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6話『庭で草むしりをする、おばあちゃん』

 

 その家の前を通るたび、私は足を止めてしまう。


 古い木造二階建て。

 壁は日に焼け、雨樋はところどころ歪んでいる。

 けれど、庭だけはいつも不思議なほど整っていた。


 雑草一本生えていない。

 花壇の縁はきっちり揃えられ、土は柔らかそうに耕されている。

 季節の花が、いつも絶妙なバランスで咲いている。


 そして今日も、いた。


 庭の中央で、小さな背中がしゃがみこんでいる。

 白い割烹着に、色あせた花柄のもんぺ。

 頭には手ぬぐいを三角に折って結び、軍手をはめた両手で、黙々と草を抜いていた。


 おばあちゃんだ。


 通りすがりの人は誰も気にしない。


「精が出ますねえ」

「暑いから、無理しないでくださいよ」


 そう声をかける人さえいる。

 おばあちゃんは、にこりと笑って会釈をする。

 その笑顔は、あまりにも普通で、あまりにも穏やか、だからこそ、私は胸の奥がきゅっと縮む。


 この人は、もう、いない。




 私がこの家の前を通るようになったのは、一ヶ月ほど前からだ。


 新しいクライアントの事務所が、この近くにある。

 週に二、三度、打ち合わせで通る道。


 最初は、何も気にしていなかった。

 ただの、庭いじりが好きなおばあちゃん。


 でも、三日目に気づいた。

 おばあちゃんは、いつも同じ時間に、同じ場所で、同じ作業をしている。


 午前十時。必ず庭に出てくる。

 まず、花壇の縁を確認し、雑草を抜き、土を耕す。

 それから、花に水をやり、最後に庭全体を見回す。

 一時間後、必ず家の中へ戻る。

 まるで、時計のように正確だった。




 五日目、私は近所の人に尋ねた。


「あの家のおばあちゃん、お元気ですね」


 相手は、不思議そうな顔をした。


「おばあちゃん? ああ、川村さんのお母さん?」

「はい」

「あの人、三年前に亡くなったよ」


 私は、息を呑んだ。


「……三年前?」

「そう。葬式の日も、庭だけは完璧だったって、みんな驚いてたよ。あの人、庭いじりが生きがいだったからね」


 相手は、少し寂しそうに笑った。


「今は娘さん夫婦が住んでるけど、忙しくて庭の手入れまで手が回らないみたい。でも不思議なことに、庭は全然荒れないんだよね」


 私は、何も言えなかった。




 その日から、私は毎日この家の前を通るようになった。

 おばあちゃんは、いつもそこにいる。

 午前十時。必ず庭に出てくる。

 草を抜き、土を耕し、花に水をやる。

 そして、家の中へ戻る。

 私の足元で、黄色い影がころりと転がった。


「クゥ」


 小さな声で鳴き、カーバンクルが庭を見つめている。宝石のような額が、淡く光った。


「……害は、ないよね」


 カーバンクルは、尻尾をぱたぱたと振る。

 このおばあちゃんからは、強い執着も、恨みも感じられない。

 ただ、ひどく穏やかで、やさしい気配だけがある。


 それでも、私は知っている。

 このまま放っておくわけには、いかない。




 ある日の夕方、私は家族が帰ってくるのを見た。

 娘夫婦と、小学生くらいの男の子。

 庭を見て、感心したように言う。


「今日もきれいだね」

「誰か手伝ってくれてるみたいだ」


 母親が首を傾げる。


「でも、誰も頼んでないのよね。不思議」


 男の子が庭を指差す。


「あれ、おばあちゃん?」


 一瞬、空気が止まった。

 次の瞬間、母親が笑って首を振る。


「何言ってるの。おばあちゃんはもう――」


 言葉は途中で途切れた。

 庭には、もう誰もいなかった。

 草むしりをしていたはずの場所に、ぽつんと、抜きたての雑草だけが積まれている。


「……見間違いよね」


 父親が、少し不安そうに庭を見る。


「でも、確かに誰かいたような……」

「気のせいよ。疲れてるんじゃない?」


 誰も、それ以上は言わなかった。

 でも、男の子だけは、じっと庭を見つめていた。




 その夜、私は庭の前に立っていた。

 月明かりの下で、土が淡く光っている。

 すると、ゆっくりと、あの背中が浮かび上がった。


「……こんばんは」


 声をかけると、おばあちゃんは驚いたように顔を上げた。

 皺だらけの顔が、少し困ったように緩む。


