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第5話 見えないものを視る

 

 朝霧が森を包む中、リーナは祭壇の前で待っていた。いつものように四時に到着し、ヴァルを待つ。しかし、五時を過ぎても、五時半を過ぎても、ヴァルは現れなかった。不安が胸をよぎる。昨日の様子を思い出す。重い足取り、時折見せる苦しそうな表情。何か起きているのではないか。


 六時になろうとした時、ようやく人影が見えた。ヴァルが歩いてくる。だが、その姿を見てリーナは息を呑んだ。明らかに様子がおかしい。顔色は土気色で、歩く度によろめいている。木に手をついて、ようやく前に進んでいるような状態だった。


「先生!」


 リーナは駆け寄ろうとしたが、ヴァルが手で制した。


「大丈夫だ...寝過ごしたことにしておけ」


 明らかな嘘だった。ヴァルの額には汗が浮かび、呼吸も荒い。それでも、いつものように祭壇の前に立とうとする。


「今日は感知魔法を教える。真実を見抜く力だ」


 ヴァルは震える手を前に出した。すると、空気中に無数の光の粒子が浮かび上がった。それぞれが異なる色で輝き、ゆっくりと流れている。


「これが魔力の流れだ。全ての存在は魔力を持ち、固有の波長を放っている」


 ヴァルが手を動かすと、光の粒子がその動きに合わせて渦を巻いた。美しくも神秘的な光景だった。


「感知魔法の本質は、この流れを読むことだ。相手の魔力を感じ取れば、位置も、強さも、時には感情さえも分かる。ただし、射程がある。半径五十メートルまでは精密に、百五十メートルは輪郭のみだ」


 リーナは目を凝らして光の粒子を見つめた。最初はただの光にしか見えなかったが、集中していくうちに、それぞれの粒子が異なる速度で動いていることに気づいた。


「見るな。触れろ。測れ」


 ヴァルの指導に従い、リーナは目を閉じた。そして、自分の魔力を外に広げていく。すると、周囲の様子が違った形で感じられ始めた。まるで見えない手で、世界を撫でているような感覚。


「あ...感じる...」


 目を閉じているのに、ヴァルの位置が分かる。強い魔力の塊が、目の前にある。その魔力の質感まで感じ取れる。


「先生の魔力...すごく大きいけど...」


 リーナは眉をひそめた。ヴァルの魔力は確かに巨大だった。自分の何百倍もある。しかし、何かがおかしい。


「なんだか、削れているような...欠けているような...」


 ヴァルの表情が一瞬硬くなった。


「...鋭いな」


 その時だった。朝の静寂を破って、声が聞こえた。


「リーナ!こんなところにいたのね」


 エミリアだった。心配そうな顔で近づいてくる。森の結界が薄い早朝の時間帯だからこそ、入って来られたのだろう。リーナは慌てて目を開けた。


「エミィ?どうしてここに?」


「どうしてって...最近、リーナが毎朝いなくなるから心配で。後をつけてきちゃった」


 エミリアはヴァルを見て、警戒するような目をした。銀髪に金眼という特徴的な外見に、何か引っかかるものを感じているようだった。


「この人が、リーナに魔法を教えているの?」


「そうよ。ヴァル先生。とても優秀な魔法使いなの」


 エミリアは疑わしそうにヴァルを見つめた。


「銀髪に金眼...どこかで聞いたような...」


 その時、エミリアの顔色が変わった。古い伝承を思い出したのだ。百年前に姿を消した魔王の特徴。まさか、と思いながらも、エミリアは後ずさりした。


「リーナ、その人から離れて」


「え?どうして?」


「その人、もしかして...」


 エミリアが言いかけた時、彼女が転びそうになった。森の根に足を取られたのだ。ヴァルが素早く手を伸ばし、エミリアの腕を支えた。同時に、無詠唱で軽い治癒魔法をかける。エミリアが朝走ってきた時にできた小さな擦り傷が、瞬時に消えた。


