第9話 時を超える一瞬
深夜の封印の森は、いつもと違う緊張感に包まれていた。月明かりが木々の間から差し込み、祭壇の前に集まった一行の顔を照らしている。リーナ、レオン、エミリア、そしてヴァル。北の古代遺跡へ向かう準備は整っていた。
「時間がない」
ヴァルの声は掠れていた。カウント「2」の紋章が、胸元でかすかに光っている。昨日よりもさらに顔色が悪く、立っているのがやっとという様子だった。
「先生、本当に大丈夫ですか?」
リーナが心配そうに聞いた。肩にはルミエールが止まり、不安そうに小さく鳴いている。
「問題ない。それより、移動の準備だ」
メルヴィン学院長も合流していた。手には古い地図を持っている。
「北の遺跡までは、通常なら馬車で半日かかる。しかし、今はそんな時間はない」
「だからこそ、時空魔法を使う」
ヴァルが言った。そして、リーナの方を向く。
「最後のレッスンだ。時空魔法の基礎を教える」
リーナは頷いた。ヴァル先生の最後の教え。それを無駄にはできない。
「時空魔法の本質は、空間を折りたたむことだ」
ヴァルは手を前に出した。すると、空気が歪み始める。まるで水面に石を投げた時のような波紋が、空中に広がっていく。
「最短距離は直線ではない。空間そのものを曲げれば、離れた二点を隣接させることができる」
ヴァルの手の前に、小さな穴が開いた。その向こうに、別の場所の景色が見える。森の出口だ。本来なら歩いて十分はかかる距離が、手を伸ばせば届く場所にある。
「これが瞬間移動の原理だ。ただし...」
ヴァルは穴を閉じた。額に汗が浮かんでいる。たったこれだけの魔法でも、今の彼には大きな負担だった。
「魔力消費が激しい。距離が長くなればなるほど、必要な魔力は幾何級数的に増える。初心者は一メートルから始めるのが普通だ」
「でも、今はそんな悠長なことは...」
レオンが言いかけたが、ヴァルが手で制した。
「基礎を飛ばせば、空間の狭間に飲み込まれる。最悪、二度と戻って来られない」
その言葉に、全員が息を呑んだ。時空魔法の危険性を改めて認識する。
「リーナ、まずは一メートルから始めろ」
リーナは深呼吸をして、意識を集中させた。空間を折りたたむイメージ。紙を折るように、空間を曲げる。目の前の空気が、少しずつ歪み始めた。
「そうだ。焦るな。ゆっくりと、確実に」
ヴァルの指導を受けながら、リーナは慎重に魔力を制御する。やがて、小さな穴が開いた。向こう側に、一メートル先の地面が見える。
「できた...!」
「よし、通ってみろ」
リーナは恐る恐る穴に手を入れた。すると、本当に一メートル先に手が出てきた。まるで魔法のようだった。いや、これは魔法なのだ。
「次は五メートルだ」
段階的に距離を伸ばしていく。五メートル、十メートル...リーナの額に汗が浮かび始めた。魔力の消耗が激しい。視界の端に、例の粒子ノイズが現れ始めた。過負荷のサインだ。
「もう限界です...」
「いや、まだいける」
ヴァルはリーナの肩に手を置いた。すると、温かい魔力が流れ込んでくる。ヴァルが自分の魔力を分けてくれているのだ。
「先生、それは...」
「俺の魔力は、もう長くは持たない。使えるうちに使う」
その言葉に、リーナは涙が溢れそうになった。でも、今は泣いている場合じゃない。先生の魔力を無駄にはできない。
「もう一度、挑戦します」
リーナは再び意識を集中させた。今度は、もっと大きな穴を開ける。向こう側に、二十メートル先の木が見える。
「すごいぞ、リーナ」
レオンが感心したように言った。初めて時空魔法を使って、ここまでできるとは。
