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第6話 真実と幻の境界

 

 朝靄が森を包む中、リーナは祭壇への道を急いでいた。昨夜、古い文献で見つけた一節が頭から離れない。「神々の呪いは起点と媒体の二重構造を持つ」という記述。もし紋章が媒体なら、起点はどこにあるのか。南の封の綻びと関係があるのではないか。


 祭壇に着くと、ヴァルはすでに待っていた。しかし、その姿を見てリーナは息を呑んだ。昨日よりもさらに顔色が悪い。祭壇に寄りかかるようにして立っている。


「先生...」


「心配するな。まだ動ける」


 ヴァルの声は掠れていた。それでも、いつものように訓練の準備を始める。


「今日は幻影魔法を教える。記憶の具現化だ」


 ヴァルが手を上げると、空中に薄い霧のようなものが現れた。それが徐々に形を成し、一羽の小鳥になった。鳥は本物のように羽ばたき、枝から枝へと飛び移る。


「幻影とは、記憶や想像を魔力で形にする術だ。ただし、実体はない。触れれば消える」


 リーナが手を伸ばすと、確かに鳥は霧のように消えた。しかし、すぐにまた現れる。


「強い感情ほど、鮮明な幻となる。喜び、悲しみ、怒り...そして後悔も」


 ヴァルの表情が陰った。千年分の後悔が、その瞳に宿っているようだった。


「私も幻影を作れるようになりますか?」


「記憶が鮮明なら、誰でもできる。ただし...」


 ヴァルは言葉を切った。そして、真剣な表情でリーナを見つめる。


「他者の記憶に入ることもできる。だが、それは危険を伴う。見た者の精神を壊すこともある」


「それでも見たいです」


 リーナの即答に、ヴァルは驚いた。


「先生の過去を。千年の記憶を。先生を理解したいんです」


「後悔するかもしれない」


「後悔なんてしません」


 リーナの瞳に迷いはなかった。ヴァルは深いため息をついた。


「分かった。だが、約束しろ。耐えられなくなったら、すぐに言え」


 リーナは頷いた。ヴァルは祭壇の中央に魔法陣を描き始めた。複雑な紋様が、青白い光を放つ。


「座れ。そして、目を閉じろ」


 リーナが目を閉じると、ヴァルの手が額に触れた。途端に、意識が引き込まれるような感覚に襲われた。


 〈千年前〉


 気がつくと、リーナは見知らぬ場所に立っていた。小さな村の広場。でも、どこか古い時代の風景だった。そして、目の前に一人の少年がいた。


 銀髪に金眼。まだ十歳くらいの、幼いヴァルハートだった。


「化け物!」


 石が飛んできた。幼いヴァルの額に当たり、血が流れる。でも、少年は動かない。ただじっと、石を投げた子供たちを見つめている。


「その目で見るな!呪われる!」


「魔物の子!」


 子供たちが逃げていく。幼いヴァルは一人、広場に残された。額から流れる血を拭おうともせず、ただ立ち尽くしている。


 場面が変わった。


 今度は青年のヴァル。まだ二十歳くらいだろうか。強大な魔力を持ち、すでに大魔導師を超えていた。


「ヴァルハート様、お見事です」


 褒める者たちの顔には、恐怖が滲んでいた。誰も近づこうとしない。握手を求めても、皆が手を引っ込める。


「私は...ただ認められたかっただけなのに」


 青年ヴァルの呟きが、リーナの胸を締め付けた。


 〈百年前〉


 また場面が変わる。今度は戦場だった。


 人類を守るために、ヴァルは最前線で戦っていた。敵の軍勢を一人で薙ぎ払い、街を守る。しかし...


「魔王だ!魔王が現れた!」


 守ったはずの人々が、ヴァルを恐れて逃げていく。敵よりも、ヴァルの方が恐ろしいと。


「違う...私は味方だ...」


 でも、誰も聞いてくれない。強すぎる力は、敵も味方も関係なく、全ての者を恐怖させた。


 〈千年前〉


 そして、最後の場面。


 古代の呪術師との決戦。相手は醜悪な老人だった。瘴気を纏い、禍々しい魔力を放っている。


「お前の力は呪いだ、ヴァルハート。誰も愛さず、誰からも愛されない」


「黙れ!」


 激しい戦いの末、ヴァルが勝利した。しかし...


