「虫に話しかけてるお前が気持ち悪い」と追放された令嬢——領地の蜂蜜が消え、薬も蝋燭も作れなくなった
百二十の巣箱が、空だった。
朝霧の蜂の谷に、蜂の羽音がない。
巣門を開けても巣板を引き上げても、蜜蝋の匣の中はどこまでも静かで、あの金色の生き物たちの気配が、一片も残っていなかった。
「嘘だろ……全部、空じゃないか」
養蜂場の管理を引き継いだ使用人が、震える手で巣箱を次々にひっくり返していく。蜂蜜の一滴も残っていない。蜜蝋の残骸すら持ち去られたかのように、巣板は骨だけになっていた。
「ヒルデ様がお発ちになって、一週間です」
誰かがそう言った。
谷を吹き抜ける風だけが、空の巣箱の中でひゅうと鳴った。
——これは、その一週間前の話だ。
私が蜂の谷に来るのは、いつも夜明け前だった。
蜂は朝日とともに動き始める。日の出前に巣箱を見て回り、女王蜂の産卵ペースを確認し、巣板の温度を手のひらで読む。冷たすぎれば巣箱の位置を変え、湿気が多ければ蓋板の角度を調整する。蜂が快適に過ごせる温度は三十五度。人間の体温より少し低いくらい。
そのわずかな差を、私は手で感じ取れた。
「おはよう。今日はご機嫌ね」
巣門から飛び出してきた働き蜂が、私の指先にとまった。六本の足で器用にしがみつき、触角でくるくると私の指を探る。
蜂は匂いで人間を見分ける。私が毎日通ううちに、この子たちは私の匂いを「安全」として記憶してくれた。だから刺さない。だから逃げない。
祖母に教わったのだ。
「蜂は、自分を大切にしてくれる人を覚えている」と。
女王蜂のエルダが巣板の中央に鎮座しているのを確認する。産卵ペースは一日千五百個。体色は美しい琥珀色で、翅に傷みもない。あと二年は現役を続けられるだろう。ただし来春の分蜂期には、新しい女王を育てる準備が要る。
私はエルダの状態を巡回記録帳に書きつけた。女王蜂の交代は、養蜂の中でも最も繊細な作業だ。タイミングを誤れば蜂群は崩壊する。女王が二頭同時に存在すれば殺し合いが始まり、交代が遅ければ老いた女王の産卵が止まって群れごと死ぬ。
だから毎日記録をつける。五年間、一日も欠かさなかった。
「ヒルデ」
谷の入口に、人影が立っていた。
アルノルト・フォン・シュヴァルツ。私の婚約者——辺境伯の嫡男だ。
彼がこの谷に来ることは滅多にない。蜂が嫌いだからだ。正確に言えば、虫全般が嫌いだった。蝶ですら近づけば顔をしかめる人だった。
「アルノルト様、おはようございます。巣箱の点検中ですので、少し——」
「今すぐ話がある」
彼の声は硬かった。いつものように香水の匂いが風に乗ってくる。蜂たちが落ち着かなくなる。強い人工香は蜂を刺激する。何度もお願いしたのだけれど、彼は香水をやめなかった。
「手短に言う。婚約を解消する」
巣板を持つ手が止まった。
蜂が一匹、私の手首から飛び立った。
「……理由を、お聞きしてもよろしいですか」
「見ろ。今のお前の姿を」
アルノルトは顔を歪めた。嫌悪を隠そうともしない表情。
「虫が腕にとまっているのに平気な顔をしている。虫に話しかけている。虫に歌まで歌っている。——気持ち悪いんだよ、お前のそれが」
蜂だ、と思った。虫じゃない。この子たちには名前がある。群れがある。社会がある。
でもその言葉は喉の奥にしまった。言ったところで届かないことは、五年間でとうに分かっていた。
「社交界で婚約者が虫と暮らしている話が広まったらどうなるか、考えたことがあるか? 俺は笑い者になるんだぞ」
「……蜂蜜の管理は、私が一人でしております。後任を立てるまで、せめて一月——」
「後任なんぞいくらでも見つかる。養蜂家なんて珍しくもないだろう。明日までに荷物をまとめろ」
彼は踵を返した。蜂の谷を一秒でも早く出たいのだろう。駆けるように去っていく背中に、私は何も言えなかった。
私の指先で、蜂が触角をゆらゆらと揺らしていた。
不安なのだ。私の匂いが変わったことを、蜂は感じ取っている。
「ごめんね」
蜂に、そう言った。
一晩かけて荷物をまとめた。
衣装箪笥の中身は元から少ない。養蜂用の帽子とヴェール、麻の作業服、巡回記録帳。五年分の観察記録は革表紙の帳面三冊になっていた。
迷った末に、記録帳は巣箱の横に置いていくことにした。後任の養蜂家が来るなら、蜂の情報が必要になるはずだから。
