1話『玄関に座る、黄色い人形』
玄関の前に、黄色い服を着た人形が座っていた。
通りすがりの誰もが見て見ぬふりをするのに、私だけは目を逸らせなかった。
だって、その人形は「待っている」顔をしていたから。
玄関を開けた瞬間、私は「ああ、今日は帰るのが遅すぎた」と思った。
終電一つ手前。頭は重く、目の奥がじんじんと痛む。
デザイナーという仕事は、好きだが体には優しくない。クライアントの修正依頼が三度も重なって、結局デスクを離れたのは日付が変わる直前だった。
靴を脱ごうとして、動きが止まった。
――玄関に、誰かいる。
正確には「誰か」ではない。
黄色い服を着た腹話術人形が、玄関の内側に背を預けるようにして座っていた。
半ズボン。白い靴下。丸い目はガラスのように光っていて、口元は妙に人懐っこい笑みを浮かべている。
でも、その笑みには温度がない。
「……」
私は深呼吸を一つした。
大丈夫。
驚かない。
叫ばない。
これは、いつものことだ。
私には、他の人には見えない「何か」が見える。
子どもの頃からだ。
電信柱に寄りかかる人。誰もいない廊下でコピーを取る若い男。草むしりをしている、もう亡くなったはずのおばあちゃん。
見えるけれど、触れない。話しかけられないことのほうが多い。
そしてたいていは、こちらに害をなさない。
だから私は、関わらない。
それが一番、平和だから。
昔、一度だけ話したことがある。
中学生のとき、仲の良かった友達に「教室の隅に誰かいる」と言った。
彼女は笑った。
「何それ、怖い話?」
違う。
本当に見えているのだ。
そう言いかけて、飲み込んだ。
次の日から、彼女は私を避けるようになった。
それ以来、私は誰にも言わなくなった。
見えても、黙っている。関わらない。ただ通り過ぎる。
それが一番、傷つかない方法だから。
人形は、私を見上げていた。
いや、違う。見上げているのではない。
玄関の外を、じっと見つめている。
何も言わない。ただ、待っているように見える。
「……どいてくれる?」
言葉に意味はないとわかっていても、口から出る。
人形は動かない。
仕方なく、私は靴を脱ぎ、そっと人形を避けるようにして中へ入った。
人形の横を通るとき、ひんやりとした空気が足首を撫でる。
やっぱり、いる。
リビングに入った瞬間、足元で「クーン」と小さな声がした。
「……あ」
淡い金色の、ふわふわした塊が私の足に頭を擦りつけてくる。
カーバンクルだ。
犬と猫を足して割ったような、小さな聖獣。耳は少し長く、額には赤い宝石が埋まっている。
拾ったというより、向こうから来た存在。
それ以来、ずっとそばにいる。
「ただいま」
私は自然に言って、しゃがみこみ、その頭を撫でた。
宝石が淡く光る。頭痛が、すっと引いていく。
カーバンクルは満足そうに喉を鳴らし、私の膝に前足を乗せた。
「今日も玄関にいる?」
問いかけると、カーバンクルは「クーン……」と低く鳴いた。
肯定だ。
彼は、人形のほうをちらりと見て、鼻を鳴らす。警戒ではない。どちらかというと、困っている匂いを感じ取ったような顔だ。
「害はない?」
「クーン」
即答だった。
私は小さく息を吐いた。
それなら、今夜も放っておこう。
その夜、人形は玄関に座ったままだった。
朝になっても、夕方になっても。
そして三日目の夜、奇妙なことが起きた。
近所で「空き巣未遂」が続いたのだ。
被害はゼロ。侵入された形跡はあるが、何も盗まれていない。
犯人は捕まらない。防犯カメラには、誰も映っていない。
ニュースサイトで見かけた記事を読みながら、私は眉を寄せた。
全部、このアパートの周辺だ。
しかも、侵入された部屋には共通点がある。
玄関が古い。オートロックなし。単身者向け。
つまり、私の部屋と同じ条件だ。
記事をスクロールしていくと、警察のコメントが目に入った。
「現場に侵入の痕跡はあるが、室内を物色した形跡がない。何かに驚いて逃げたと思われる」
何かに驚いて?
