5話『同じ道を、何度も渡る青年』
その男は、何度も道路を渡っていた。
同じ横断歩道を。
同じタイミングで。
同じ歩幅で。
信号は、ちゃんと青になる。
それでも、渡って、戻って、また渡る。
最初に気づいたのは、先週の月曜日だった。
朝、駅へ向かう途中。
横断歩道の前で信号待ちをしていると、目の前を若い男性が通り過ぎた。
スーツ姿。
二十代後半くらい。
肩に少し力が入っている。
彼は横断歩道を渡りきり、そして引き返してきた。
また信号を待ち、青になると、再び渡る。
でも、途中で立ち止まる。
そして、戻る。
それを、三回繰り返したところで、私は気づいた。
誰も、彼を避けていない。
誰も、彼を見ていない。
今日も、彼はそこにいた。
「……また、いるね」
足元で「クーン」と鳴く。
カーバンクルは、いつもより静かだった。額の宝石は、強くも弱くもなく、淡く光っている。
「危険じゃない?」
「クーン……」
少し、迷う鳴き方。
私は、横断歩道の手前で立ち止まった。
男は、スマートフォンを握りしめている。画面は見ていない。ただ、握りしめているだけだ。
信号を見て、歩き出して、途中で立ち止まる。そして、引き返す。
何度も、何度も。
私は、この光景に見覚えがあった。
ここで、事故があった。
数年前。
ニュースにもならなかった、小さな事故。
でも、確かに誰かが亡くなった。
私は、図書館で過去の記事を調べた。
三年前。この横断歩道で、歩行者がはねられた。
被害者は、「佐々木健太(28)」。会社員。
記事には、詳細が少ない。
「信号待ちをしていた際、突然道路に飛び出し、車にはねられた」
目撃者の証言では、「スマホを見ていた」「何かに気を取られていた様子」とある。
運転手に過失はなし。不運な事故として処理された。
でも、記事の隅に、小さく追加情報があった。
「被害者は事故直前、何度も横断歩道を行き来していたとの証言あり」
私は、記事を閉じた。
彼は、迷っていたのだ。
何かを、選べなかったのだ。
翌日、私は横断歩道の前で男に声をかけた。
「……何を、迷ってるんですか」
男の足が、止まった。
初めて、彼がこちらを見た。
驚いた顔。それから、困ったような笑み。
「……見えるんですか」
私は頷いた。
男は、深く息を吐いた。
「僕は、ここで死にました」
淡々とした口調だった。
「でも、それが正しかったのか、わからないんです」
私は眉をひそめた。
「正しい?」
「ええ。もし、あのとき違う選択をしていたら……」
男は、横断歩道の向こう側を見た。
「会社に行かなければ。遅刻してでも、別の道を選んでいれば」
彼の声は、震えていた。
「もっと言えば、あの会社に就職しなければ。あの大学に行かなければ。あの高校を選ばなければ」
私は、言葉に詰まった。
彼は、選択を後悔している。
でも、その後悔は、どこまで遡ればいいのかわからない。
カーバンクルが、男に近づいた。
宝石が、淡く光る。
男は、カーバンクルを見下ろした。
「……可愛い」
そう言って、撫でようとする。
でも、手は触れない。すり抜ける。
男は、悲しそうに笑った。
「僕、もう何にも触れられないんです」
私は、静かに言った。
「でも、選ぶことはできる」
男は、顔を上げた。
「選ぶ?」
「前に進むか、ここに留まるか」
私は、横断歩道の向こう側を指さした。
「あなたは、何度も渡ろうとしてる。でも、途中で戻ってしまう」
男は、横断歩道を見た。
「……怖いんです。渡った先に、何があるのか」
「わからない」
私は正直に答えた。
「でも、ここに留まっても、何も変わらない」
信号が、青になった。
男は、一歩踏み出す。
でも、すぐに止まる。
「……やっぱり、無理です」
彼は、引き返そうとする。
その瞬間、カーバンクルが鳴いた。
「クーン!」
いつもより強い声だった。
男は、びくりと肩を震わせた。
カーバンクルは、横断歩道の真ん中まで歩いていき、男を振り返る。
「クーン……」
優しい声。
男は、カーバンクルを見つめた。
「……行けって、言ってるんですか」
カーバンクルは、もう一度鳴いた。
男は、深く息を吸った。
それから、一歩、また一歩と、歩き出す。
途中で、何度も立ち止まりそうになる。
でも、カーバンクルが先を歩いている。
男は、それを追うように、歩き続ける。
渡りきった。
男は、道路の向こう側で振り返る。
その瞬間、空気が、すっと軽くなった。
「……ありがとう」
その姿は、もう、少し薄い。
私は、横断歩道を渡り、彼の前に立った。
「選ばなかった道が、間違いだったわけじゃない」
男は、静かに私を見た。
「あなたは、そのときできる選択をしただけ」
私は、続けた。
「もし、違う選択をしていたら、別の後悔が生まれていたかもしれない」
男は、少し考えて、それから頷いた。
「……そうかもしれませんね」
「大事なのは、選んだ道を、後悔し続けることじゃない」
私は、彼の目を見た。
「それでも前に進むって、決めることだと思う」
男は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……あなた、何者ですか」
「ただの、デザイナーです」
男は、本当に笑った。
「そうですか。じゃあ、最後に一つ、お願いしてもいいですか」
「何ですか」
「僕の代わりに、前を向いてください」
私は、頷いた。
「わかりました」
男は、満足そうに微笑んだ。
次の瞬間、信号が赤になる。
青になる。
横断歩道には、誰もいない。
私は、しばらくその場に立っていた。
カーバンクルが、膝に前足を乗せる。
「クーン」
「……うん、お疲れさま」
私は、カーバンクルの頭を撫でた。
宝石が、やさしく光る。
人生は、何度も渡り直せない。
でも、立ち止まって、考えることはできる。
そして、前を選ぶことも。
私は、歩き出した。
横断歩道を渡る。迷わず。
足元で、カーバンクルが小さく鳴いた。
それは、送り出す声だった。
それから数日後、私はこの横断歩道を通りかかった。
いつもの朝。いつもの時間。
でも、もう誰もいない。
ただの、横断歩道。
私は、信号を待ちながら、ふと思った。
あの男は、どこへ行ったのだろう。
答えは、わからない。
でも、確かに彼は、前に進んだ。
それだけで、十分だった。
信号が、青になる。
私は、迷わず渡る。
カーバンクルが、満足そうに尻尾を振る。
「クーン!」
「うん、今日も頑張ろう」
私は、空を見上げた。
青空が、どこまでも広がっていた。
見えないものが、見えなくなること。
それは、悲しいことじゃない。
ただ、役目を終えたということ。
そう思いながら、私は静かに息を吐いた。
前に進むって、きっとこういうことだ。
迷いながらも、一歩ずつ。
私は、また歩き出した。
次は、亡くなったはずなのに、毎日庭の草むしりをしているおばあちゃんの話です。
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