3話『存在しないコピー機を使い続ける男』
会社の廊下で、コピー機の音がする。
――ガシャン、ウィーン、カチッ。
私は足を止めた。
このフロアに、コピー機はない。
正確に言えば、もう、ない。
一年前、レイアウト変更のときに撤去されたはずだった。
新しいコピー機は三階に集約された。
ここは四階。誰も使わないフロアだ。
「……やっぱり、聞こえる」
足元で「クーン」と小さく鳴く。
カーバンクルは、耳をぴんと立てて、廊下の奥を見ている。
そこには、若い男性が立っていた。
スーツ姿。少しよれたネクタイ。目の下に、くっきりとした隈。
彼は、何もない壁に向かって、必死な手つきで見えていないコピーを取っている。
用紙を揃え、ホチキスで留め、小走りで戻っていく。
戻る先も、ない。
机のあったはずの場所に座り、見えないキーボードを叩き、また立ち上がって、コピーをしに行く。
それを、何度も、何度も。
私は立ち止まったまま、彼の動きを観察した。
規則正しい。まるで機械のように、同じ動作を繰り返している。
でも、よく見ると違う。
彼の表情には、焦りがある。
時計を何度も見る仕草。
資料を確認するときの、わずかな眉間のしわ。
この人は、急いでいる。
「……忙しそうだね」
返事はない。
私は、外注デザイナーとしてこの会社に出入りしている。
社員ではないから、気楽な立場のはずだった。
なのに最近、社内の空気が妙に重い。
データが消える。完成したはずの資料が、提出直前に差し替わる。
誰もやっていないはずの修正が入る。
「誰かが、勝手に触ってるんじゃない?」
そんな疑いが、あちこちで漏れ始めていた。
セキュリティは確認済み。ログにも異常はない。
でも、確かに何かが起きている。
私は総務の田中さんに、さりげなく尋ねた。
「このフロア、前はもっと人いましたよね?」
「ああ、そうそう。一年前まではね。今は倉庫代わりだけど」
「レイアウト変更、何かあったんですか?」
田中さんは、少し言葉を濁した。
「……まあ、色々あってね。社員が一人、亡くなったんだ」
私は息を呑んだ。
「過労死、だったんですか?」
「公式にはそうは言ってないけどね。でも、まあ……そういうことだ」
田中さんは、視線を落とした。
「真面目な子だったよ。いつも最後まで残って、資料作ってた。コピー機の前で倒れてるのを、朝一番に来た掃除のおばさんが見つけたんだ」
私は、廊下の奥を見た。
彼は、今日もそこでコピーを取っている。
その夜、私は一人で残業していた。
廊下は静かだ。でも、コピーの音だけが響いている。
カーバンクルは、私の足元でじっとしている。宝石が、淡く、一定のリズムで光っている。
「……悪意、じゃないよね」
「クーン」
優しい肯定だった。
私は立ち上がり、彼の机があった場所に向かった。
今はそこに机はない。ただの空間だ。
でも、彼にとっては、そこに確かに机がある。
私は、その前に立った。
「……まだ、終わってないんですか」
初めて、彼の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。疲れきった、けれど真面目な目。
彼は、ぽつりと呟いた。
「締切……明日なんです」
声は、かすれていた。
私は、胸が詰まった。
ああ、この人は。
彼は、ここで倒れた。
過労死。
「不幸な事故」として処理された。
でも、彼にとっては、まだ終わっていない。
仕事が、残っている。
私は、彼の名前を思い出そうとした。
以前、打ち合わせで何度か顔を合わせた。いつも資料を完璧に揃えていた人。
名札そうだ、名札に書いてあった。
「加藤」
私は、社内のデータベースを検索した。
加藤。在籍期間、三年。
最後に担当していたプロジェクトは。
画面に、未完成のデザイン案が表示された。
企業向けパンフレット。
クライアントは大手メーカー。
でも、このデータは「保留」のまま、一年前から放置されている。
私は、ファイルを開いた。
レイアウトは八割方完成している。
でも、細部が詰められていない。色校正が済んでいない。
そして、最後のページに、メモが残っていた。
「明日までに校正原稿3部、クライアント提出用1部、社内確認用2部」
私は、画面を凝視した。
これだ。
彼が、コピーを取り続けている理由。
私は、ノートパソコンを彼の机があった場所に持っていった。
「……あなたの最後の仕事、これですよね」
彼は、驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷いた。
私は、データを開いた。
「私が、仕上げます」
彼は、何も言わなかった。
ただ、じっと画面を見つめている。
私は、一晩かけて、それを仕上げた。
彼の癖。配色の好み。余白の取り方。フォントの選び方。
全部、覚えていた。
何度も打ち合わせで見てきた彼の資料。几帳面で、読みやすく、それでいて洗練されていた。
私は、その空気感を再現しようとした。
カーバンクルは、私の膝の上で丸くなり、静かに見守っていた。
午前三時を回ったころ、色校正が終わった。
印刷プレビューを確認する。
完璧だ。
私は、データを保存し、社内の共有フォルダに置いた。
それから、プリンターで三部印刷した。
廊下に出ると、彼がそこに立っていた。
コピー機の前ではない。
私の横に。
彼は、印刷された資料を見つめている。
私は、それを彼の前に差し出した。
「……これで、終わりですよね」
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
でも、触れることはできない。
彼の指が、紙をすり抜ける。
それでも、彼は満足そうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
声は、今度ははっきりと聞こえた。
次の瞬間。
コピーの音が、止んだ。
廊下は、静寂に包まれた。
彼の姿が、薄くなっていく。
私は、思わず声をかけた。
「……お疲れさまでした」
彼は、もう一度だけ頷いて、消えた。
翌朝、私が出社すると、総務の田中さんが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「おい、これ見たか?」
彼が見せたのは、私が昨夜仕上げたデザイン案だった。
「これ、加藤くんが最後にやってた仕事なんだよ。クライアントが『当時のデータ、残ってないか』って問い合わせてきてさ」
「そうなんですか」
「それが昨夜、急に共有フォルダに現れたんだ。しかも完成版で」
田中さんは、不思議そうに首を傾げた。
「誰がやったんだろうな。ログにも記録がないんだ」
私は、何も言わなかった。
ただ、小さく笑っただけだ。
数日後。
会社に、新しいコピー機が届いた。
「やっと来たね」
誰かが言う。
「これで四階にもコピー機復活だ」
私は、その言葉に、少しだけ笑った。
カーバンクルは、コピー機の横で尻尾を振る。
「クーン!」
「うん、今度はちゃんと、あるやつ」
私は、その頭を撫でた。
見えない仕事は、誰にも評価されないことが多い。
それでも、終わらせなきゃいけない仕事が、確かにある。
廊下は、もう静かだ。
コピーの音は、もう聞こえない。
それが、少しだけ寂しくて、でも、正しい気がした。
その日の夕方、私は四階の廊下を通った。
新しいコピー機が、そこにある。
誰かが使っている。普通の、日常の風景。
私は、ふと立ち止まった。
彼がいた場所を、もう一度見る。
そこには、何もない。
でも、確かに彼は、そこで最後まで働いていた。
誰にも見えなくても。
誰にも評価されなくても。
カーバンクルが、私の足元で鳴く。
「クーン……」
「……うん、ちゃんと終わったね」
私は、静かに歩き出した。
見えないものは、見えない理由がある。
でも、見えるからこそ、できることもある。
私はそう思いながら、夕日の差し込む廊下を歩いた。
次は、道沿いの塀の上で、楽しそうに人にちょっかいを出す“人と猫のあいだのもの”の話です。
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