第1章 事故死と神の間
年末の夜は、いつも少しだけ騒がしい。
仕事納めの日、街は、どこか浮ついていて、必要以上に明るい。
ビルの外壁に取り付けられたイルミネーションが、無意味にきらきらと瞬いているのを、 陣内玲はぼんやりと眺めていた。
32歳。
中堅企業とはいえ、課長という肩書きを持つようになった。
まあまあの給料ももらっていて、
今みたいな年末とか以外はそんなに残業もなく、程よい仕事加減だ。
決して華やかな仕事ではない。
部下の尻拭いをし、上司の無茶を和らげ、数字を整え、誰もが納得する落としどころを探す。
表に立つことはない。
拍手を浴びることもない。
それでも、嫌いではなかった。
誰かが無理をしているのが見えれば、自然と手が伸びる。
衝突が起きそうなら、先回りして調整する。
それが自分の役割だと、いつの間にか思うようになっていた。
「課長、今日は本当にありがとうございました」
オフィスビルの出口で、若い部下が深く頭を下げた。
今年入ってきたばかりの新人で、要領は悪いが、真面目な男だ。
今日も、少しミスをした所をフォローした事を言っているのだろう。
「気にするな。無事に年を越せそうなら、それでいい」
そう言って、陣内は軽く手を振った。
自動ドアが閉まり、外の冷たい空気が肌に触れる。
吐く息が白くなり、年の瀬を実感させた。
(……今年も、なんとか終わったな)
特別な達成感はない。
だが、致命的な失敗もない。
それで十分だと、陣内は思っていた。
部下と共に一緒に道を歩く、
途中までは方向は一緒だ、何気ない会話をする。
おせちは予約したのか、お雑煮は何味か。
そんな正月が待ち遠しいかのような話だった。
その後、大きな横断歩道を渡る。
横断歩道の信号は青だった。
その瞬間――
耳を裂くような音が、街に響いた。
キィィィッ、という、金属が悲鳴を上げる音。
反射的に視線を向けると、交差点の向こうから、大型トラックが制御を失ったまま突っ込んでくるのが見えた。
信号は、完全に無視されている。
距離。
速度。
逃げ場。
陣内の頭は、驚くほど冷静だった。
(……間に合わない)
視界の端に、部下の姿が映る。
足が止まり、状況を理解できていない顔。
考えるより先に、身体が動いた。
「――危ない!」
陣内は部下の腕を掴み、力任せに後ろへ突き飛ばした。
次の瞬間、世界が歪む。
視界が回転し、音が遠ざかり、時間が引き延ばされたように感じた。
(ああ……)
妙な納得感が、胸に広がる。
(そうか。俺は――)
衝撃が来る直前、
陣内の脳裏に浮かんだのは、恐怖でも後悔でもなかった。
ただ、
部下が無事で立ち上がる光景だった。
それで、よかった。
強烈な衝撃とともに、意識は闇に沈んだ。
次に目を覚ましたとき、陣内は「音がない」ことに気づいた。
風も、重さも、痛みもない。
ただ、思考だけが、静かに存在している。
(……死んだ、のか)
自分でも驚くほど、冷静だった。
白でも黒でもない空間。
上下左右の感覚は曖昧で、足元すら存在しない。
それでも、恐怖は湧いてこなかった。
しばらくして、前方に“何か”が現れた。
人の形をしているようで、していない。
光と影が重なり合ったような、不思議な存在。
徐々に姿がはっきりして、美しい西洋風の男性の姿をとった。
衣装は昔宗教画で見たような白い布を纏っている。
綺麗な人だ・・・ぼんやりとそう思った。
その人は、穏やかな声で告げた。
「陣内玲。君は、死亡しました」
事実を述べるだけの言葉。
「……ですよね」
陣内は、小さく息を吐いた。
「だが、君の死は、本来の流れではなかった」
その言葉に、陣内は眉をひそめる。
「予定……外?」
「そうです。本来、君はまだ生きているはずだった」
胸の奥に、微かな違和感が生まれた。
「……じゃあ、俺は」
言葉を選びながら、陣内は続ける。
「ただの、手違いですか?」
存在は、すぐには答えなかった。
「世界には、歪みが生じることがある。君の死は、その結果だ」
納得できるようで、できない説明だった。
陣内は、しばらく黙り込んだ。
怒りはなかった。
だが、割り切れないものが、確かにあった。
真面目に働き、
誰かを守って死んだ。
それが、ただの「予定外」だと言われても。
「……それで?」
陣内は、静かに問い返した。
「俺は、どうなるんです」
存在は、ゆっくりと答える。
「補填を用意した」
その言葉とともに、空間がわずかに揺らぐ。
「君を、私の世界へ招待しよう」
「……世界?」
「異なる理を持つ世界だ。
名を――アルセリオン」
その名を聞いた瞬間、
陣内の意識に、見知らぬ景色が流れ込んできた。
石造りの街。
剣を携えた人々。
人ならざる存在と共に生きる世界。
「異世界……ですか」
呟くと、存在は肯定するように応じた。
「拒否することもできる」
その言葉に、陣内は少し考えた。
元の世界に戻れるわけではない。
死は、確定している。
ならば。
「……行きます」
即答だった。
「理由は?」
「もう一度、生きられるなら」
陣内は、静かに言った。
「今度は、少し違う景色を見てみたい」
英雄になりたいわけではない。
特別になりたいわけでもない。
ただ――
まだ、終わりにしたくなかった。