「でも、北の遺跡まではまだまだ遠い」
エミリアが心配そうに言った。確かに、このペースでは遺跡に着くまでに魔力が尽きてしまう。
「だから、転送陣を使う」
メルヴィンが言った。そして、地面に複雑な魔法陣を描き始める。
「これは古代の転送術だ。複数人で魔力を合わせれば、長距離移動も可能になる」
全員で魔法陣の中に立つ。メルヴィンが詠唱を始めると、陣が青白く光り始めた。
「目的地は北の古代遺跡。座標は...」
メルヴィンが地図を確認しながら、正確な座標を唱える。魔法陣の光がさらに強くなり、全員の身体が浮き上がった。
次の瞬間、景色が変わった。
目の前に、巨大な石造りの建造物がそびえ立っていた。古代遺跡だ。千年以上前に作られたとは思えないほど、保存状態が良い。まるで時間が止まっているかのようだった。
「ここが...」
リーナは息を呑んだ。遺跡全体から、強大な魔力を感じる。それも、ただの魔力ではない。古代の、原初的な力だ。
「気をつけろ」
ヴァルが警告した。
「古代の防衛機構がまだ生きている。下手に触れれば...」
その時、遺跡の入口が音を立てて開いた。まるで、訪問者を待っていたかのように。
「罠か?」
レオンが警戒しながら言った。炎の魔法をいつでも使えるように構える。
「いや、違う」
ヴァルは遺跡を見つめていた。その金色の瞳に、複雑な感情が宿っている。
「これは...歓迎だ。千年ぶりの訪問者を、遺跡が歓迎している」
一行は慎重に遺跡の中へと入っていった。内部は外観以上に広大だった。高い天井、巨大な柱、そして壁一面に刻まれた古代文字。全てが、かつての栄華を物語っている。
「結界が張られている」
エミリアが言った。彼女の感知魔法が、空間に張り巡らされた見えない壁を捉えていた。
「しかも、多層構造だ。これを突破するのは...」
「任せて」
リーナが前に出た。そして、ルミエールに意識を向ける。
「ルミエール、結界の弱点を見つけて」
「ピィ!」
小さな精霊は飛び立ち、結界の周りを旋回し始めた。その光が結界に触れる度に、微かな反応が返ってくる。
「あそこ!」
ルミエールが一点で止まった。結界の継ぎ目、最も脆弱な部分を見つけたのだ。
「よくやった、ルミエール」
リーナは精霊を褒めてから、その場所に向かって魔法を放つ。今まで習った全ての魔法を組み合わせる。火、水、風、土。四つの元素が融合し、一点に集中する。
結界にヒビが入り、やがて砕け散った。
「見事だ」
ヴァルが小さく微笑んだ。わずか九日間で、ここまで成長するとは。
結界を突破した先には、長い廊下が続いていた。両側の壁には、さらに詳細な文字が刻まれている。メルヴィンが興奮したように近づいた。
「これは...千年前の記録だ。魔王戦争の真実が...」
しかし、読み進めるうちに、メルヴィンの顔が青ざめていく。
「どうしたんですか?」
エミリアが心配そうに聞いた。
「ここに...呪いの詳細が書かれている」
全員がメルヴィンの周りに集まった。壁には、古代文字でこう刻まれていた。
『神々の呪いは、宇宙の理に刻まれし定め。これを解く術は存在せず。呪われし者は、定められた時に必ず消滅する』
「そんな...」
リーナの顔から血の気が引いた。呪いは解けない。それが、古代の賢者たちの結論だった。
「待て、続きがある」
レオンが別の部分を指差した。
『ただし、継承の儀式により、呪いを他者に移すことは可能。譲渡者の全て、力、記憶、そして運命を、継承者が引き継ぐ』
さらに詳細な説明が続いていた。儀式の手順、必要な条件、そして...
