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2話『電信柱にもたれる、作業着の人』

 

 その男は、毎朝同じ時刻に同じ場所で、壊れたスマホを見つめ続けている。


 午前七時二十分。


 駅へ向かう近道の途中にある電信柱。作業着姿の男が、ヘルメットを脇に抱え、片手にスマートフォンを持って立っている。


 画面を覗き込む角度。指の動き。呼吸のリズム。

 すべてが、生きている人間と同じだ。


 でも、誰も彼を見ない。

 誰も、避けない。

 理由は簡単だ。


 誰にも、見えていない。


 私だけが、毎朝この男とすれ違う。

 最初は気づかなかった。ただの通行人だと思っていた。


 でも三日目、彼が全く同じ場所に立っていることに気づいた。

 四日目、同じ姿勢で同じものを見ていることに気づいた。

 五日目、誰も彼を避けて歩いていないことに気づいた。

 そして六日目。

 私は、彼の足元に気づいた。


 影が、ない。


「……ああ」


 小さく呟いた瞬間、足元で「クーン」と鳴き声がした。

 カーバンクルが、私の靴に鼻先を押しつける。額の赤い宝石は、いつもより少しだけ暗い。


「ここ、重いよね」

「クーン……」


 肯定だ。

 私は、この道を避けることもできた。

 でも、なぜかそうしなかった。

 この男は、こちらを見ない。目線は、いつもスマートフォンに落ちている。


 それが、逆に気になった。




 男を見かけるようになって、五日目。


 私は会社帰りに、いつもと違う時間にその道を通った。

 午後八時。

 夜にしては早い時間だ。


 男は、いた。

 同じ場所。同じ姿勢。


 でも、朝とは何かが違う。

 作業着は汚れも破れもない。ヘルメットは真新しく、まるで倉庫から出してきたばかりのようだ。


 それなのに靴だけが、片方だけ汚れている。

 泥ではない。黒ずんだ、もっと別の何か。


 私は足を止め、じっと観察した。


 男の表情は、焦っているようにも見える。

 何かを送ろうとしているのに、送れない。そんな苛立ちが滲んでいる。


 スマートフォンの画面が見えない。


 男の指は動いているのに、画面の光が弱い。暗すぎる。まるで電源が切れかかっているように。


 カーバンクルが、私の足を引っ張った。


「クーン……」


 いつもより低い声だ。


「わかってる。すぐ行く」


 私はその場を離れた。でも、胸の奥に引っかかりが残った。





 翌日、会社で昼休みにスマホを開くと、地元ニュースに小さな記事が載っていた。


「ひき逃げ事件、被害者いまだ行方不明」


 夜間。住宅街。防犯カメラに決定的な映像なし。目撃者もなし。

 事故現場の地図を見た瞬間、私は指を止めた。


「……ここだ」


 あの、電信柱の場所。

 記事には詳細が少ない。被害者の名前も年齢も伏せられている。

 ただ、「軽微な接触事故と思われるが、被害者がその後行方不明」とだけ書かれていた。


 軽微な接触事故。


 それなら、なぜ行方不明になる?

 私は記事を何度も読み返した。


 事故発生時刻は、午後十時三十分。

 場所は、まさにあの電信柱の前。


 被害者は四十代男性。

 建設作業員。

 仕事帰りだったという。


 カーバンクルが、膝の上で落ち着きなく尻尾を振る。


「やっぱり、関係あるよね」

「クーン」


 低い声だった。

 私はさらに記事を探した。


 事故後、現場には血痕があった。

 でも大量ではない。被害者は自力で移動したと思われる警察はそう判断した。


 でも、それから二週間。

 被害者は見つかっていない。




 その夜、私はいつもより遅い時間に、あの道を通った。

 午後十時を回っている。

 男は、変わらずそこにいた。

 作業着。ヘルメット。スマートフォン。

 事故に遭ったようには、とても見えない。


 でも、近づくとわかる。

 彼の靴が、片方だけ汚れている。

 作業着の袖口が、わずかに擦れている。


 そしてスマートフォンの画面が、ひび割れている。

 私は、電信柱から少し離れた場所に立った。


「……何、見てるんですか」


 返事はない。

 でも、彼のスマートフォンの画面が、ちらりと見えた。

 ひび割れの向こうに、入力途中のメッセージ。


 『今日、早く帰れそう』


 送信されていない。

 その瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 ――ああ。


 私は、わかってしまった。


 彼は、ここで事故に遭った。大した傷じゃなかった。自分でも、そう思った。


 だから、立ち上がろうとした。連絡しようとした。

 でも、誰も止まらなかった。誰も、見なかった。





 私は翌日、図書館へ向かった。

 地元の新聞のバックナンバーを調べるためだ。

 カーバンクルは鞄の中でじっとしている。図書館の静けさに、彼も緊張しているようだ。


 事故があったのは、二週間前。

 その日の地方版を開くと、小さな記事があった。


「深夜、住宅街で接触事故か 被害者不明」


 続報はない。

 警察は「軽微な事故」と判断したらしい。

 現場に血痕はあったが、大量ではなかった。

 被害者は自力で移動したと思われる。


 でも、それならなぜ連絡がない?