「あら……あんた、見えるのかい」

「はい」

「そうかい。じゃあ、仕方ないねえ」


 おばあちゃんは、腰を伸ばして立ち上がった。思っていたより、小さい。


「家族に、会いたいとか……そういうのじゃないですよね」


 私の問いに、おばあちゃんは首を振った。


「会えたら嬉しいけどねえ。でも、あの子たちは、もう前に進んでる。わたしが出ていく幕じゃない」


 そう言って、庭を見回す。


「ただね、この庭がね。放っとくと、すぐ荒れるでしょう」

「草は伸びるし、虫も出るし。花は、手をかけないとすぐ拗ねる」


 軍手を外し、手のひらを見つめる。その指先は、透けていた。


「生きてた頃と、同じことをしてるだけさ。朝起きて、庭に出て、草を抜いて……それだけ」


 私は、言葉を失った。

 未練でも、執念でもない。これは――習慣だ。




 私は、静かに尋ねた。


「でも、家族は気づき始めてます」


 おばあちゃんは、少し困ったように笑った。


「ああ、孫がね。あの子、わたしに似て、感が鋭いから」

「このままだと、家族が不安になります」

「……そうだねえ」


 おばあちゃんは、庭を見回した。


「でも、この庭を放っておけないんだよ。わたしが育てた花たちだから」


 私は、カーバンクルを抱き上げた。宝石が、淡く光る。


「でも、もう十分です」


 おばあちゃんは、少し驚いた顔をした。


「十分?」

「はい。もう、ちゃんと引き継がれてます」


 私は、昨日家族の会話を思い出した。


「庭を、業者に頼もうかと思って」

「お母さんが大切にしてた庭だから、荒らしたくないし」

「ちゃんと、プロに任せよう」


 おばあちゃんは、ふっと笑った。


「そうかい。じゃあ……わたしの役目も、終わりだねえ」


 名残惜しそうに、土を一撫でする。


「いい庭だったよ」




 その身体が、月明かりに溶けるように薄れていく。

 私は、思わず声をかけた。


「おばあちゃん、あなたは何を守ってたんですか」


 おばあちゃんは、少し考えて、それから優しく笑った。


「守ってた? そんな大層なもんじゃないよ」

「じゃあ、何を?」

「……日常かねえ」


 おばあちゃんは、庭を見回した。


「朝起きて、庭に出て、花に水をやる。それが、わたしの日常だった」

「家族も、孫も、みんな忙しい。でも、この庭だけは、わたしのものだった」


 その声は、どこか誇らしげだった。


「だから、守ってたんじゃない。ただ、続けてただけ」


 最後に、私の方を見て、にこりと笑った。


「ありがとうね。声、かけてくれて」


 そして、おばあちゃんは消えた。




 翌日、庭は業者の手で見事に整えられた。

 以前よりも、少しだけ現代的で、でも不思議と冷たくはない。

 花壇には新しい花が植えられ、土は丁寧に耕されている。

 家族は満足そうだった。


「やっぱり、プロは違うね」

「お母さんも、喜んでくれるかな」


 男の子が、庭を見つめている。


「……うん、喜んでると思う」

 そう言って、小さく笑った。





 私は、庭の前で立ち止まる。

 カーバンクルが、土の上にころんと寝転がる。


「クゥ」


 その声は、どこか安心しきっていた。


 草一本ない庭を見て、私は思う。

 怪異は、必ずしも何かを奪う存在じゃない。

 時には、ただ守っているだけのこともある。

 いや、守っているというより、続けているだけなのかもしれない。


 生きていた頃の、当たり前の日常を。

 役目を終え、静かに去る。


 それもまた、やさしさなのだと。




 風が吹き、庭の土の匂いがふわりと立ち上った。

 それは、どこか懐かしく、あたたかい匂いだった。

 カーバンクルが、満足そうに喉を鳴らす。


「クーン」

「うん、ここはもう大丈夫だね」


 私は、静かに歩き出した。

 見えないものが、見えなくなること。


 それは、悲しいことじゃない。

 ただ、役目を終えたということ。


 そう思いながら、私は空を見上げた。

 青空が、どこまでも広がっていた。


 この庭は、これからも続いていく。


 おばあちゃんがいなくても。


 それが、一番の供養なのかもしれない。

 私は、そう思いながら、静かに息を吐いた。



 次は、お母さんに会いに家に帰ってくる男の子の話です。

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