7話『お母さん、と呼んだ声』
テレビの音だけが、やけに大きく聞こえる夜だった。
ニュース番組のキャスターが、明るい声でどうでもいい話題を読んでいる。
私はソファに座り、スマホを眺めながら、実家の空気に少しだけ気を抜いていた。
両親は仕事で遅くなると言っていた。
今日は私ひとりだ。
クライアントとの打ち合わせが長引いて、終電を逃した。
実家に泊まることにした。久しぶりだった。
一人暮らしを始めてから、もう三年になる。
足元で、カーバンクルが丸くなっている。淡い金色の毛が、テレビの光を反射してきらきら光る。
「クーン……」
小さく鳴いて、私の足に頭を擦りつけてくる。
「うん、お疲れさま」
撫でると、満足そうに喉を鳴らす。
そのとき。
カチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
反射的に顔を上げる。
同時に、廊下を小さな足音が駆け抜けた。
トン、トン、トン。
軽くて、勢いのある音。子どもの足音だ。
続いて、少し怒ったような男の子の声が響いた。
「お母さん!」
私は思わず立ち上がった。
「……え?」
帰ってきた?
いや、でも今日は遅くなるって言ってたし。
足音は廊下の途中で止まり、声は返事を待つように消えた。
私は玄関へ向かい、ドアノブに手をかける。
鍵は、かかっていた。
内側から。
ドアを開けても、そこには誰もいない。
靴も増えていないし、空気も動いていない。
数秒、そのまま固まってから、私はゆっくり息を吐いた。
「……あー」
嫌な沈黙。
頭の中で、冷静な自分が事実を並べ始める。
まず、私は一人っ子だ。
男の子の兄弟はいない。
そして今の声は、録音でも、テレビでもなかった。廊下を走る足音も、確かに聞こえた。
でも、誰もいない。
足元で、ふわりとした温もりが動いた。
「クーン……」
私の足に、赤い宝石みたいな額をこすりつけてくる、小さな生き物。
カーバンクルのクーンだ。
額の宝石が、いつもより少し暗い。
「うん、わかってる。大丈夫」
撫でると、クーンは少し安心したように喉を鳴らす。
見えたわけじゃない。
姿は、なかった。
でも、これは間違いなく"そっち側"。
私はソファに戻り、テレビの音量を少し下げた。
こういうのは、基本、関わらないに限る。
見えるだけで、何かを解決する義務なんてない。
そう思って、今日はもう寝ようとした――のに。
午後十一時。
その夜、同じことが、もう一度起きた。
カチャリ。
玄関の音。
トン、トン、トン。
走る足音。
そして、同じ声。
「お母さん! なんで返事しないんだよ!」
今度は、はっきりと怒っていた。
寂しさと、怒りが混じった声。
私は天井を仰ぎ、クーンを抱き上げる。
「……ねえ。これ、放置したら、長引くやつだよね」
「クーン」
肯定だった。
私は、小さくため息をついた。
翌朝、私は母に尋ねた。
「ねえ、この家って、昔誰か住んでた?」
母は、少し考えて答えた。
「ああ、そういえば。三十年くらい前かな。若い夫婦が住んでたって聞いたことある」
「子どもは?」
「いたらしいよ。男の子。でも……」
母は、少し言葉を濁した。
「何か、あったの?」
「詳しくは知らないけど、事故があったらしい。それで、引っ越しちゃったって」
私は、頷いた。
それ以上は聞かなかった。
次の日、私は近所の人に話を聞いた。
この地域に長く住んでいる、向かいの家のおばさん。
「ああ、あの家ね」
おばさんは、少し顔を曇らせた。
「若い夫婦が住んでたのよ。共働きで、夜遅くまで働いてた」
「お子さんは?」
「男の子が一人。小学生くらいだったかな。いい子だったのよ。でも、よく一人で留守番してた」
おばさんは、視線を落とした。
「ある夜ね、事故があったの。詳しいことは知らないけど……お母さんが帰ってきたときには、もう遅かったって」
私は、息を呑んだ。
「……そうなんですか」
「ええ。それで、その家族は引っ越しちゃったの。あの子、ずっとお母さんを待ってたらしいよ」
私は、その夜、玄関の前に立った。
クーンは私の肩に乗り、しっぽで首をくすぐる。
「クーン」
「大丈夫。……たぶん」
私は理解していた。
この怪異は、死んだ瞬間に留守番をしていた。
玄関の音を聞いて、「帰ってきた」と思った。
でも、誰も来なかった。
だから今も、"帰宅の音"と"走る足音"と"呼ぶ声"だけを繰り返している。
姿が見えないのは、本人が「まだ家にいる子ども」だと思っているから。
私は、わざとドアを開けた。
ゆっくりと。はっきり音が鳴るように。
カチャリ。
すぐに、あの足音がした。
トン、トン、トン。
途中で、止まる。
見えない気配が、そこにいるのがわかる。
私は、静かに言った。
「……おかえり」
少しの沈黙。
それから、小さな声。
「……お母さん?」
私は、頷いた。
「うん。遅くなってごめんね」
それだけだった。
足音は、それ以上進まなかった。
声も、もうしなかった。
代わりに、空気が少しだけ軽くなった。
クーンが、私の肩で小さく鳴く。
「クーン……」
優しい声だった。
次の朝、家はいつも通りだった。
テレビは静かで、玄関も、廊下も、ただの家のままだ。
私はコーヒーを飲みながら、クーンの背中を撫でる。
「成仏、とかじゃないんだよね」
「クーン」
「たぶんさ……帰ってきたんだよ。やっと」
クーンは満足そうに丸くなり、私の膝で動かなくなる。
私は小さく息を吐いて、独り言みたいに言った。
「……見えるって、案外忙しい」
クーンが、しっぽをぱたんと揺らした。
「クーン!」
撫でてほしい、という意味だとわかる。
「はいはい」
私は、その頭を撫でた。
宝石が、やさしく光る。
今日も、平常運転だ。
それから数日後、母から連絡があった。
「ねえ、最近家の雰囲気、変わった気がしない?」
「え?」
「なんていうか、明るくなったっていうか。前はちょっと重い感じがしてたのに」
私は、何も言わなかった。
ただ、小さく笑っただけだ。
「……気のせいじゃない?」
「そうかしら。でも、なんか嬉しいのよね」
母の声は、明るかった。
私は、実家を出る前に、もう一度玄関を見た。
そこには、何もない。
ただの、玄関。
でも、確かに誰かが、ちゃんと帰れた。
クーンが、鞄の中から顔を出す。
「クーン」
「うん、行こう」
私は、玄関を出た。
見えないものは、見えなくなることが一番の幸せなのかもしれない。
そう思いながら、私は静かに息を吐いた。
次は、現代の街で出会った、ありえない存在――宝石の獣の話です。
よろしければ、続きの目印にブックマーク、応援に☆をいただけると嬉しいです。