「大丈夫か」


 その優しい動作に、エミリアは戸惑った。恐ろしい魔王のイメージとは違う。


「あなたは...本当に...」


「私が何者であろうと、リーナの成長に関係ない」


 ヴァルは淡々と言った。そして、リーナの方を向く。


「訓練を続ける。君の友人には見学してもらおう」


 エミリアはまだ警戒していたが、先ほどの行動を見て、少なくとも今すぐ危害を加える存在ではないと判断した。少し離れた場所で見守ることにした。


「では、実践だ。目隠しをしろ」


 ヴァルが黒い布を取り出し、リーナに渡した。リーナは目隠しをして、完全に視界を塞ぐ。


「私がどこにいるか、感知してみろ」


 ヴァルの声が聞こえた後、気配が消えた。リーナは魔力を広げて、周囲を探る。最初は何も感じなかったが、集中を続けていると、かすかに魔力の痕跡を感じた。


「右背後、三歩。脈が粗い」


 振り返ると、目隠しを外さなくても、そこにヴァルがいることが分かった。魔力の感覚が、はっきりとヴァルの位置を教えてくれる。


「正解だ。次はもっと難しくする」


 今度は、ヴァルが幻の魔力を複数設置した。囮の魔力が、あちこちに配置される。


「本物を見つけろ。ヒントは、残留の濃淡と流速だ」


 リーナは慎重に魔力を探った。確かに複数の魔力源がある。しかし、よく感じてみると、それぞれ微妙に違う。一つは動きが機械的で、もう一つは薄すぎる。そして...


「左前方、七メートル。それが本物です」


「見事だ」


 ヴァルの声が、まさにその位置から聞こえた。囮を見破ったのだ。


 森の動物たちの気配も感じ始めた。小さな魔力の点が、あちこちに散らばっている。鳥、リス、虫...それぞれが異なる魔力を放っている。動体は流速の差で判別でき、感情は波形の揺らぎで読み取れる。


「すごい...世界がこんなに魔力で満ちていたなんて」


 リーナは感動していた。目隠しをしているのに、世界がより鮮明に感じられる。これが感知魔法の世界か。


「ただし、使いすぎれば脳が疲労する。耳鳴り、視界の粒子ノイズが出たら、過負荷のサインだ」


 ヴァルが警告を加えた。確かに、集中を続けていると、少し頭が重くなってきた。


 訓練を一旦終え、目隠しを外すと、軽い偏頭痛が襲ってきた。こめかみがずきずきと痛む。エミリアが心配そうに水筒を差し出した。


「大丈夫?顔色が悪いよ」


「ありがとう、エミィ」


 水を飲むと、少し楽になった。感知魔法にも、確かに代償があるのだ。


 訓練を続けていると、突然、ヴァルの魔力が揺らいだ。何かがおかしい。魔力が不規則に脈打っている。


「先生?」


 リーナが振り返ると、ヴァルが膝をついていた。顔面蒼白で、激しく咳き込んでいる。


「ゴホッ...ゴホッ...!」


 手で口を覆っているが、指の隙間から赤いものが見えた。血だ。ヴァルが吐血している。


「先生!」


 リーナが駆け寄ると、ヴァルは手で制した。しかし、もう立っていることもできないようで、その場に座り込んでしまった。エミリアも心配そうに近づいてくる。


「大丈夫じゃないじゃない!医者を呼ばないと!」


 エミリアが言ったが、ヴァルは首を横に振った。


「医者では...治せない」


 苦しそうに呼吸をしながら、ヴァルはローブの前を開けた。そこには、見たことのない紋章が刻まれていた。「6」という数字が、不気味に光っている。


「これは...」


 リーナが息を呑んだ。数字が刻まれた紋章。それも、ヴァルの胸に直接刻み込まれている。


「...隠していても仕方ないか」


 ヴァルは苦笑した。そして、震える声で告白を始めた。


「私には、時間がない。この紋章は呪いだ。あと六日で、私は消滅する」


 リーナの顔から血の気が引いた。消滅?そんなことが...