私はスマホを置き、玄関へ向かった。
人形は、今夜もそこにいる。
カーバンクルも後ろからついてくる。玄関の近くまで来ると、くんくんと匂いを嗅ぎ、それから私を見上げて首を傾げた。
「行くな、って顔してる」
「クーン!」
少し強めに鳴いた。
「でもさ……」
私は玄関に座り込み、人形と視線を合わせる。人形は、やはり私を見ていない。玄関の外を見ている。
待っているのだ。誰かを。
その瞬間、違和感が胸に落ちた。
「……侵入者を、待ってる?」
いや、違う。
もし侵入者を待っているなら、人形は玄関の外に立っているはずだ。でもこの人形は、玄関の内側に座っている。背中を玄関に預けて。
まるで守っているように。
カーバンクルの宝石が、淡く光る。
私は立ち上がり、スマホで過去の記事を調べた。
この部屋、前に住んでいた人。
検索結果に、小さな地方紙のアーカイブが引っかかった。
五年前。事故死した子どもが一人。夜、留守番中だった。
記事には詳細は書かれていないが、状況から察するに、鍵をかけ忘れていたのかもしれない。
侵入者がいたのか、それとも本当に事故だったのかは、わからない。
ただ一つ、確かなのは。
この子は、誰かを待っていた。
帰ってくるはずの誰かを。
私はもう一度、人形を見た。
人形の視線は、玄関の外、廊下を向いている。
待っているのではない。
見張っているのだ。
帰ってくる人が、安全に帰れるように。
翌日、私は管理会社に電話をかけた。
「すみません、この部屋の前の住人について、少し教えていただけますか?」
電話口の女性は少し戸惑った様子だったが、やがて答えた。
「……事故があった部屋ですね。お子さんが一人、夜に亡くなられて」
「その子、誰かを待っていたんですか?」
「お母さんです。仕事で遅くなるって連絡があって、でも……間に合わなかったそうです」
私は息を呑んだ。
「その後、このアパート周辺で不審者が出たことは?」
「ええ、実は当時も空き巣未遂が何度かあって。でも被害は出なかったんです。不思議なことに、犯人は『子どもの声がした』って逃げたらしくて」
私は電話を切り、玄関へ向かった。
人形は、今日もそこにいる。
でも今は、その意味がわかる。
この子は、待っているのではない。
守っているのだ。
帰ってくる人を。そして、今はもういない誰かの代わりに、この場所に住む人を。
私は玄関の電灯を消した。
暗がりの中で、人形の黄色だけが浮かび上がる。
カーバンクルは私の足元に座り、静かに人形を見ている。
「もう、大丈夫だよ」
私は玄関の床に手をつき、低く声を出す。
「誰も、悪い人は来ない。ちゃんと、守れてる」
人形が、初めて瞬きをした気がした。
いや、違う。光が揺れただけだ。
でも、確かに何かが変わった。
空気が、少しだけ軽くなった。
「あなたはずっと、一人で頑張ってたんだね」
私の声は、誰にも聞こえない。
でも、言わずにはいられなかった。
こんなふうに声をかけることは、今までなかった。
見えても、関わらない。それがルールだった。
でも今は、違う。
カーバンクルが膝に前足を乗せ、小さく鳴く。
「クーン……」
私はその頭を撫でた。
翌朝、ニュースが流れた。
空き巣犯が捕まったという。
犯人は供述した。
「子どもの声がした」
「玄関で、誰かに見られてる気がした」
「何度も侵入しようとしたが、その部屋だけはどうしても入れなかった」
侵入しようとした部屋は複数あったが、どれも「何かがいる」と感じて逃げたという。
防犯カメラには何も映っていなかったが、犯人は確かに「何か」を感じていた。
私はスマホを置き、玄関へ向かった。
人形は、もういなかった。
ただ、少しだけ空気が、軽い。
カーバンクルは私の足元にまとわりつき、満足そうに鳴く。
「……あんた、最初からわかってたでしょ」
「クーン」
肯定。
私は苦笑して、その頭を撫でた。
見えないものは、嘘をつかない。ただ、伝え方が不器用なだけだ。
玄関を出る前、私は一度だけ振り返った。
そこには、何もない。
でも確かに、誰かが、ちゃんと帰れた気がした。
それから数日後、私は近所のコンビニで偶然、大家さんに会った。
「ああ、ちょうどよかった。あの部屋、前の住人のこと聞いてる?」
「少しだけ」
「そう……実はね、あの子のお母さん、ずっと罪悪感を抱えててさ。仕事で遅くなって、それで……」
大家さんは言葉を濁した。
「でも最近、やっと笑えるようになったって。『もう大丈夫』って思えたらしい。不思議なもんだね、時間って」
私は頷いた。
時間、ではないかもしれない。
でも、それでいい。
これは、私だけが知っていればいい。
誰にも話さない。信じてもらえないから。
でも、それでいい。
帰り道、カーバンクルが鞄の中から顔を出して、小さく鳴いた。
「クーン」
「……うん、お疲れさま」
私は空を見上げた。
夜はまだ明けていないが、少しだけ、星が見えた。
次は、電信柱にもたれ、ずっと何かを待っている作業着の人の話です。
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