表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

4話『塀の上で笑う、人と猫のあいだのもの』

 

 その彼女は、通行人の頭に飛び乗った。


 朝、駅へ向かう途中。いつもの通勤路。私は目の前の光景に、思わず足を止めた。


 人間と猫の中間のような姿をした彼女が、スーツ姿の男性の肩から頭へと、軽やかに飛び移っている。


 男性は、何も気づいていない。

 当然だ。誰にも、見えていないのだから。

 彼女は、そのまま男性の頭の上で体勢を整えると、くるりと振り返って私に手を振った。


「おはよう、見える子!」


 明るい声。満面の笑み。

 しっぽが、楽しそうにゆらゆら揺れている。


 次の瞬間、男性が急に立ち止まった。


「……あれ、靴紐?」


 男性は、ほどけた靴紐に気づき、しゃがみこんで結び直す。


 彼女は、その隙に塀の上へと飛び移った。

 道路沿いの、古いコンクリート塀。

 高さは大人の胸ほど。表面は風化して、所々ひび割れている。

 彼女は、肘をついて塀にもたれ、私に向かってウインクした。


「ほら、転ばなかったでしょ?」


 私は、深呼吸をした。

 また、この道だ。




 通勤路として人通りはそれなりに多い。朝は駅へ向かう人、夕方は帰路につく人。


 そして、その塀の上に、いつもこの彼女がいる。

 人間と猫の中間のような姿。しなやかな体つき。

 良くあるファンタジー世界の猫獣人、それも猫よりのリアルな姿だ。

 雌だ。間違いなく。


 そして、とても楽しそうだ。


「……今日も元気だね」


 私は小さく呟いた。

 彼女は、私の存在に改めて気づくと、ぱっと顔を輝かせた。


「ええ! 今日も見える子が来た!」


 声は軽く、楽しげだ。まるで友達を見つけた子どものよう。


 足元で「クーン!」と鳴く。

 カーバンクルは、尻尾をぶんぶん振っている。

 警戒ゼロ。むしろ、仲間を見る目だ。


「知り合い?」


 私が訊くと、彼女は塀の上でくるりと回転した。


「ええ! この子、いい匂いするのよ! 魔力の匂い!」


 カーバンクルは誇らしげに胸を張る。

 私は苦笑しながら、彼女をもう一度見た。

 彼女は害がない。カーバンクルの反応が、それを証明している。


 でも、この道の評判は最近、妙に悪かった。




 ――転ぶ人が多い。

 ――傘が壊れる。

 ――スマホを落とす。


 大事故はないが、小さな不運がやたら続く。


「この道、通らないほうがいいよ」


 そんな噂まで立っていた。

 実際、私も何度か目撃している。


 歩いていた人が、急に足を止める。何かにつまずいたように見えるが、地面には何もない。

 傘を差していた人が、突風に煽られて傘が裏返る。でも、風は吹いていない。

 スマホを見ながら歩いていた人が、手を滑らせて落としそうになる。


 そのたびに、塀の上の彼女が、くすくすと笑っている。


 私は、不安になっていた。

 彼女は本当に、ただ遊んでいるだけなのだろうか?




