第3話 炎と水の調和
朝の光が学院の掲示板を照らしていた。「本日、公開演習」の文字が大きく書かれている。生徒たちが集まり始め、誰が誰と戦うのか興味深そうに見つめていた。
「落ちこぼれは見学でもしていろ」
レオン・ブライトソードの声が、リーナの背後から聞こえた。金髪を後ろに撫でつけた端正な顔立ちの青年は、学院でも指折りの実力者だった。その青い瞳には、明確な軽蔑が宿っている。
リーナは振り返らなかった。昨日とは違う自分を見せたい、その思いだけが胸にあった。手のひらを見つめる。昨日の訓練で得た感覚がまだ残っている。身体強化、崖を駆け上がった記憶。今日もきっと、新しいことができるようになる。そう信じていた。
早朝四時、リーナは寮を抜け出した。廊下を音を立てないように歩き、外へ出る。朝霧が濃く立ち込めていて、数メートル先も見えないほどだった。それでも迷うことなく森へと向かう。もう道は覚えた。目を閉じていても辿り着ける自信があった。
封印の森は、朝露に濡れていた。葉から雫が落ちる音が、静寂の中に響く。リーナは今日、四時半に祭壇に到着していた。昨日の反省を活かして、もっと早く来たのだ。苔むした祭壇に腰を下ろし、ヴァルを待つ。
しかし、いくら待ってもヴァルは現れなかった。五時になっても、姿を見せない。不安が胸をよぎる。もしかして、昨日の様子から...具合が悪いのだろうか。リーナは立ち上がり、森の奥を見つめた。行くべきか、待つべきか。迷っていると、ようやく人影が見えた。
ヴァルが歩いてくる。その足取りが、昨日より重い。一歩一歩が、まるで重い荷物を背負っているようだった。近づいてくるにつれ、顔色の悪さがはっきりと分かる。でも、ヴァルは何事もないかのように振る舞っていた。
ヴァルの内側では、異変が起きていた。歩く度に、高い音が耳の奥で鳴った。キーンという金属音のような不快な音。視界の端で、空気の粒子がざらついて見える。まるで古いテレビの砂嵐のような、細かいノイズが視界を覆う。リーナには気づかれないよう、表情を変えずに歩を進めた。
「先生、遅かったですね」
「...準備があった。今日は元素魔法の基礎を教える」
ヴァルは祭壇の前に立ち、深呼吸をした。魔力を安定させるのに、以前より集中力が必要だった。手のひらを上に向け、意識を研ぎ澄ませる。次の瞬間、その手の上に小さな炎が灯った。オレンジ色の火が、風もないのに静かに揺れている。
「火は温度差だ。情動は起爆剤にすぎない。燃やすな、温度を置け」
ヴァルは炎を見つめながら説明を続けた。千年前、まだ若かった頃、初めて火の魔法を覚えた時のことを思い出す。あの頃は、ただ破壊することしか考えていなかった。敵を焼き尽くすことだけが、火の魔法の意味だと思っていた。だが、長い時を経て理解した。火は創造の力でもあるのだと。
「温度差が勾配になって流れが生まれる。胸から肩、前腕から掌へ。最後は指腹の一点に発火核を作る」
ヴァルの手のひらで、炎の色が変化した。オレンジから青へ、青から白へ。温度が上がっているのが、離れていても感じられた。熱気がリーナの頬を撫でる。
今度は反対の手を上げる。川から水を引き寄せ、手のひらで球体を作る。透明な水が、完璧な球体を保ちながらゆっくりと回転している。
「水は形状維持の試験だ。張力と回転で保て。回転を与えると形は安定する。速すぎると千切れる」
水球の表面に、朝日が反射してきらめいた。まるで液体の宝石のようだった。リーナは息を呑んで見つめる。理論では知っていたが、こんなに美しいとは思わなかった。
ヴァルは両手を近づけた。火と水が触れ合う寸前で、両者の接触面を斜めにずらした。絶妙な角度調整。長年の経験がなければできない技だった。
「"ぶつける"な。触れる面を斜めにして逃がす。それが蒸気爆発の対策だ」
火と水が触れ合い、細い蒸気の筋が上へと逃げていく。暴発することなく、二つの元素が調和していた。まるで火と水が踊っているようだった。対立する要素が、一つの美しい現象を作り出している。