女王蜂の交代時期、各巣箱の蜂群の性格、蜜源植物の開花順序、採蜜の最適な日の見分け方——五年かけて蓄積したすべてを、記録帳に残した。
巡回記録帳の最後のページに、一言だけ書き足した。
「蜂は静かに話しかけてください。大きな声は禁物です」
養蜂というのは、見た目ほど単純な仕事ではない。
蜂蜜を絞ればいい——世間の人はそう思っている。アルノルトもそう思っていたに違いない。だが実際には、蜂蜜の品質は養蜂家の技術で決まる。
薬用蜂蜜。
これが領地で最も重要な産品だった。傷薬、風邪薬、解毒剤——どの薬も、基剤に蜂蜜を使う。ただし薬用に使えるのは、アカシアの花から採れた高純度の蜂蜜だけだ。菩提樹の蜜が混じれば薬効が変わるし、蕎麦の蜜が入れば色が濁って調合が狂う。
だから私は蜜源植物を管理していた。蜂の谷の東斜面にアカシアを集中させ、西斜面には菩提樹を、谷の入口にはクローバーを植えた。蜂は最も近い花から蜜を集める。巣箱の配置と花の配置を組み合わせれば、蜂蜜の品質を花ごとに分けられる。
薬師が「この蜂蜜は使い物にならない」と返品してくることはなかった。品質は常に一定だった。五年間、ずっと。
蜜蝋。
蝋燭の原料であり、封蝋の原料であり、防水剤でもある。蜜蝋の品質もまた、巣板の管理で決まる。古い巣板は蝋が劣化して脆くなる。定期的に巣板を更新し、古い蝋を煮溶かして精製する。硬度の高い蝋は封蝋に、柔らかい蝋は蝋燭に、最も上質な蝋は外交書簡の封印に使われた。
この使い分けも、私がしていた。誰に教わったわけでもない。祖母の記録と、五年間の試行錯誤で辿り着いた。
そして分蜂の制御。
春になると蜂群は新しい女王を生み、群れの半分が古い女王と共に巣箱を出ていく。これを分蜂という。自然の摂理だが、養蜂家にとっては蜂群が半減する危機でもある。
分蜂を防ぐには、王台——女王蜂の卵を育てる特殊な巣房——を定期的に潰す必要がある。ただし潰しすぎれば女王の交代ができなくなる。そのバランスを見極めるのが、養蜂の中で最も難しい技術だった。
私はこの五年間、一度も蜂群崩壊を起こしていない。
でもそんなことは、誰も知らない。
蜂蜜は当然のように台所に届き、蝋燭は当然のように灯り、封蝋は当然のように公文書を封じていた。
当然すぎて、見えなくなっていた。
リンデ薬草園は、シュヴァルツ領から馬車で半日の距離にあった。
追放されてどこへ行くあてもなかった私を、ジークフリート・リンデが迎え入れてくれたのは偶然だった。いや、偶然とも言い切れない。
ジークフリートは以前からシュヴァルツ領の薬用蜂蜜を仕入れていた。品質の高さに惚れ込んで、何度か取引の手紙をくれた人だ。
「あなたがあの蜂蜜の管理者だったんですか」
薬草園の門を叩いた私を見て、ジークフリートは目を丸くした。
「てっきり年配の養蜂家だと思っていました。失礼。——それにしても、なぜこちらに?」
「婚約を解消されまして。行くところがなくなりました」
「……婚約を? あの蜂蜜を管理できる人を手放したんですか、あの領地は?」
彼の声に混じったのは、同情ではなく純粋な困惑だった。価値あるものを手放す判断が理解できないという、知的な人間特有の反応。
少しだけ、救われた。
「養蜂場を使わせていただけるなら、蜂蜜でお返しします」
「薬草園の隅に空き地があります。巣箱を置くスペースは十分ありますよ」
ジークフリートは眼鏡を押し上げて微笑んだ。白衣の袖口が薬草の汁で緑に染まっている。
この人は手を動かす人だ、と思った。口だけでなく、自分の手で薬を作る人。
ただし、簡単にはいかなかった。
リンデ薬草園の周囲に咲く花は、シュヴァルツ領とは違う。蜂が慣れた蜜源植物がない。巣箱を設置しても、蜂が落ち着かずに飛び回るばかりで巣板に蜜を溜めない。
三日目には一群がまるごと巣箱を放棄して飛び去った。新しい環境への拒絶反応だ。
「蜜源が合わないんです。蜂にも好みがありますから」
「好み……蜂に好みがあるんですか」
「ありますよ。アカシアが好きな群れ、クローバーを好む群れ。無理に合わない花を吸わせると、蜂蜜の質が落ちるんです」
私は薬草園の空き地を耕し、アカシアとクローバーの種を蒔いた。発芽まで三週間。開花まではさらに二ヶ月。その間、蜂たちは薬草園の周囲の野花で凌いでもらうしかない。