「代償...」
ヴァルが呟いた。
「継承者は、譲渡者と同じ運命を辿る。つまり、いずれは同じように消滅する」
重い沈黙が流れた。結局、誰かが犠牲になることに変わりはない。
「でも...」
リーナが口を開いた。
「それでも、方法があるなら...」
「ダメだ」
ヴァルがきっぱりと言った。
「君の未来を奪うわけにはいかない」
「でも、先生が消えてしまうなんて...」
その時、さらに奥から声が聞こえた。
「おお、ついに来たか」
振り返ると、そこには半透明の老人が立っていた。幽霊のような、しかし確かな存在感を持った姿。
「あなたは...」
「我が名はアルトゥール。かつて、この遺跡の管理者だった者だ」
第七封印主・賢者アルトゥール。南の封印に刻まれていた名前と同じだった。
「千年前、私はヴァルハートの呪いを解く方法を探していた」
アルトゥールの幽体が、ヴァルを見つめた。
「君は立派に戦った。人類のために。それなのに、恐れられ、呪われた」
「過去の話だ」
ヴァルは静かに答えた。
「いや、過去ではない。その呪いは、今も君を蝕んでいる」
アルトゥールは続けた。
「完全な解呪は不可能だ。神々の力には、我々では対抗できない。しかし...」
老賢者の目が、リーナを見つめた。
「この娘の中に、可能性を感じる」
「どういうことですか?」
リーナが聞いた。
「君の魔力は特別だ。深く、広大で、そして...純粋だ。もしかすると、継承の儀式を行っても、通常とは違う結果になるかもしれない」
「それは希望的観測に過ぎない」
ヴァルが反論した。
「確証はない。リーナを危険に晒すわけには...」
その時、遺跡全体が揺れた。
「何だ!?」
レオンが叫んだ。
外から、巨大な魔力を感じる。それも、敵意に満ちた魔力だ。
「神殿の追手か...」
メルヴィンが苦い顔をした。
「もう見つかったのか」
「時間がない」
ヴァルは決断を下した。
「今すぐここを出る。リーナ、瞬間移動の準備を」
「でも、私はまだ...」
「できる。君ならできる」
ヴァルはリーナの両肩を掴んだ。その目には、絶対的な信頼が宿っていた。
「五十メートル先の森まで、全員を連れて跳べ」
「そんな...無理です!」
「無理じゃない。君には、それだけの力がある」
外からの圧力がさらに強まる。神殿の魔導師たちが、結界を破ろうとしているのだ。
「リーナ、お前ならできる」
レオンも励ました。
「私たちも魔力を貸すから」
エミリアが手を差し出した。
全員がリーナの周りに集まり、手を繋いだ。みんなの魔力が、リーナに流れ込んでくる。温かい、優しい力。仲間の力。
「みんな...」
リーナは目を閉じた。五十メートル先の森をイメージする。木々の配置、地面の感触、風の流れ。全てを鮮明に思い描く。
空間を折りたたむ。大きく、大きく。五人全員が通れるほどの穴を開ける。
魔力が急速に消耗していく。頭が割れそうに痛い。でも、止めない。みんなを守るために。ヴァル先生を守るために。
「今だ!」
ヴァルの合図で、全員が穴に飛び込んだ。
一瞬、時間が止まったような感覚。そして次の瞬間、森の中に立っていた。
「やった...」
リーナは膝から崩れ落ちた。全身から力が抜けて、立っていることもできない。でも、成功した。五十メートルの瞬間移動に成功したのだ。
「よくやった、リーナ」
ヴァルが優しく頭を撫でた。その手が、微かに震えているのが分かった。
遠くで、遺跡が光った。神殿の者たちが到着したのだろう。でも、もう関係ない。必要な情報は得られた。
「継承の儀式...」
リーナは呟いた。
「私、やります」
「リーナ...」
「先生を失うよりはマシです」
リーナの決意は固かった。ヴァルは何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
夜が更けていく。封印の森に戻った一行は、祭壇の前に集まっていた。
「明日、運命が決まる」
ヴァルは胸の紋章を見つめた。「2」の数字が、今にも「1」に変わろうとしている。
教会の鐘が鳴り始めた。
みんなが見守る中、ヴァルの紋章が光る。
鐘が十を打ち切る。紋章の「2」が「1」に落ちた。
最後の一日が始まった。
「明日の午前0時...」
ヴァルは呟いた。
「そこで全てが決まる」
リーナは拳を握りしめた。絶対に諦めない。何か方法があるはず。継承の儀式をしても、ヴァル先生も自分も助かる方法が。
「私の固有魔法...」
リーナは思い出していた。ヴァル先生が言っていた。その人だけの、唯一無二の魔法。もしかしたら、それが鍵になるかもしれない。
「明日、全てを懸ける」
リーナの決意は揺るがなかった。
残り一日。最後の日に、奇跡を起こしてみせる。