「対極に見えて、実は同じ『変化』の象徴だ。全ては循環し、形を変えながら存在し続ける」
ヴァルは手を下ろし、リーナを見た。その金色の瞳に、期待と...何か別の感情が混じっていた。
「まず火からだ。手を出せ」
リーナが手を差し出すと、ヴァルはその上に自分の手を重ねた。温かい魔力が流れ込んでくる。昨日よりも、魔力の流れがよく分かる。まるで温かい川が、自分の中を流れているような感覚だった。
「君の中で最も熱い記憶を起爆剤にしろ。だが、感情に呑まれるな。温度を置くだけだ」
リーナは目を閉じた。最も熱い記憶...両親と過ごした最後の誕生日を思い出す。七歳の誕生日。あの日、両親は仕事を休んで、一日中一緒にいてくれた。ケーキのろうそくの火を吹き消す時、両親が優しく微笑んでいた。その一週間後に、両親は帰らぬ人となった。
胸の奥が熱くなる。悲しみと、愛情と、喪失感が混ざり合って、強い熱を生み出す。その熱を、意識的に肩へ、腕へと移動させる。ヴァルの教え通り、温度の勾配を作るように、ゆっくりと手のひらまで導いていく。
「指腹に集めろ。親指と人差し指の間、その一点だ」
意識を集中させる。指の腹に熱が集まってくる。皮膚の下で、何かが弾けそうになる感覚。まるで小さな太陽を指先に宿しているような...
「今だ。解放しろ」
リーナが目を開けると、指先から小さな火が生まれていた。本当に小さな、ろうそくの火ほどの大きさだったが、確かに自分が作り出した炎だった。オレンジ色の火が、震える手のひらで揺れている。
「できた...!火が...!」
喉の奥が乾いて擦れた。声帯が震える。嬉しさと驚きで、言葉が上手く出てこない。
「小さいが、確実に火だ。炎の大きさは問題じゃない。制御できているかが重要だ」
ヴァルはそう言いながら、リーナの火を観察していた。安定している。初めて作った火にしては、驚くほど安定していた。やはり、この子の才能は本物だ。
「次は水だ」
ヴァルは近くの小川へとリーナを導いた。清流が静かに流れている。水音が心地良い。朝日が水面に反射して、きらきらと輝いていた。
「水は火とは違う。熱ではなく、冷静さが必要だ。しかし、冷たいだけでもダメだ。流れを理解し、形を与える」
ヴァルが手を水面にかざすと、水が自然に持ち上がった。まるで見えない器があるかのように、水が空中で形を保っている。
「水面との界面張力を撫でる。そして球化させ、回転で安定させる。支配するのではなく、水と同調しろ。速度を合わせ、呼吸を合わせる」
リーナも手を水面に近づけた。水の冷たさが指先から伝わる。ひんやりとした感触が、火照った手のひらに心地良い。魔力を水に向けて流すと、水面が微かに波打った。
「そう、優しく。水は生き物だ。乱暴に扱えば逃げていく」
リーナは水を撫でるように、ゆっくりと手を動かす。すると、少しずつ水が手のひらに集まってきた。最初は形を保てずに零れ落ちていたが、意識を集中させ、ゆっくりと回転を加えることで、小さな水球ができ始めた。
「できてきた...!」
水球は不安定で、少し気を抜くと崩れそうだったが、それでも確かに浮いていた。透明な球体が、朝の光を受けて虹色に輝く。
「そうだ。ゆっくり回せ。速すぎると遠心力で千切れる。水と対話するように」
水球が少しずつ安定してきた。透明な球体が、手のひらの上で静かに回転している。まるで小さな惑星のようだった。
「最後に、火と水を近づけてみろ。ただし、接触面は必ず斜めにしろ。正面からぶつければ、蒸気爆発を起こす」
リーナは両手をゆっくりと近づけた。右手には小さな火、左手には水球。相反する二つの元素が、少しずつ距離を縮めていく。火を持つ右手を少し傾け、水を持つ左手も角度をつける。
二つが触れ合った瞬間、シュッという音とともに細い蒸気が斜め上に逃げていった。暴発はしなかった。火と水が、一瞬だけ調和して、新しい形へと変化したのだ。
「見事だ。初めてにしては上出来だ」
ヴァルの言葉に、リーナの顔が輝いた。褒められることなんて、もう何年もなかった。学院では常に失敗ばかりで、誰も期待してくれなかった。でも、ヴァル先生は違う。自分を信じてくれている。