「くくく...勝ったと思うか?これが、我が最後の贈り物だ」


 呪術師の身体が崩れ、黒い霧となってヴァルを包んだ。胸に紋章が刻まれる。「1000」という数字が、肌に焼き付けられた。


「千年後、お前は消滅する。それまで、誰とも心を通わせることなく、孤独に生きるがいい」


 ヴァルが苦悶の声を上げる。そして...


 幻影が途切れた。


 リーナが目を開けると、涙で視界がぼやけていた。いつの間にか、声を上げて泣いていたのだ。


「先生...」


 ヴァルは優しく微笑んでいた。いつもの厳しい表情ではない、本当に優しい笑顔だった。


「怖かったか?」


「違います」


 リーナは首を横に振った。


「悲しいです。先生が、ずっと一人だったことが」


「私は慣れている」


「慣れなんて、あってはいけないんです」


 リーナはヴァルの手を取った。その手は、思ったより冷たかった。


「もう一人じゃありません。私がいます。エミリアもいます。きっとレオンも...」


 その時、森の入り口から声が聞こえた。


「その通りだ」


 振り返ると、レオンが立っていた。いつもの制服姿で、腕を組んでいる。


「レオン?どうしてここに?」


「昨日から気になっていた。お前の魔力の変化、そして...」


 レオンはヴァルを見た。


「あんたが魔王ヴァルハートだろう?」


 ヴァルは動じなかった。ただ静かに頷く。


「いつ気づいた?」


「最初の模擬戦の後だ。リーナの成長速度が異常すぎる。普通の教師では不可能だ」


 レオンは続けた。


「それに、銀髪に金眼。伝承の通りだ」


「で、どうする?王都に通報するか?」


 ヴァルの問いに、レオンは鼻で笑った。


「馬鹿を言うな。俺は強者を尊敬する。あんたは本物の強者だ」


 そして、リーナの方を向く。


「それに、リーナをここまで成長させた。それだけで、あんたを信用する理由になる」


「報告はしない。その代わり——リーナの稽古には俺も毎日立ち会う。いいな?」


 ヴァルは少し考えてから頷いた。レオンの条件は合理的だった。


「でも、時間がないんだろう?」


 レオンは紋章を指差した。ローブの隙間から、「5」の数字が見えている。


「あと五日...いや、もう四日か」


「そうだ」


 ヴァルは静かに答えた。


「なら、俺も協力する。リーナを最強にするんだろう?手伝わせろ」


 思わぬ申し出に、ヴァルも驚いた表情を見せた。


「なぜ?」


「さっきも言った。強者は強者を知る。それに...」


 レオンは少し照れたような顔をした。


「リーナは俺のライバルだ。ライバルが師匠を失うのは、見ていられない」


 午後になって、三人での訓練が始まった。レオンは攻撃役、リーナは幻影で撹乱、ヴァルが指導する。


「幻影は囮だけじゃない。相手の視覚を奪う武器にもなる」


 ヴァルの指示で、リーナは自分の分身を作った。まだ不完全で、よく見れば偽物だと分かる。でも、戦闘中なら十分に相手を惑わせられる。


「面白い」


 レオンが炎の剣を振るう。幻影のリーナが次々と消えていく。でも、本物がどこにいるか分からない。


「後ろだ!」


 振り返ると、リーナが水の球を放っていた。レオンは慌てて避ける。


「やるじゃないか」


「まだまだです」


 リーナは息を切らしていた。幻影を維持しながら戦うのは、想像以上に魔力を消耗する。額から汗が流れ、手足が震えている。


「休憩だ」


 ヴァルが訓練を止めた。そして、携行庫から水筒を取り出す。


「飲め。魔力の回復には水分が必要だ」


 三人で祭壇に座り、水を飲む。不思議な光景だった。魔王と、落ちこぼれと呼ばれた少女と、学院の天才が、一緒に座っている。


「なあ、ヴァル」


 レオンが口を開いた。呼び捨てにしたことに、リーナは驚いた。


「呪いを解く方法は、本当にないのか?」


「神々の呪いは絶対だ」


「神々か...」


 レオンは考え込むような顔をした。


「でも、神々だって完璧じゃないだろう?どこかに穴があるはずだ」


