第7話 傷を癒す優しい光
朝、ヴァルが現れない。
リーナは封印の森の祭壇で待っていた。四時から待ち始めて、もう六時を過ぎている。昨日、南の封印を修復して呪いの進行は遅くなったはずだ。でも、ヴァル先生は現れない。
不安が胸を締め付ける。もしかして...
リーナは祭壇から立ち上がり、森の奥へと足を向けた。昨日、ヴァルが休んでいた洞穴へ向かう。しかし、そこにヴァルの姿はなかった。
「先生...どこに...」
魔力を広げて感知を試みる。四拍で吸い、二拍保持、四拍で吐く。呼吸を整えて、周囲の魔力を探る。
微かに、とても微かに、ヴァルの魔力を感じた。弱々しく、今にも消えそうな魔力の痕跡。森のさらに奥、普段は行かない場所から感じる。
リーナは走った。木の根につまずきながら、枝に服を引っかけながら、必死に走った。
そして、見つけた。
古い大木の根元に、ヴァルが倒れていた。
「先生!」
駆け寄ると、ヴァルの顔は土気色を通り越して、青白くなっていた。呼吸は浅く、不規則。額には冷や汗が浮かび、時々小さく呻き声を上げている。
「先生、しっかりして!」
リーナはヴァルの身体を起こそうとしたが、反応がない。意識が朦朧としているようだ。高熱で、触れた手が火傷しそうなほど熱い。
どうすれば...医者を呼ぶ?でも、魔王だと知られたら...それに、普通の医者では呪いは治せない。
「回復魔法...」
リーナは思い出した。まだ教わっていない。でも、ヴァル先生が以前、少しだけ見せてくれたことがある。エミリアの擦り傷を治した時の、あの優しい光。
「癒しとは、生命力の分配...」
ヴァルがうわごとのように呟いた。意識はないが、リーナの声に反応しているようだ。
「光は...生命の象徴...」
「優しさが...力になる...」
断片的な言葉だったが、リーナには理解できた。回復魔法の本質は、自分の生命力を相手に分け与えること。そして、その媒介となるのは優しさの感情。
リーナは両手をヴァルの胸に当てた。そして、目を閉じて意識を集中させる。
自分の中にある生命力。それは魔力とは違う、もっと根源的な力。心臓の鼓動、血の流れ、呼吸のリズム。それら全てが生命力の現れ。
その力を、優しさという感情で包み込む。ヴァル先生への感謝。この人に出会えて変われた喜び。もっと一緒にいたいという願い。全ての思いを込めて、生命力を手のひらに集める。
すると、手のひらから温かい光が生まれた。
淡い金色の光が、ヴァルの身体を包み込む。光は優しく脈動し、まるで生きているかのようにヴァルの中へと浸透していく。
「あ...」
ヴァルの顔色が、少しだけ良くなった。呼吸も、わずかに安定してきている。
効いている。本当に効いている。
リーナは回復魔法を続けた。しかし、すぐに問題が起きた。
自分の体力が、急速に削られていく。
回復魔法は、文字通り自分の生命力を分け与える術。使えば使うほど、術者の体力が奪われる。リーナの額に汗が浮かび、手足が震え始めた。
それでも、リーナは止めなかった。
「先生...戻ってきて...」
何度も回復魔法を使う。光が生まれては消え、また生まれる。その度に、リーナの体力が削られていく。視界がぼやけ始め、意識が遠のきそうになる。
「リーナ!」
声がした。振り返ると、レオンが立っていた。
「やはりここにいたか」
レオンは状況を一目で理解した。倒れているヴァル、必死に回復魔法を使うリーナ。そして、リーナ自身が限界に近いことも。
「手伝わせてもらう」
レオンはリーナの隣に膝をつき、同じようにヴァルに手を当てた。
「お前も回復魔法が...?」
「火を操る者は、熱を知る。熱は生命の証だ」
レオンの手から、赤みを帯びた光が生まれた。リーナの金色の光とは違うが、確かに回復の力を持っている。
「なぜ...」
「強い者を見ると血が騒ぐ。それが俺の性分だ」
レオンは照れたように言った。
「それに...お前の師匠なら、悪い奴じゃない」
二人で回復魔法を使い続けた。金色と赤の光が混ざり合い、オレンジ色の温かい光となってヴァルを包む。