でも野花だけでは蜜の量が足りなかった。蜂の活力が落ち、女王蜂の産卵数が減り始めた。
夜更けまで薬草園の地図を広げて、どこにどの花を植えれば蜂が最短距離で蜜を集められるか計算した。ジークフリートが「まだ起きているんですか」と呆れた顔で温かい蜂蜜湯を持ってきてくれた。
シュヴァルツ領の在庫から持ってきた最後の蜂蜜だった。それを蜂たちの餌として巣箱に入れた。自分の蓄えを蜂に与えるのは、養蜂家として当然のことだ。
種を蒔いてから六週間。アカシアの白い花が咲き始めた朝、蜂たちの羽音が変わった。低く唸るような不安の音ではなく、軽やかな高音。蜜を見つけた喜びの周波数だ。
その日から、巣板にうっすらと蜜が溜まり始めた。
最初のまとまった蜂蜜が採れたのは、追放から二ヶ月後のことだった。
ジークフリートが一匙を舐めて、動きを止めた。
「……純度が違う。これは薬用に使えますか?」
「アカシアの蜜だけで採っていますから」
「素晴らしい。——この蜂蜜なら、僕がずっと試したかった処方を試せる」
彼の目が輝いた。蜂蜜の話になると早口になるのは、研究者の性だろう。
蜂蜜を基剤にした新しい軟膏を、ジークフリートと一緒に作った。傷口に塗ると蜂蜜の抗菌作用で化膿を防ぎ、薬草の成分が浸透を助ける。従来の軟膏より治りが早い。
リンデ領で風邪が流行した時には、蜂蜜とリンデンフラワーの煎薬が効果を発揮した。
最初に治ったのは、薬草園の近くに住む老婆だった。一週間咳が止まらなかったのが、蜂蜜薬を飲んだ翌朝にはすっかり良くなった。老婆は薬草園に菓子を持ってきて、「次もこの薬をください」と言った。
次の患者は木こりの息子。斧で手を切って化膿しかけていた傷が、蜂蜜軟膏を三日塗ったら綺麗に治った。
口伝えに評判が広がり、一ヶ月後には近隣の村からも患者が来るようになった。行商人が「リンデの蜂蜜薬」を求めて立ち寄るまでに、そう時間はかからなかった。
「ヒルデさん」
「はい?」
「蜂と話せるの、才能ですよ」
ジークフリートは何でもないことのようにそう言った。
巣箱の前で蜂に歌を歌っている私を見ても、彼は顔をしかめなかった。「面白い」と言って近づいてきて、蜂が私の手にとまる様子を観察し、「本当に刺さないんですね」と感心していた。
——気持ち悪い、とは、一度も言われなかった。
蜂たちも新しい環境に馴染んだ。巣箱に蜜が溜まり始め、蜜蝋も取れるようになった。
ある朝、巣箱の前に立ったら、見覚えのない蜂群が飛んできた。どこかの野生群が、私の巣箱に合流しようとしている。
蜂は養蜂家の匂いで巣箱を選ぶ。私の匂いが染みついた巣箱を、蜂たちが「安全な場所」として嗅ぎ分けてきたのだ。
「蜂の女王は二人いらないって言いますけど」
ジークフリートが笑った。
「あなたの元にだけ集まるんですね」
「この子たちは、大切にしてくれる人を覚えていますから」
蜂蜜色の午後の光の中で、蜂が穏やかに飛んでいた。
ここが私の居場所だと、蜂が決めてくれた。
私がシュヴァルツ領を去って一週間後のことだと、後で聞いた。
百二十の巣箱が、一夜にして空になった。
蜂群崩壊。
養蜂家がいなくなった巣箱は、蜂にとって「安全でない場所」になる。管理されなくなった巣箱は温度が乱れ、ダニが繁殖し、女王蜂がストレスで産卵を止める。蜂は群れごと巣箱を捨てて飛び去る。
一群が崩壊すると、隣の巣箱にも不安が伝染する。蜂は化学物質——警報フェロモンで危険を伝え合う。一つの群れのパニックが、谷全体に連鎖する。
一週間。それだけの時間で、百二十の巣箱は全て空になった。
最初に困ったのは薬師だった。
蜂蜜がなければ薬の基剤が作れない。傷薬も風邪薬も解毒剤も、蜂蜜を使わない処方は存在しない。在庫の蜂蜜は二週間で底をついた。
領内の診療所が最初に閉まった。薬がなければ医療ができない。風邪をひいた子供に飲ませるものがない。切り傷に塗るものがない。「薬はいつ入りますか」と毎日訪ねてくる領民に、薬師は首を横に振るしかなかった。
次に冬の備蓄が問題になった。
蜂蜜漬けの保存食は、辺境の冬を越すための命綱だ。果実を蜂蜜に漬ければ一年持つ。肉を蜂蜜で燻製すれば腐敗を防げる。それができなければ、乾燥肉と塩漬けだけで冬を凌ぐことになる。