「千年探した。見つからなかった」


 ヴァルの声には諦めが滲んでいた。でも、リーナは諦めていなかった。


「先生、昨日言っていた南の封の綻びって、何ですか?」


 ヴァルは驚いた顔をした。


「聞いていたのか」


「はい。それと、千年前の呪術師と関係があるんじゃないですか?」


 鋭い指摘に、ヴァルは考え込んだ。


「確かに...あの呪術師は南の地で活動していた。そして最近、南から瘴気が...」


「行ってみる価値はあるな」


 レオンが立ち上がった。


「今からでも遅くない。調べに行こう」


「待て、危険だ」


 ヴァルが制止しようとしたが、その時、激しく咳き込んだ。今度は血だけでなく、黒い何かも混じっている。


「先生!」


 リーナとレオンが支える。ヴァルの身体が震えている。熱い。高熱があるようだった。


「もう...限界か...」


 ヴァルの意識が遠のいていく。リーナは必死に呼びかけた。


「先生!しっかりして!」


 でも、ヴァルの目は閉じられたままだった。


 夕方、ヴァルは森の奥にある洞穴で横になっていた。レオンが見つけた隠れ家だった。リーナは濡れた布でヴァルの額を冷やしている。


「熱が下がらない...」


「呪いが進行してるんだ」


 レオンが苦い顔をした。


「このままじゃ、明日まで持たないかもしれない」


「そんな...」


 リーナの目に涙が浮かぶ。でも、泣いている場合じゃない。


「私、南の封を調べてきます」


「一人では危険だ」


「でも、じっとしていられません」


 リーナの決意は固かった。レオンは少し考えてから頷いた。


「分かった。俺も行く。エミリアにも声をかけよう」


「でも、先生が...」


「ここは結界を張っておく。それに...」


 レオンは懐から小さな鈴を取り出した。


「これは転送の鈴だ。危険を感じたら鳴らせ。すぐに戻って来られる」


 リーナは鈴を受け取った。まだ温かい。レオンの魔力が込められているのだ。


「ありがとう」


「礼はいい。早く行こう」


 二人は洞穴を出た。森の外では、夕日が沈みかけていた。オレンジ色の光が、世界を染めている。


 学院でエミリアと合流し、三人で南門へ向かった。転送鈴の短跳躍を繰り返し、三度の閃きで夕景の縁に出た。


 途中、神殿の衛兵とすれ違う。彼らは魔力測定器を持っていた。光る板の数値が不規則に跳ねている。


「やはり、神殿も動き始めている」


 レオンが小声で言った。


 南門を出て、さらに南へ。森を抜け、荒野を進む。そして...


「これは...」


 目の前に、巨大な穴が開いていた。直径百メートルはあろうかという大穴。そこから、黒い瘴気が立ち上っている。


「封印が完全に壊れてる」


 エミリアが震え声で言った。


「でも、誰が?」


 その時、穴の底から声が聞こえた。


「くくく...よく来たな、小娘ども」


 瘴気の中から、一人の老人が現れた。黒いローブを纏い、杖を持っている。顔は...醜く歪んでいた。


「お前は...」


 リーナは息を呑んだ。幻影で見た、あの呪術師に似ている。いや、同じ瘴気を纏っている。


「我が名はザルディス。かの大呪術師の弟子にして、後継者よ」


 ザルディスは不気味に笑った。


「千年前、我が師はヴァルハートに敗れた。だが、呪いは成功した」


「起点は周期で脈を打つ。今が"開き目"——主の呪いを確定させる刻よ」


 ザルディスの目が妖しく光った。


「お前が、封印を...」


「そうだ。あと少しで、ヴァルハートは消滅する。そして、この世界は瘴気に包まれる」


 ザルディスが杖を振るうと、瘴気が触手のように伸びてきた。


「させない!」


 リーナが結界を張る。レオンが炎の壁を作り、エミリアが風で瘴気を散らす。でも、相手の力は強大だった。


「無駄だ。お前たち程度では、我には勝てぬ」


 瘴気の圧力が増す。結界にヒビが入り、炎の壁が押し負ける。


「くっ...」


 三人とも膝をついた。このままでは...