次第に、ヴァルの状態が改善していった。土気色だった顔に、少しずつ血色が戻ってくる。呼吸も深くなり、規則正しくなっていく。
夕方、ついにヴァルが目を覚ました。
「リーナ...レオン...」
ヴァルは驚いた表情で二人を見た。
「なぜ...」
「仲間ですから」
レオンがあっさりと答えた。その言葉に、ヴァルは言葉を失った。
仲間。千年生きて、初めて言われた言葉だった。
「迷惑をかけた」
「迷惑なんかじゃありません」
リーナは涙を流しながら言った。
「先生が倒れていて...どんなに心配したか...」
その時、新たな声が聞こえた。
「やっと正体を現したね、旧友よ」
振り返ると、学院長のメルヴィンが立っていた。飄々とした表情だが、その目は真剣だった。
「メルヴィン...」
ヴァルは目を見開いた。
「まさか、知っていたのか」
「百年前から知っていたよ。君が姿を消した時から、ずっと探していた」
メルヴィンは近づいてきて、ヴァルの前に座った。
「君は私の師匠だったじゃないか。忘れたのか、ヴァルハート」
「師匠...?」
リーナとレオンが驚いた。まさか、学院長がヴァルの弟子だったなんて。
「正確には、百二十年前だ。まだ私が若造だった頃、君に魔法を教わった。たった一年だったが、私にとっては宝物のような時間だった」
メルヴィンは懐かしそうに笑った。
「君は優しい教師だった。厳しくも、温かかった。だから、君が魔王と呼ばれて恐れられているのが、私には理解できなかった」
「それは...」
「知っているよ。君は誰よりも優しい。だから、誰よりも孤独だった」
メルヴィンの言葉に、ヴァルは俯いた。
「最後まで見届けさせてもらうよ、師よ」
その言葉に、ヴァルの目から一筋の涙が流れた。千年ぶりの涙だった。
「みんな...どうして...」
「決まってるじゃないか」
レオンが言った。
「あんたは、リーナを変えた。無能と呼ばれた少女を、ここまで成長させた。それだけで、俺たちがあんたを助ける理由になる」
「そうよ」
新たな声がした。エミリアも来ていた。
「リーナの大切な人は、私の大切な人でもあるの」
気がつけば、周りには学院の生徒たちも集まっていた。みんな、リーナの成長を見ていた者たちだ。そして、その師匠であるヴァルに敬意を持っていた。
「魔王だろうと関係ない」
「リーナ先輩を強くしてくれた人だ」
「俺たちも、何か手伝えることがあれば」
生徒たちの声に、ヴァルは言葉を失った。
千年間、恐れられ、避けられ、一人で生きてきた。でも、今、こんなにも多くの人が自分を囲んでいる。心配してくれている。
「私は...」
ヴァルの声が震えた。
「私は、もう一人じゃないのか...」
「当たり前でしょう」
リーナが優しく言った。
「先生は、もう一人じゃありません。みんながいます」
ヴァルは顔を覆った。千年分の孤独が、一気に溶けていくようだった。
「ありがとう...みんな...」
震える声で、ヴァルは礼を言った。生まれて初めて、心からの感謝の言葉だった。
夜、森の祭壇にみんなが集まっていた。
ヴァルはまだ本調子ではないが、座っていることはできた。リーナとレオンの回復魔法のおかげで、かなり体力が戻っている。
「残り三日か...」
レオンが呟いた。そう、もうすぐ午前0時。カウントダウンが進む時間だ。
「でも、呪いの進行は遅くなってる」
エミリアが前向きに言った。
「きっと、もっと時間があるはず」
「そうだといいが...」
ヴァルは胸の紋章を見つめた。「4」の数字が、薄く光っている。
メルヴィンが口を開いた。
「実は、古い文献を調べていてね。興味深いことが分かった」
みんなの視線が学院長に集まる。
「継承の儀式というものがある」
「継承...?」
「魔王の力を、完全に他者に譲渡する儀式だ。ただし...」
メルヴィンの表情が曇った。
「譲渡した者は、消滅を免れない。そして、受け継いだ者は、魔王の運命も引き継ぐ」
「それじゃあ...」
リーナが青ざめた。
「はい。受け継いだ者も、いずれは同じ運命を辿ることになる」