「よし。基本は押さえた。風と土は、また別の機会に教える。今日は火と水を使いこなすことに集中しろ」
ヴァルはそう言うと、一瞬よろめいた。すぐに体勢を立て直したが、額に薄い汗が浮いていた。顔色も、朝より悪くなっている気がした。
「先生、本当に大丈夫ですか?」
「...問題ない。公開演習の時間だ。学院へ行け」
「先生は来ないんですか?」
「私も見に行く。離れた場所からだがな」
ヴァルの声に、有無を言わせない響きがあった。リーナは心配だったが、それ以上聞くことはできなかった。
学院への道を歩きながら、リーナは両手を見つめていた。火と水を操った感覚が、まだ残っている。本当に自分が魔法を使えたなんて、信じられない。でも、これは現実だ。今日の公開演習で、みんなに見せることができる。もう「無能」じゃない。そう思うと、足取りが軽くなった。
学院の演習場は、すでに大勢の生徒と教師で埋まっていた。円形の闘技場のような作りで、中央に戦闘用の魔法陣が描かれている。石造りの観客席は階段状になっていて、どこからでも戦いが見えるようになっていた。
司会を務める教師が立ち上がり、杖を掲げた。
「これより公開演習を開始する。第三結界、展開。致傷判定で強制終了。審判は私が務める」
杖の先から光が放たれ、演習場全体を透明な結界が包んだ。これで、致命的な怪我は防げる仕組みだった。とはいえ、痛みは普通に感じるし、軽い怪我くらいはする。あくまで死なない程度の安全装置だった。
「最初の試合は...」
いくつかの試合が行われた。上級生同士の戦いは見応えがあり、観客席からは歓声が上がっていた。リーナは観客席の隅で、じっと見つめていた。みんな、当たり前のように魔法を使っている。詠唱も短く、威力も高い。自分とは雲泥の差だった。
「次は、レオン・ブライトソード対...」
司会の教師が対戦相手の名前を呼ぼうとした時、レオンが手を上げた。
「リーナ・アルフレイドと戦いたい」
場が一瞬、静まり返った。そして、ざわめきが広がる。
「レオン様が、あの落ちこぼれと?」
「また恥をかくだけでしょう」
「時間の無駄じゃない?」
心無い声があちこちから聞こえてくる。リーナは俯きそうになったが、ぐっと顔を上げた。もう昨日までの自分じゃない。
エミリアが心配そうに駆け寄ってきた。その緑の瞳には、不安が満ちていた。
「リーナ、無理しないで...相手はレオンよ?学年最強の」
「大丈夫。やってみる」
「でも...」
エミリアはまだ何か言いたそうだったが、リーナはもう歩き始めていた。
演習場の中央へと足を進める。一歩一歩が重い。観客席から注がれる視線が、針のように刺さる。でも、止まらない。振り返らない。前を見据えて歩く。
レオンはすでに所定の位置に立っていた。金髪が日光を受けて輝いている。端正な顔立ちには、余裕の笑みが浮かんでいた。まるで、結果は分かっているとでも言うように。
リーナとの距離は約十五メートル。魔法戦闘において、最も一般的な間合いだった。近すぎず、遠すぎず。
「始め!」
号令と同時に、レオンが動いた。詠唱もなしに、手のひらから火球が生まれる。それも一つではない。三つの火球が、同時に放たれた。
リーナは昨日習った身体強化を瞬時に発動させた。魔力を足に集中させ、左へ大きく跳ぶ。火球が先ほどまでリーナがいた場所に激突し、轟音とともに地面を抉った。
「避けるのは上手いな」
レオンの目が細まった。面白そうな、それでいて少し真剣な表情になる。
次は連続で炎の矢を放ってくる。ただし、今度は軌道が読みにくい。曲線を描いて飛んでくるものもあれば、途中で加速するものもある。まるで生きているかのように、炎の矢が襲いかかってくる。
リーナは必死に避け続けた。右へ、左へ、時には後ろへ。身体強化のおかげで、普通なら避けられない攻撃も、ぎりぎりでかわすことができた。でも、一本の炎の矢が肩を掠めた。制服が焦げ、皮膚に熱い痛みが走る。
観客席がざわめいた。湿った紙のような、不安定な音が広がる。
「避けてる...リーナが避けてる」