「どうして...どうしてそんな...」


「千年前、古代の呪術師との戦いで、この呪いを受けた。千年後に消滅する呪い。そして、その時が来た」


 エミリアが鋭く口を挟んだ。


「千年前...銀髪に金眼...まさか、あなたは伝説の...」


「そうだ。私は、かつて魔王と呼ばれた者だ」


 その言葉に、エミリアが息を呑んだ。やはり、という表情だ。リーナは驚きはしたが、恐怖はなかった。


「魔王...?でも、魔王は百年前に...」


「死んだと思われているが、実際は違う。姿を消しただけだ」


 ヴァルは淡々と語った。千年の時を生き、最強と呼ばれ、そして孤独だった自分の人生を。


「強さは壁になり、音が死んだ」


 ヴァルの声には、深い悲しみが滲んでいた。


「だが、最後の十日間で、君と出会った。才能を埋もれさせていた、一人の少女と。君を導くことが、私の最後の意味だと思った」


 リーナは涙を流していた。ヴァル先生が魔王だったなんて。そして、もうすぐ消えてしまうなんて。


「嫌です...先生が消えるなんて...」


「運命は変えられない」


 ヴァルは静かに言った。リーナは首を横に振った。


「定めは読むもの。書き換えるのは、その後です」


「リーナ...」


「だって、先生は私を変えてくれた。無能だった私を、魔法使いにしてくれた。不可能なんてないって、先生が教えてくれたじゃないですか!」


 リーナの言葉に、ヴァルは驚いた表情を見せた。そして、小さく笑った。


「君は...本当に不思議な子だ」


 エミリアも口を開いた。


「私も...最初は怖かったけど、リーナがこんなに成長したのは、あなたのおかげです。魔王だろうと何だろうと、リーナの恩人であることに変わりはありません」


 そして、エミリアは真剣な顔で付け加えた。


「誰にも言わない。言えば、王都が動く——そういう話ね。学院の封印札は王都と"共鳴"している。噂だけでも、明日には神殿の質問が来る」


 エミリアの理解の早さに、ヴァルは頷いた。そうだ、もし王都や教会にこの事実が知られれば、大騒動になる。リーナも巻き込まれるだろう。


 二人の少女の言葉に、ヴァルは言葉を失った。千年生きて、初めて受ける温かい言葉だった。


「怖くないのか?私は世界に恐れられた魔王だぞ」


「でも、私には優しい先生です」


 リーナははっきりと答えた。その瞳に、一点の曇りもない。


「それに...先生も一人ぼっちだったんですね。私と同じ...」


 リーナは両親を亡くしてからの孤独な日々を思い出していた。誰にも期待されず、誰にも必要とされない日々。しかし、ヴァル先生が現れて、全てが変わった。


「私、先生を助けたいです。まだ六日もあります。きっと方法があるはず」


「無駄だ。この呪いは神々の力で作られている。人間には解けない」


「それでも」


「リーナ」


 ヴァルは優しく、しかしはっきりと言った。


「私の願いは一つだけだ。君が強くなること。それだけで、私の千年は報われる」


 リーナは泣きながら頷いた。心の中では諦めていなかった。絶対に方法を見つける。ヴァル先生を救う方法を。


 午後になって、ヴァルの体調は少し回復した。森の奥にある小川で顔を洗い、血の跡を拭き取る。エミリアは学院に戻ったが、誰にも言わないと改めて約束してくれた。演習場の端で、レオンが一度だけ森の方角を振り返ったが、すぐに訓練に戻っていった。


「訓練を続ける」


 ヴァルが言った。リーナは心配そうに見つめたが、ヴァルの意志は固かった。


「六日で、基礎を一巡り——詰める」


 感知魔法の応用編が始まった。相手の感情を読む方法、隠された魔法道具を見つける方法、罠を察知する方法。ヴァルは丁寧に、しかし急ぐように教えていく。


「魔力には色がある。基調は赤、青、黄に寄るが、混ざる。色は"補助"だ。本質は波長と振幅にある」


 リーナは言われた通り、ヴァルの魔力を感じてみた。すると、複雑な色が見えた。深い紫に、所々黒が混じっている。それは...


「先生の魔力の色...悲しい色です」


「そうか...千年分の悲しみが、染み付いているのかもしれないな」


 ヴァルは自嘲的に笑った。


「でも、最近少し、明るい色も混じっているよ」


 リーナが言うと、ヴァルは驚いた顔をした。


「明るい色?」


「はい。薄い金色みたいな...温かい色です」


 それは、リーナと過ごすようになってから生まれた色だった。希望と呼ぶには儚すぎるが、確かに温かい感情の色。


「そして、感知には限界がある。瘴気の濃い場所、古代遺跡、そして携行庫の近く。これらはノイズ源となる。特に携行庫は内部時間が停止しているため、魔力の静寂域を作る。負のシルエットとして見えるはずだ」


