4話『塀の上で笑う、人と猫のあいだのもの』
その彼女は、通行人の頭に飛び乗った。
朝、駅へ向かう途中。いつもの通勤路。私は目の前の光景に、思わず足を止めた。
人間と猫の中間のような姿をした彼女が、スーツ姿の男性の肩から頭へと、軽やかに飛び移っている。
男性は、何も気づいていない。
当然だ。誰にも、見えていないのだから。
彼女は、そのまま男性の頭の上で体勢を整えると、くるりと振り返って私に手を振った。
「おはよう、見える子!」
明るい声。満面の笑み。
しっぽが、楽しそうにゆらゆら揺れている。
次の瞬間、男性が急に立ち止まった。
「……あれ、靴紐?」
男性は、ほどけた靴紐に気づき、しゃがみこんで結び直す。
彼女は、その隙に塀の上へと飛び移った。
道路沿いの、古いコンクリート塀。
高さは大人の胸ほど。表面は風化して、所々ひび割れている。
彼女は、肘をついて塀にもたれ、私に向かってウインクした。
「ほら、転ばなかったでしょ?」
私は、深呼吸をした。
また、この道だ。
通勤路として人通りはそれなりに多い。朝は駅へ向かう人、夕方は帰路につく人。
そして、その塀の上に、いつもこの彼女がいる。
人間と猫の中間のような姿。しなやかな体つき。
良くあるファンタジー世界の猫獣人、それも猫よりのリアルな姿だ。
雌だ。間違いなく。
そして、とても楽しそうだ。
「……今日も元気だね」
私は小さく呟いた。
彼女は、私の存在に改めて気づくと、ぱっと顔を輝かせた。
「ええ! 今日も見える子が来た!」
声は軽く、楽しげだ。まるで友達を見つけた子どものよう。
足元で「クーン!」と鳴く。
カーバンクルは、尻尾をぶんぶん振っている。
警戒ゼロ。むしろ、仲間を見る目だ。
「知り合い?」
私が訊くと、彼女は塀の上でくるりと回転した。
「ええ! この子、いい匂いするのよ! 魔力の匂い!」
カーバンクルは誇らしげに胸を張る。
私は苦笑しながら、彼女をもう一度見た。
彼女は害がない。カーバンクルの反応が、それを証明している。
でも、この道の評判は最近、妙に悪かった。
――転ぶ人が多い。
――傘が壊れる。
――スマホを落とす。
大事故はないが、小さな不運がやたら続く。
「この道、通らないほうがいいよ」
そんな噂まで立っていた。
実際、私も何度か目撃している。
歩いていた人が、急に足を止める。何かにつまずいたように見えるが、地面には何もない。
傘を差していた人が、突風に煽られて傘が裏返る。でも、風は吹いていない。
スマホを見ながら歩いていた人が、手を滑らせて落としそうになる。
そのたびに、塀の上の彼女が、くすくすと笑っている。
私は、不安になっていた。
彼女は本当に、ただ遊んでいるだけなのだろうか?
ある朝、私は彼女に声をかけた。
「ねえ、あなた、何してるの?」
彼女は、きょとんとした顔で私を見た。
「何って……遊んでるのよ!」
「遊び?」
「そう! 楽しいでしょ?」
そう言って、彼女は塀の上から下を覗き込み、歩く人の足元に、ひょい、と何かを投げた。
もちろん、私には見えない。
次の瞬間、その人は足を止めた。
「……あ、靴紐ほどけてた」
結び直して、また歩き出す。
彼女は、満足そうに頷いた。
「ほら、気づいたでしょ?」
私は眉をひそめた。
「……今の、わざと?」
彼女は楽しそうに笑った。
「当たり前じゃない! ほどけたまま歩いたら、転んじゃうでしょ?」
私は、言葉に詰まった。
彼女の言い分は、わかる。
でも、見えない人にとっては、ただの不運でしかない。
それから数日間、私は彼女を観察した。
カーバンクルを連れて、朝と夕方、この道を通る。
彼女は、毎日同じことをしている。
でも、よく見ると気づく。
傘を壊された人は、その直後、強風が吹いてきた。もし傘を差したままだったら、突風で飛ばされていたかもしれない。
スマホを落としそうになった人は、その直後、自転車が猛スピードで通り過ぎた。
スマホを見たまま歩いていたら、ぶつかっていたかもしれない。
転びそうになった人は、その先に段差があった。気づかず歩いていたら、本当に転んでいたかもしれない。
ああ。
私は、ようやく気づいた。
彼女は、悪意の塊ではない。むしろ逆だ。
過剰なくらい、面倒見がいい。
転びそうな人を止めている。スマホを落としそうな人の歩調を乱している。事故が起きる直前で、流れを変えている。
「……守ってるんだ」
彼女は、ぴたりと動きを止めた。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「だって、また起きるでしょ?」
その声は、急に静かだった。
「ここで、大きな事故が」
胸の奥が、冷えた。
私は、この道のことを調べた。
