありがとうございます。必ず。必ず、僕が犯人を見つけ出します」
警察署を出ると、街灯が灯り始めていた。蓮は、樹が発見された河川敷の方角をじっと見つめた。
その手は、ポケットの中でくろ色のキーホルダーを強く握っていた。
まるで、親友は確かに生きていたのだと確かめるかのように。
夜風が吹き抜け、蓮の制服を揺らした。