 リーナは頷きながら、その知識を吸収していく。感知魔法一つとっても、こんなに奥が深いとは。


「呼吸を整えろ。四拍で吸い、二拍保持、四拍で吐く。この呼吸法で感知は安定する」


 実際にやってみると、確かに魔力の流れが安定した。周囲の魔力がより鮮明に感じられる。


 夕方、二人は祭壇の前に座っていた。西日が森を金色に染めている。美しい光景だったが、それもあと六回しか見られないのかと思うと、切なくなる。


「先生、本当に諦めるんですか?」


「諦めるも何も、これが定めだ」


「それでも...」


 リーナが言いかけた時、ヴァルが咳き込んだ。また血が出ている。さっきよりも量が多い。


「先生!」


「この拍は、もう知っている」


 ヴァルは血を拭いながら、静かに言った。もう慣れたという意味だろう。どれだけの間、一人で苦しんでいたのだろう。


「私が...私がもっと強ければ、先生を助けられるのに...」


「君は十分強くなった。たった五日で、ここまで成長するとは思わなかった」


 ヴァルは優しく言った。そして、携行庫から何かを取り出した。古い本だった。


「これは?」


「魔法の基礎理論が書かれた本だ。左上の青は理論、右下の赤は危険。順は青→無印→赤だ」


 リーナは本を受け取った。ページを開くと、確かにヴァルの字で細かい注記が書き込まれていた。色分けされた付箋が、学習の道筋を示している。まるで、リーナのためだけに作られた教科書のようだった。涙が止まらなかった。


「嫌です...先生がいなくなるなんて...」


「リーナ」


 ヴァルはリーナの頭に手を置いた。初めての、優しい仕草だった。


「君と出会えて、本当に良かった。最後の生徒が君で、私は幸せだ」


 その言葉に、リーナは声を上げて泣いた。千年という時を生きた魔王が、自分の前で優しく微笑んでいる。その姿に、ヴァルは胸が痛むのを感じた。


 王都への帰り道、二人は無言で歩いていた。ヴァルの足取りは重く、時々立ち止まって呼吸を整えている。神殿塔の窓に、白衣の影が二つ見えた。光度表を持っているようだ。森の魔力異常を調査しているのだろう。


「明日も...来てくれますか?」


 リーナが小さく聞いた。


「もちろんだ。残り六日、全てを君に教える」


「はい...」


 別れ際、リーナは振り返った。


「先生、一つ約束してください」


「何だ?」


「最後まで、諦めないでください。私も諦めません。きっと方法を見つけます」


 ヴァルは何も答えなかった。ただ、小さく頷いただけだった。


 教会の鐘が鳴り始めた。もうすぐ午前0時。


 ヴァルは一人、森の奥で鐘の音を聞いていた。胸の紋章が光り始める。そして、どこか遠くで、教会の監視結晶が光った。規準値+0.7。記録灯が一瞬、琥珀に跳ねた。森の魔力値スパイクを検知したのだろう。時間がない。


 鐘が十を打ち切る。紋章の「6」が「5」に落ちた。


 胸骨の裏で歯車が噛み違い、拍が落ちた。地面に倒れ込み、身体を丸めて耐える。呼吸が苦しい。心臓が不規則に脈打つ。


「あと...五日...」


 このままでは、本当に最後まで持たないかもしれない。せめてリーナに基本だけは全て教えなければ。


「視た。封の綻びは南。あの波形——懐かしい手口だ」


 ヴァルは呟いた。魔獣の出現、南の瘴気、そして今感じた魔力の波長。もしかすると、千年前の因縁が関係しているのかもしれない。だが、もう調べる時間はない。


「リーナ...君の成長だけが、私の希望だ」


 ヴァルは夜空を見上げた。今夜は星がよく見える。強さの果てに残ったのは無音だけだった。だが今は違う——学ぶ音がある。リーナの成長する音が、自分の最後の日々を彩っている。


「私の全てを、君に託そう」


 ヴァルは決意を新たにした。残り五日で、千年分の知識を全て教え込む。それが、自分にできる最後の、そして最高の仕事だ。


 学院の寮では、リーナが必死に本を読んでいた。ヴァルからもらった魔法理論書だけでなく、図書館から借りてきた古い文献も山積みになっている。頁の余白に、先生の字が踊っていた。急がなきゃ。


 ふと、一つの仮説が頭に浮かんだ。メモに書き留める。


「神々級の呪いは"起点"と"刻印媒体"の二系統。媒体が紋章なら、起点は別にある——南?」


 もしかすると、南の封の綻びと何か関係があるのかもしれない。明日、先生に聞いてみよう。いや、自分で調べられることは調べておこう。


「穴はある。読む。見つける。穿つ」


 リーナは決意を新たにした。窓の外では、星が静かに輝いていた。同じ星を、ヴァル先生も見ているだろうか。


 あと五日。時間は少ない。でも、不可能じゃない。ヴァル先生が教えてくれた。不可能は、挑戦する前に使う言葉じゃない。


 リーナは再び本に目を落とした。朝まで、ずっと調べ続けるつもりだった。

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