 ある朝、私は彼女に声をかけた。


「ねえ、あなた、何してるの?」


 彼女は、きょとんとした顔で私を見た。


「何って……遊んでるのよ!」

「遊び?」

「そう! 楽しいでしょ?」


 そう言って、彼女は塀の上から下を覗き込み、歩く人の足元に、ひょい、と何かを投げた。

 もちろん、私には見えない。


 次の瞬間、その人は足を止めた。


「……あ、靴紐ほどけてた」


 結び直して、また歩き出す。

 彼女は、満足そうに頷いた。


「ほら、気づいたでしょ?」


 私は眉をひそめた。


「……今の、わざと?」


 彼女は楽しそうに笑った。


「当たり前じゃない! ほどけたまま歩いたら、転んじゃうでしょ?」


 私は、言葉に詰まった。

 彼女の言い分は、わかる。


 でも、見えない人にとっては、ただの不運でしかない。




 それから数日間、私は彼女を観察した。

 カーバンクルを連れて、朝と夕方、この道を通る。

 彼女は、毎日同じことをしている。


 でも、よく見ると気づく。


 傘を壊された人は、その直後、強風が吹いてきた。もし傘を差したままだったら、突風で飛ばされていたかもしれない。

 スマホを落としそうになった人は、その直後、自転車が猛スピードで通り過ぎた。

 スマホを見たまま歩いていたら、ぶつかっていたかもしれない。

 転びそうになった人は、その先に段差があった。気づかず歩いていたら、本当に転んでいたかもしれない。


 ああ。


 私は、ようやく気づいた。


 彼女は、悪意の塊ではない。むしろ逆だ。

 過剰なくらい、面倒見がいい。


 転びそうな人を止めている。スマホを落としそうな人の歩調を乱している。事故が起きる直前で、流れを変えている。


「……守ってるんだ」


 彼女は、ぴたりと動きを止めた。

 それから、少しだけ困ったように笑う。


「だって、また起きるでしょ?」


 その声は、急に静かだった。


「ここで、大きな事故が」


 胸の奥が、冷えた。





 私は、この道のことを調べた。

 図書館で過去の新聞記事を漁る。カーバンクルは鞄の中でじっとしている。


 五年前。この道の塀の向こう側で、大きな事故があった。

 建設現場での崩落。古いビルの解体作業中、支柱が倒れた。

 亡くなったのは、歩道を通っていた通行人二名と、作業員三名。

 記事には、作業員の名前が載っていた。


 その中に、彼女性が一人。


「田村麻衣(27)」


 私は、記事を読み進めた。

 事故の原因は、安全確認の不備。

 崩落の予兆はあった。


 でも、誰も気づかなかった。

 田村麻衣は、崩落の直前に異変に気づき、通行人に声をかけようとした。


 でも、間に合わなかった。

 記事には、こう書かれていた。


「田村さんは『危ない!』と叫んだが、通行人はイヤホンをしており、気づかなかった」


 私は、記事を閉じた。

 胸が、痛い。





 その夜、私は塀の前に立った。

 彼女は、いつもの場所にいる。


 でも、今日は楽しそうじゃない。

 塀の上に座り、足をぶらぶらさせているだけだ。


「……田村さん」


 彼女は、びくりと肩を震わせた。

 ゆっくりとこちらを見る。


「私ね、間に合わなかったの」


 軽い口調。

 でも、しっぽの先が揺れている。


「声、出したの。でも、届かなかった。みんな、イヤホンしてたり、スマホ見てたり」


 彼女は、塀の向こう側を見た。


「だから今度は、間に合わせてるの」


 彼女の声は、震えていた。


「立ち止まらせるの。気づかせるの。そうすれば、今度は間に合う」


 私は、息を整えて言った。


「でも、あなたのせいで不運な道って噂になってる」

「えっ」


 彼女は目を丸くした。


「それ、困るわね!」


 彼女は本気で驚いていた。


「私、守ってるつもりだったのに!」

「見えない人には、ただの不運にしか見えないんだよ」


 彼女は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。


「……そっか。そうだよね」





 カーバンクルが、彼女のほうに近づき、鼻先をそっと触れさせた。


 宝石が、淡く光る。

 彼女は一瞬、驚いた顔をして、それから優しく目を細めた。


「……あったかい」


 次の瞬間、彼女は塀から軽やかに飛び降りた。


「じゃあ、ちょっとやり方変える!」


 私は首を傾げた。


「やり方?」

「そう! もっと、こう……目立たない感じで!」


 そう言って、彼女はくるりと回転し、猫のような姿に変わった。

 完全な猫ではない。でも、人間でもない。

 どこか中間の、曖昧な存在。


「これなら、猫がいるだけって思うでしょ?」


 そう言って、彼女は笑った。




 翌日から、噂は消えた。

 誰も転ばない。誰も物を落とさない。

 ただ、危ない瞬間そのものが、なぜか起きない。

 代わりに、道を渡る猫が一匹、時々見かけられるようになった。


「あれ、野良猫かな」

「可愛いよね」


 そんな声が聞こえる。

 彼女は、塀の上にいなくなった。


 でも、確かにそこにいる。

 私にだけ、見える。

 彼女は、猫の姿で塀を歩き、通行人の足元を確認している。

 段差の前で立ち止まり、鳴く。

 自転車が来る前に、道を横切る。

 そのたびに、人の流れが変わる。


 でも、誰も不運だとは思わない。

 ただ、「猫がいた」と思うだけだ。




 数週間後の夕暮れ時。

 私はその道で足を止めた。

 どこからともなく、声がする。


「見える子!」


 振り向くと、塀の影に、彼女がいた。

 前より、少し薄い。

 輪郭が、ぼんやりしている。


「ありがとうね」


 そう言って、彼女は笑った。

 私は、首を振った。


「私、何もしてないよ」

「ううん、してくれた。私、気づいてなかったもの」


 彼女は、塀の上に座った。


「守るって、見えなくていいんだね」


 私は、静かに頷いた。


「うん。むしろ、見えないほうがいいのかも」


 彼女は、優しく微笑んだ。


「そっか。じゃあ、私、もうちょっと頑張る」


 次の瞬間、風に溶けるように消えた。

 カーバンクルが、静かに鳴く。


「クーン……」

「うん」


 守るって、派手じゃなくて、誰にも気づかれないことが多い。


 



 それから数日後、私はこの道を通りながら、ふと気づいた。


 この道、人が増えている。


「最近、この道安全だよね」

「そうそう、前は何か不運続きだったのに」


 そんな声が聞こえる。

 私は、小さく笑った。

 塀の影に、猫の姿が見える。


 でも、もう誰も気づかない。

 ただの、野良猫。


 私はまた歩き出す。

 この道は、もう"不運な道"じゃない。

 ただの、帰り道だ。


 カーバンクルが、満足そうに尻尾を振る。


「クーン!」

「うん、今日もお疲れさま」


 私は、夕焼けの中を歩き続けた。

 見えないものが、見えなくなること。

 それが、一番の幸せなのかもしれない。

 そう思いながら、私は静かに息を吐いた。



 次は、同じ交差点を、何度も何度も渡り続ける青年の話です。

 よろしければ、続きの目印にブックマーク、応援に☆をいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