だが乾燥肉には限りがあるし、塩漬けは塩の量が膨大になる。蜂蜜漬けなら少量の蜂蜜で大量の食材を保存できた。そのことを、領地の誰も意識していなかった。蜂蜜が「ある」のが当たり前だったから。
次に蝋燭が尽きた。
蜜蝋の在庫が消え、蝋燭が作れなくなった。獣脂の蝋燭で代用しようとしたが、煤が多く匂いがきつい。なにより量が足りない。領館の大広間を灯すには蜜蝋蝋燭が何十本も要るのに、獣脂蝋燭は一晩で燃え尽きる。
夜の暗闇は人を不安にする。子供が泣き、年寄りが怯え、夜盗の噂が広まった。
夜が、暗くなった。
そして封蝋。
公文書の封印に使う封蝋は、蜜蝋から精製する。硬度の高い特別な蝋でなければ、封印としての効力がない。封蝋がなければ公文書が送れない。王都への報告書も、隣領との通商許可書も、裁判の判決文も——すべて封蝋の印で有効性を保証される。
アルノルトは蝋の代わりに獣脂で封をして王都に報告書を送ったが、「正規の封印がない文書は受理できない」と突き返された。二度目は松脂で試したが、輸送中に溶けて書類が台無しになった。
行政が止まった。
アルノルトは養蜂家を雇った。
隣の領地から腕利きと評判の養蜂家を連れてきて、蜂の谷に新しい巣箱を設置させた。野生の蜂群を捕獲して入れ、蜜源植物も整えた。
蜂は、刺した。
養蜂家の腕を、顔を、手を。一匹や二匹ではない。群れ全体が攻撃態勢に入り、警報フェロモンを撒き散らし、近づく人間すべてに針を向けた。
一人目の養蜂家は両腕を腫らして三日で逃げた。二人目は「二十年やってきたが、こんな蜂は見たことがない」と半日で匙を投げた。三人目は煙でいぶして蜂を鎮めようとしたが、煙に怒った蜂群が一斉に攻撃し、養蜂家は顔面を二十箇所以上刺されて担ぎ出された。四人目を探したが、もう引き受ける者はいなかった。噂が広まったのだ——あの谷の蜂は化け物だと。
「なぜだ! 蜂なんてどれも同じだろう!」
アルノルトが叫んだと聞いた。
蜂はどれも同じではない。蜂は養蜂家を記憶する。五年間世話をしてくれた人間の匂いを、五年間聞かされた歌声を、五年間感じてきた穏やかな手の温度を——蜂は覚えている。
そして、知らない人間には針を向ける。
蜂群崩壊が起きたのは、管理者がいなくなったからではなかった。「この人間は安全だ」と記憶していた人間が消えたからだ。蜂は裏切られたのだ。信頼していた匂いが、突然なくなった。
だから逃げた。だから刺した。
蜂は、自分を大切にしてくれる人を知っている。
季節が進み、薬草園の巣箱は二十にまで増えていた。
野生群が次々に合流してきたのだ。まるで蜂の世界に口コミがあるかのように、私の巣箱を目指して飛んでくる。
「隣領の蜂蜜薬が評判になっています」とジークフリートが嬉しそうに報告してくれた。「行商人が買いに来るようになりましたよ」
「ジークフリートさんの薬の腕があってこそですよ」
「いいえ、基剤の質が全てです。僕の処方は平凡なんです。この蜂蜜が平凡な処方を特別にしてくれている」
彼はいつもそうだった。蜂蜜の質を褒め、私の技術を認め、そのうえで自分の貢献は控えめに語る。
研究者の誠実さだと最初は思っていた。でも次第に気づいた。これは誠実さだけではない。ジークフリートは私という人間を見ていた。蜂蜜ではなく、蜂蜜を作る人間を。
ある夜、薬の調合が遅くなって、二人で薬草園の裏手に座って月を見た。蜂は夜は飛ばないから、巣箱のあたりは静かだった。
「ヒルデさんは、蜂に歌を歌いますよね」
「ええ。蜂が落ち着くんです。科学的な根拠はないんですけれど」
「いいじゃないですか、根拠なんて」ジークフリートは眼鏡の奥で目を細めた。「蜂が穏やかになるなら、それが根拠です」
この人は、私が蜂に話しかけることを気持ち悪いと思わない。
虫に歌を歌うことを変だと思わない。
そのことが——どれほど、ありがたかったか。
シュヴァルツ領から使者が来たのは、私が追放されて三ヶ月後のことだった。
使者は顔面蒼白で、馬車から降りるなり膝をついた。
「ヒルデ様、どうかお戻りください。領地が——蜂蜜がなくなって、もう——」