重い沈黙が流れた。
でも、リーナは顔を上げた。
「それでも、方法があるなら...」
「リーナ」
ヴァルが制止した。
「君にそんな運命を背負わせるわけにはいかない」
「でも...」
「いいんだ。私は十分に生きた。そして、最後にこんなに素晴らしい仲間に出会えた。それで十分だ」
ヴァルは優しく微笑んだ。
「残り三日、全力で君たちを教える。それが、私にできる最後の恩返しだ」
教会の鐘が鳴り始めた。
みんなが見守る中、ヴァルの紋章が光り始める。
鐘が十を打ち切る。紋章の「4」が「3」に落ちた。
痛みは、昨日よりもさらに軽かった。呪いの進行が確実に遅くなっている。でも、それでも消滅は避けられない。
「あと三日...」
ヴァルは呟いた。
でも、その声に絶望はなかった。むしろ、穏やかささえ感じられた。
「三日もあれば、まだまだ教えられる」
ヴァルは立ち上がった。まだふらつくが、レオンが支えてくれる。
「明日は召喚魔法だ。リーナ、君だけの使い魔を作ろう」
「はい!」
リーナは元気に答えた。涙の跡が残る顔で、でも笑顔だった。
「レオン、君も一緒に訓練だ」
「ああ、もちろん」
「エミリア、君は資料を集めてくれ。まだ何か方法があるかもしれない」
「分かりました!」
みんなが動き始めた。諦めない。最後の最後まで、諦めない。
メルヴィンが近づいてきて、ヴァルの肩に手を置いた。
「師よ、最後まで見届けさせてください」
「メル...ありがとう」
ヴァルは昔の愛称で呼んだ。百年ぶりの再会だった。
森の奥では、星が輝いていた。
リーナは空を見上げた。昨日よりも、星が明るく見える気がした。それは、希望の光のようにも見えた。
「先生、絶対に諦めません」
リーナは小さく呟いた。
「必ず、方法を見つけます」
ヴァルはその言葉を聞いて、小さく笑った。この子の前向きさが、自分を支えてくれている。
「ありがとう、リーナ」
「先生...」
「君に出会えて、本当に良かった」
ヴァルの言葉に、リーナはまた涙が溢れそうになった。でも、今度は悲しい涙じゃない。温かい涙だった。
みんなで森を出て、王都への道を歩いた。
ヴァルは仲間に囲まれて歩いている。千年間、一人で歩いてきた道。でも、今は違う。隣に誰かがいる。支えてくれる人がいる。
「これが...仲間というものか」
ヴァルは心の中で呟いた。
温かい。とても、温かい。
学院の門をくぐる時、神殿の使者が待っていた。紫紺の封蝋が押された書状を持っている。
「魔法学院長メルヴィン殿。神殿より、質問状です」
メルヴィンは書状を受け取った。中を確認すると、顔が険しくなる。
「森の魔力異常について、説明を求めると」
「どうします?」
レオンが心配そうに聞いた。
「時間稼ぎをする」
メルヴィンははっきりと言った。
「少なくとも、あと三日は」
使者は訝しげな顔をしたが、メルヴィンの威厳に押されて引き下がった。
「三日後に、正式な回答をする」
「承知しました」
使者が去った後、メルヴィンは振り返った。
「さあ、時間がない。訓練を続けよう」
みんなが頷いた。
残り三日。
でも、諦めない。奇跡を信じて、最後まで戦う。
リーナは決意を新たにした。ヴァル先生を救う方法を、必ず見つける。たとえそれが、どんなに困難でも。
夜遅く、リーナは一人で図書館にいた。
古い文献を読み漁っている。継承の儀式について、もっと詳しく知りたかった。
「何か...何か抜け道があるはず...」
ページをめくる手が震える。疲労と、焦りと、希望が入り混じっている。
その時、一つの記述が目に留まった。
「継承の儀式において、譲渡者と継承者の魂が共鳴する時...」
リーナは息を呑んだ。
「新たな可能性が生まれることがある」
これだ。これが、答えかもしれない。
リーナは本を抱きしめた。明日、ヴァル先生に話そう。きっと、何か方法があるはず。
窓の外では、星が静かに輝いていた。
あと三日。
時間は少ない。でも、希望はある。
リーナはそう信じて、本を読み続けた。朝まで、ずっと。