 その時、リーナの脳裏に、ヴァルの言葉が蘇った。


『幻影は、強い感情ほど鮮明になる』


 そうだ。私には、強い感情がある。ヴァル先生を救いたいという、強い思いが。


 リーナは立ち上がった。そして、全魔力を幻影に注ぎ込む。


 現れたのは、千年前のヴァルハートだった。全盛期の、最強の魔王の姿。


「な、なぜ...」


 ザルディスが動揺する。幻影とはいえ、その迫力は本物だった。


「これは、先生の記憶。そして、私の願い」


「幻は設計図だ。出力は私たちの魔力——合わせろ!」


 リーナが叫ぶと、幻影の魔法陣が"型"になり、三人の魔力がそこへ流れ込む。


 幻影のヴァルが動いた。手を上げ、巨大な魔法陣を展開する。それは、千年前に使われた、最強の封印術だった。


「ば、馬鹿な!幻影にそんな力は...」


 でも、三人の合わせた魔力が、幻影の型を通して具現化していた。幻影の封印術が、瘴気を押し返していく。


「今だ!」


 レオンとエミリアも立ち上がった。三人の力を合わせ、ザルディスに向かって魔法を放つ。


 炎と水と風が融合し、巨大な渦となってザルディスを包む。


「ぐあああ!」


 ザルディスが苦悶の声を上げる。そして、瘴気と共に穴の底へと落ちていった。


 同時に、穴が閉じ始めた。封印が、自動修復を始めたのだ。穴の縁に、古い刻文が浮かび上がる。「第七封印主・賢者アルトゥール」の銘が、かすかに読めた。


「やった...」


 リーナは力尽きて倒れそうになった。視界に細かな粒子ノイズが走る。喉が砂を飲んだように乾いた。レオンが支える。彼も息が乱れている。


「大丈夫か?」


「はい...でも、先生の所へ...」


「ああ、急ごう」


 夜半前、二度跳んで森へ戻った。三人とも、魔力を使い果たしていた。


 洞穴に着くと、ヴァルが目を覚ましていた。まだ顔色は悪いが、意識ははっきりしている。


「リーナ...無事か...」


「先生!」


 リーナは駆け寄った。そして、南で起きたことを話す。


「ザルディス...あの呪術師の弟子か...」


 ヴァルは考え込んだ。


「もしかすると...」


「何か分かりましたか?」


「呪いの起点...それは、あの穴だったのかもしれない」


 ヴァルの顔に、わずかな希望が宿った。


「封印が修復されたなら、呪いも弱まるかも...」


 その時だった。


 教会の鐘が鳴り始めた。もうすぐ午前0時。


 ヴァルの胸の紋章が光り始める。今日も、カウントダウンが進む。


 鐘が十を打ち切る。紋章の「5」が「4」に落ちた。


 しかし...いつもと違った。痛みが、いつもより軽い。黒い吐血も、赤みを帯びている。


「これは...」


 ヴァルが驚いた顔をする。


「呪いの進行が...遅くなっている?」


「本当ですか!?」


 リーナの顔が輝いた。もしかしたら、まだ希望があるかもしれない。


「でも、消滅は避けられない」


 ヴァルは現実的だった。


「ただ、少し時間が延びただけだ」


「それでも」


 リーナは諦めない。


「時間があれば、きっと方法が見つかります」


 ヴァルは優しく微笑んだ。この子の前向きさには、いつも救われる。


「そうだな...最後まで、諦めないと約束したからな」


 洞穴の外では、星が輝いていた。


 残り四日。でも、希望はまだある。リーナはそう信じていた。


 翌朝、学院に一通の質問状が届く。封蝋の色は、神殿特有の紫紺だった。


 そして、明日もまた、訓練は続く。最後の最後まで、諦めずに。

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