蜂蜜漬けの保存食がないまま冬に入った領地は、備蓄不足に陥っていた。薬は底をつき、病人が増え、蝋燭がなくなった夜の暗闇で領民が不安に駆られている。封蝋がなく公文書が送れないため、王都からの援助要請もままならない。
「アルノルト様は——」
「若旦那様は……養蜂家を四人雇いましたが、全員蜂に刺されて逃げました。蜂が全く懐きません。それどころか、谷に近づく人間すべてに攻撃するようになりまして」
蜂が怒っているのだろう。信頼していた管理者がいなくなり、知らない人間が次々に巣箱を開ける。蜂にとってはすべて侵入者だ。
「お願いです、ヒルデ様。あなたにしかできないのです」
私は少し考えてから、答えた。
「お気持ちはわかります。でも、お断りします」
使者の目が見開かれた。
「私はシュヴァルツ領の養蜂責任者を解任されました。婚約も解消されています。もう領地の人間ではありません」
「し、しかし——」
「巣箱の横に、巡回記録帳を残してきました。読んでいただけましたか」
使者は黙った。読んでいないのだろう。
「五年分の記録です。女王蜂の交代時期、蜂群の性格、蜜源植物の管理方法——すべて書いてあります。あの記録帳を読めば、養蜂の基本は理解できるはずです」
「で、ですが、蜂がヒルデ様以外の人間を受け入れないのです——」
「時間をかけてください。毎日通って、静かに話しかけて、蜂に自分の匂いを覚えてもらうんです。それには半年……いえ、一年はかかるかもしれません」
使者の顔が絶望に染まった。一年。蜂蜜なしの冬を、さらに一年。
「もう一つ、お伝えしておきます」
私は静かに言った。
「蜂は、自分を大切にしてくれる人を知っています。あなたは知らなかったようですけれど」
使者に向けた言葉ではなかった。
使者の後ろにいる人に、届けばいい——そう思って言った。
でもきっと届かないだろう。蜂の気持ちがわからない人に、人の気持ちがわかるはずもないのだから。
使者が帰った後、ジークフリートが薬草園の裏口から出てきた。聞いていたのだろう。
「戻らなくていいんですか」
「いいんです」
「……自分を気持ち悪いと言った人のところに、戻る理由がありません」
「そうですね。僕もそう思います」
ジークフリートは私の隣に立って、巣箱の方を見た。蜂が穏やかに飛んでいる。午後の日差しの中で、金色の粒がきらきらと光る。
「ここの蜂は刺さないんですね」
「私の蜂ですから」
その言葉が、自然に口を衝いて出た。
「シュヴァルツ領の蜂」ではない。「私の蜂」。
ここが私の場所で、この子たちが私の蜂。そのことが、やっと胸の中で確かな形になった。
「ヒルデさん」
「はい?」
「蜂蜜と薬草の新しい組み合わせを思いついたんです。聞いてもらえますか?」
「もちろん」
ジークフリートは嬉しそうに早口で話し始めた。蜂蜜の抗菌作用とラベンダーの鎮静効果を組み合わせた塗り薬の構想。彼の目が輝いて、手振りが大きくなる。薬草の汁で緑に染まった指が宙を舞う。
私は微笑みながら聞いていた。この人の話を聞いているのが好きだった。蜂蜜の話になると少年のように夢中になる横顔が、好きだった。
不意に、ジークフリートが言葉を切った。
「あの……」
「はい?」
「その……蜂は、養蜂家の匂いで信頼を判断するんですよね」
「ええ」
「僕の匂いも、覚えてくれていますか」
「薬草園に毎日いらっしゃるんですから、もう覚えていると思いますよ」
「そうじゃなくて」
ジークフリートは眼鏡の奥で目を逸らした。耳が赤い。
「蜂じゃなくて——あなたに、覚えてもらえていますか」
——ああ。
蜂蜜色の夕日が、薬草園を染めていた。
蜂が二人の間を飛び交っている。刺さない。この人の匂いも、蜂はもう「安全」として覚えている。
「覚えていますよ。ジークフリートさん」
私は笑った。泣きそうになったのを堪えて、笑った。
「蜂蜜の味を『素晴らしい』と言ってくれた人のことを、忘れるわけがないじゃないですか」
ジークフリートが目を見開いた。そしてゆっくりと、薬草の匂いのする手を伸ばしてきた。
その指先に、蜂が一匹とまった。
「あ」
「ほら。この子も覚えていますよ」
蜂が触角でジークフリートの指を探っている。くるくると、私にするのと同じ仕草で。
ジークフリートが、泣きそうな顔で笑った。
「……光栄です」
後日談を少しだけ。