図書館で過去の新聞記事を漁る。カーバンクルは鞄の中でじっとしている。
五年前。この道の塀の向こう側で、大きな事故があった。
建設現場での崩落。古いビルの解体作業中、支柱が倒れた。
亡くなったのは、歩道を通っていた通行人二名と、作業員三名。
記事には、作業員の名前が載っていた。
その中に、彼女性が一人。
「田村麻衣(27)」
私は、記事を読み進めた。
事故の原因は、安全確認の不備。
崩落の予兆はあった。
でも、誰も気づかなかった。
田村麻衣は、崩落の直前に異変に気づき、通行人に声をかけようとした。
でも、間に合わなかった。
記事には、こう書かれていた。
「田村さんは『危ない!』と叫んだが、通行人はイヤホンをしており、気づかなかった」
私は、記事を閉じた。
胸が、痛い。
その夜、私は塀の前に立った。
彼女は、いつもの場所にいる。
でも、今日は楽しそうじゃない。
塀の上に座り、足をぶらぶらさせているだけだ。
「……田村さん」
彼女は、びくりと肩を震わせた。
ゆっくりとこちらを見る。
「私ね、間に合わなかったの」
軽い口調。
でも、しっぽの先が揺れている。
「声、出したの。でも、届かなかった。みんな、イヤホンしてたり、スマホ見てたり」
彼女は、塀の向こう側を見た。
「だから今度は、間に合わせてるの」
彼女の声は、震えていた。
「立ち止まらせるの。気づかせるの。そうすれば、今度は間に合う」
私は、息を整えて言った。
「でも、あなたのせいで不運な道って噂になってる」
「えっ」
彼女は目を丸くした。
「それ、困るわね!」
彼女は本気で驚いていた。
「私、守ってるつもりだったのに!」
「見えない人には、ただの不運にしか見えないんだよ」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……そっか。そうだよね」
カーバンクルが、彼女のほうに近づき、鼻先をそっと触れさせた。
宝石が、淡く光る。
彼女は一瞬、驚いた顔をして、それから優しく目を細めた。
「……あったかい」
次の瞬間、彼女は塀から軽やかに飛び降りた。
「じゃあ、ちょっとやり方変える!」
私は首を傾げた。
「やり方?」
「そう! もっと、こう……目立たない感じで!」
そう言って、彼女はくるりと回転し、猫のような姿に変わった。
完全な猫ではない。でも、人間でもない。
どこか中間の、曖昧な存在。
「これなら、猫がいるだけって思うでしょ?」
そう言って、彼女は笑った。
翌日から、噂は消えた。
誰も転ばない。誰も物を落とさない。
ただ、危ない瞬間そのものが、なぜか起きない。
代わりに、道を渡る猫が一匹、時々見かけられるようになった。
「あれ、野良猫かな」
「可愛いよね」
そんな声が聞こえる。
彼女は、塀の上にいなくなった。
でも、確かにそこにいる。
私にだけ、見える。
彼女は、猫の姿で塀を歩き、通行人の足元を確認している。
段差の前で立ち止まり、鳴く。
自転車が来る前に、道を横切る。
そのたびに、人の流れが変わる。
でも、誰も不運だとは思わない。
ただ、「猫がいた」と思うだけだ。
数週間後の夕暮れ時。
私はその道で足を止めた。
どこからともなく、声がする。
「見える子!」
振り向くと、塀の影に、彼女がいた。
前より、少し薄い。
輪郭が、ぼんやりしている。
「ありがとうね」
そう言って、彼女は笑った。
私は、首を振った。
「私、何もしてないよ」
「ううん、してくれた。私、気づいてなかったもの」
彼女は、塀の上に座った。
「守るって、見えなくていいんだね」
私は、静かに頷いた。
「うん。むしろ、見えないほうがいいのかも」
彼女は、優しく微笑んだ。
「そっか。じゃあ、私、もうちょっと頑張る」
次の瞬間、風に溶けるように消えた。
カーバンクルが、静かに鳴く。
「クーン……」
「うん」
守るって、派手じゃなくて、誰にも気づかれないことが多い。
それから数日後、私はこの道を通りながら、ふと気づいた。
この道、人が増えている。
「最近、この道安全だよね」
「そうそう、前は何か不運続きだったのに」
そんな声が聞こえる。
私は、小さく笑った。
塀の影に、猫の姿が見える。
でも、もう誰も気づかない。
ただの、野良猫。
私はまた歩き出す。
この道は、もう"不運な道"じゃない。
ただの、帰り道だ。
カーバンクルが、満足そうに尻尾を振る。
「クーン!」
「うん、今日もお疲れさま」
私は、夕焼けの中を歩き続けた。
見えないものが、見えなくなること。
それが、一番の幸せなのかもしれない。
そう思いながら、私は静かに息を吐いた。
次は、同じ交差点を、何度も何度も渡り続ける青年の話です。
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