 なぜ、病院に行かない?


 私はさらに調べた。


 事故現場周辺の防犯カメラ映像は、すべて確認済み。でも、決定的な証拠はなし。

 車は映っていたが、ナンバーが不鮮明。被害者の姿も、途中で途切れている。


 まるで、消えたように。

 記事の隅に、小さく追加情報があった。


「被害者の携帯電話は事故現場付近で発見。画面破損」


 私は息を呑んだ。

 あのスマホは、実在していた。

 そして今も、彼はそれを握りしめている。




 その夜、私は再び電信柱へ向かった。

 男は、いつも通りそこにいた。

 私は深呼吸をして、声をかけた。


「……事故に遭ったんですよね」


 男の指が、止まった。

 ほんの一瞬だが、確かに反応があった。


「誰かに、連絡したかったんですよね」


 男のスマートフォンが、かすかに光る。

 画面には、やはり同じメッセージ。


 『今日、早く帰れそう』


 でも、その下に気づいた。

 宛先の名前。


「美咲」


 おそらく、家族だ。


「……軽い事故だったから、自分で大丈夫だと思ったんですね」


 男は何も言わない。


 でも、私にはわかる。

 彼は、自分で歩けた。だから、大丈夫だと思った。

 スマホは壊れたけど、メッセージを送ろうとした。

 でも、送信できなかった。


 そして気づいたときには、もう遅かった。

 頭を打っていた。内出血していた。


 意識が遠のいていくのを、彼は感じていたはずだ。




 私はカーバンクルを抱き上げた。

 宝石が、いつもより強く光る。


「あなたは、悪くない」


 男の肩が、わずかに震えた気がした。


「誰も止まらなかったのは、事実です。でも、それはあなたのせいじゃない」


 カーバンクルが、小さく鳴く。


「クーン……」

「もう、送らなくていいですよ」


 私は、静かに続けた。


「きっと、伝わってます。あなたが帰りたかったこと。早く帰ろうとしてたこと」


 男の指が、スマートフォンから離れた。

 ほんの一瞬、こちらを見た気がした。

 その目には、何も映っていない。


 ただ、諦めたような、安堵したような、そんな色だけがあった。




 翌朝、私がニュースを見ると、新しい続報が出ていた。


「ひき逃げ事件に進展 ドライブレコーダー提出」


 事故を起こした車の持ち主が、ようやく名乗り出たという。


「大したことじゃないと思った」

「でも、ずっと気になっていた」


 警察は映像を解析し、被害者の行方を追っている。

 記事の最後に、こう書かれていた。


「被害者は事故後、近くの公園で倒れているのが発見された。死因は頭部打撲による脳内出血。事故直後は意識があったと思われる」


 公園。

 私は地図を開いた。

 あの電信柱から、歩いて五分の場所。

 彼は、そこまで歩いた。

 メッセージを送ろうとしながら。

 帰ろうとしながら。




 その日の夕方、私は再び電信柱の前を通った。


 男は、いなかった。

 代わりに、電信柱の根元に花が一輪置かれている。

 白い菊だった。

 私は足を止め、しゃがみこんだ。

 カーバンクルが、静かに鳴く。


「クーン」

「……ちゃんと、帰れたかな」


 返事はない。

 でも、胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなった。


 電信柱の横を通り過ぎるとき、私は空を見上げた。

 夕焼けが、やけにきれいだった。




 それから数日後、近所のスーパーで買い物をしていると、見知らぬ女性が電信柱の前で立ち止まっているのが見えた。


 三十代くらい。手には花束。

 彼女は、電信柱に手を当てて、何かを呟いている。

 私は、遠くからその姿を見ていた。


 おそらく、彼女が「美咲」なのだろう。

 妻か、恋人か、それとも妹か。

 わからないし、知る必要もない。

 ただ、彼女が泣いていないことだけが、少しだけ救いだった。

 彼女は花を置き、電信柱に額を当てた。


 それから、ゆっくりと立ち上がり、深呼吸をして歩き出した。

 その背中は、まっすぐだった。




 帰り道、カーバンクルが私の腕に飛びつき、当然のように甘えてくる。


「はいはい、今日もお疲れさま」


 そう言って撫でると、宝石がやさしく光った。

 見えないものは、自分の最後を、ちゃんと覚えている。

 だからこそ、置いていけない言葉があるのだ。

 送れなかったメッセージ。

 帰れなかった場所。

 伝えたかった、ただ一言。


 この道は、もう重くない。

 それだけで、十分だった。


 カーバンクルが、満足そうに喉を鳴らす。

 私は小さく笑って、夕焼けの中を歩き続けた。

 誰にも言わない。


 でも、確かに誰かが、ちゃんと帰れた。


 私はそう思いながら、静かに息を吐いた。

 空は、どこまでも広かった。



 次は、存在しないはずのコピー機を、今日も使い続ける男の話です。

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