シュヴァルツ領は結局、冬を越すのに隣領から蜂蜜を高額で買い入れることになった。通常の五倍の価格。一年分の備蓄を一冬で消費する羽目になり、領地財政は大きく傾いた。
蝋燭が足りない夜は、領民が松明で凌いだ。領館で松明の煤が天井に染みをつけるたびに、アルノルトは苛立った。蜜蝋の蝋燭がどれほど清潔で、どれほど長く燃え、どれほど静かに灯っていたか——ようやく気づいたのだろう。でも、それは「失って初めて気づく価値」の典型だった。
王都から査察官が来た。封蝋なしで送られた報告書が問題になったのだ。行政の体裁すら保てない領地に、辺境伯の資格があるのか——そういう話になった。
アルノルトは弁明したらしい。「養蜂家が辞めただけだ」と。
査察官は訊いた。「なぜ辞めたのですか」
アルノルトは答えられなかった。「気持ち悪いから追い出した」とは、王都の役人に言えなかったのだ。
結局、アルノルトは責任を問われ、辺境伯の後継から外された。代わりに弟のヴィルヘルムが嫡男に繰り上がったが、養蜂場の再建には三年かかると見積もられている。
私の巡回記録帳は、結局誰にも読まれなかったらしい。
巣箱の横に置いたまま、雨に濡れて朽ちたと聞いた。
——まあ、そうだろうなと思った。
蜂の気持ちがわからない人に、蜂の記録が読めるはずもない。
「気持ち悪い」で目を背けた人に、五年分の愛情が見えるはずもない。
私は振り返らなかった。
リンデ薬草園の巣箱は三十を超えた。蜂蜜と薬草を組み合わせた新しい薬は、行商人を通じて大陸各地に届くようになった。
春になるたびに蜂群が増え、夏になるたびに蜂蜜が溢れ、秋には蜜蝋の蝋燭がリンデ領の夜を温かく照らした。
朝。巣箱の前に立つ。
蜂が飛び出してきて、私の指にとまる。
「おはよう。今日もご機嫌ね」
蜂が触角をゆらゆら揺らす。
後ろから、ジークフリートの足音が近づいてくる。朝の巡回記録を一緒につけるようになったのは、いつ頃からだっただろう。
「おはようございます。今日の女王蜂の状態は?」
「産卵ペース良好、体色も綺麗。エルダは優秀な女王ですね」
「……エルダって名前がついてるんですか」
「ええ。女王蜂には全員名前をつけます」
「全員⁉」
「三十群いますから、三十の名前がありますよ。覚えますか?」
「覚えます。全部覚えます」
ジークフリートが力強く頷いた。蜂蜜の話と同じくらい真剣な顔で。
私は笑った。今度は堪えずに、声を出して笑った。
蜂蜜色の朝日が、薬草園に降り注いでいた。
蜂が穏やかに飛んでいる。刺さない蜂たち。私を覚えている蜂たち。
あの蜂の谷から飛んできた子もいるだろう。百二十の巣箱を捨てて、私を探して飛んできた子が。
遠かったでしょう。疲れたでしょう。でも——ここにいるよ。
世界が、正しくなった音がした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「静かな離脱型」×「職業特化型」のザまぁです。主人公は復讐もしなければ声を荒げもしない。ただ去っただけ。そして蜂も去った。それだけで領地が崩壊する——これが「裏方の怖さ」です。
蜂群崩壊症候群(CCD)という現象が現実の養蜂にもあります。原因は農薬やダニや環境ストレスなど諸説ありますが、養蜂家の間では「蜂は養蜂家を選ぶ」と言われているそうです。穏やかに接すれば蜂は刺さないし、乱暴に扱えば群れごと逃げる。大切にしないものからは去っていく——蜂も人も同じなのかもしれません。
ヒルデがシュヴァルツ領に戻らなかったのは、怒りからではなく、もう「ここが自分の場所だ」と分かったからです。蜂がそれを教えてくれた。蜂蜜の味を「素晴らしい」と言ってくれる人がいる場所が、帰る場所なんだと。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
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・「お前の針仕事など誰でもできる」〜【裏方型+知略型】
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・「教育係など誰でもできる」〜【発覚型+数値可視化】
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・追放されたお茶係の令嬢ですが〜【知略型+独自設定】
→ https://ncode.syosetu.com/N3391LV/
・追放された宮廷花師が〜【実力証明型+スローライフ】
→ https://ncode.syosetu.com/N3394LV/
・「通訳など辞書で足りる」〜【職業特化型/通訳型】
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・「お前がいると息が詰まる」〜【静かな離脱型×裏方型】
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・「子守唄しか能がない女は要らぬ」〜【独自設定/睡眠管理型】
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・辺境の食堂が王都一番の行列店に〜【実力証明型/料理型】
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・「帳簿しか見えぬ女は要らぬ」〜【知略型×独自設定】
→ https://ncode.syosetu.com/N9406LV/
・四千三百八十回の夜を「余計なこと」と呼んだ王太子が〜【静かな離脱型×看護型】
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・「僕たちはフィオナ先生を選びます」〜【発覚型×保育型】
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・千八百グラムの命を救えたのは〜【実力証明型×NICU看護型】
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・王立学院の入試首席は、鬼ごっことお店屋さんごっこで育った〜【裏方型×知略型】
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・「お前のような愚鈍な女は要らない」〜【実力証明型】
→ https://ncode.syosetu.com/N7473LW/
・地図は嘘をつきません——落書きと呼ばれた測量師が〜【静かな離脱型×職業特化型】
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・「香水係など犬でもできる」〜【断罪型×独自設定】
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・「お前の演奏は雑音だ」〜【実力証明型×職業特化型】
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・「お前の仕事は終わった」と捨てられた令嬢〜【知略型×発覚型】
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・「お前の絵は壁の染みだ」〜【実力証明型×職業特化型】
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・「お前のためを思って言っている」が千回記された日記帳が〜【断罪型×独自設定】
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・「病弱な幼馴染を優先してください」と言った妻が消えた翌日〜【静かな離脱型×知略型】
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・「お母様のような完璧な妻になれない女は要らない」〜【断罪型×独自設定】
→ https://ncode.syosetu.com/N8162LY/
・「脇役のお前には用がない」と追い出された令嬢が〜【発覚型×乙女ゲーム型】
→ https://ncode.syosetu.com/N8234LY/
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