「でも、避けてるだけじゃ...」
リーナは避けながら、指腹に意識を集中させた。朝の訓練を思い出す。温度の勾配を作る。胸から肩、腕から手へ。熱が流れていく。両親の記憶、ヴァル先生の教え、全てを力に変えて。
指腹が痺れる。歯の根が鳴る。それでも前に出る。
震える手を前に突き出した。小さな火の球が、手のひらから生まれた。朝よりも少し大きい。必死の思いが、火に力を与えていた。
「炎球!」
叫びとともに、火球を放つ。リーナの火球は、レオンに向かって一直線に飛んでいく。
レオンは一瞬、目を見開いた。まさか、あの落ちこぼれが魔法を...?しかし、すぐに冷静さを取り戻し、手で軽く払いのけた。リーナの火球は、あっさりと消滅した。
「魔法が使えるようになったのか。面白い」
レオンの表情が変わった。遊びは終わりだ、とでも言うように。
両手を大きく広げる。すると、巨大な炎の壁が生まれた。高さ三メートルはあろうかという炎の壁が、じりじりとリーナに迫ってくる。熱気で息ができない。肌が焼けるような熱さだ。髪が焦げ臭い匂いを放ち始める。
だが、よく見ると炎の色が変化していた。オレンジ色だった炎が、青白く変わっている。レオンは温度を下げて貫通力を上げたのだ。ただ熱いだけの炎ではない。触れれば、確実に貫かれる。
リーナは後退しながら、必死に考えた。どうすれば...そうだ、朝の訓練。火と水は対極じゃない。触れる面を斜めにして逃がす。それなら...
両手を前に出し、水の膜を展開しようと試みた。魔力を冷静に、流れるように広げる。朝のように、水と対話するように。すると、薄い水の層が、リーナの前に現れた。完璧ではない。穴だらけで、今にも崩れそうだ。でも、ないよりはマシだった。
水の膜を斜めの角度にする。炎が水に触れた瞬間、斜め上へと逸れていく。完全には防げないが、直撃は避けられた。蒸気が大量に立ち上り、視界が白く染まる。
「張ってきたか」
レオンの目元がわずかに動いた。初めて見せる、真剣な表情だった。
今度は戦法を変えてきた。足元を狙って熱波を送ってくる。地面すれすれを這うように、熱い空気の塊が迫ってくる。上体ではなく、足取りを崩す狙いだった。これは予想外だった。
リーナは慌てて水の膜を下げようとしたが、間に合わない。熱波が足を直撃し、バランスを崩した。膝をついてしまう。
その隙に、レオンが距離を詰めてきた。一瞬で十メートル以上を移動する。身体強化を極めた者の動きだった。そして、右手に炎の剣を作り出す。オレンジ色の炎が、剣の形を取って燃え上がっている。
「終わりだ」
レオンが炎の剣を振り下ろす。リーナは咄嗟に、両手で火と水を同時に作り出した。もう、理論なんて考えている暇はない。ただ、朝やったことを再現するだけ。
右手に火、左手に水。二つを前に突き出す。すると、不思議なことが起きた。飛翔中の火球が、空気中の水分を吸い寄せ始めた。まるで磁石のように、周囲の湿気が火球に集まっていく。
意図せざる湿潤化が起こり、火球が蒸気の塊となって拡散した。白い蒸気が爆発的に広がり、レオンを包み込む。完全に視界を奪われたレオンは、攻撃を中断せざるを得なかった。
「なんだ、これは...!」
レオンは慌てて後退した。しかし、蒸気の一部が制服に触れ、袖が焦げた。高級な制服が、無残に焼け焦げている。
だが、それがリーナの限界だった。魔力を使い果たし、もう立っていることもできない。膝から崩れ落ち、両手を地面につく。呼吸が荒い。全身から汗が噴き出している。
レオンは蒸気が晴れると、再び炎の剣を作り出した。今度こそ、終わりだ。ゆっくりと近づき、炎の剣を首元に突きつける。熱気がリーナの首を焦がす。
「勝負あり!勝者、レオン・ブライトソード!」
審判の声が響いた。予想通りの結果だった。レオンの完勝。それは誰もが予想した通りの結末。
しかし、観客席の空気が違っていた。
静寂。
誰も何も言えずにいる。あの落ちこぼれが、魔法を使った。それも火と水を同時に。レオンの攻撃を防ぎ、反撃までした。信じられない光景を目撃して、誰もが言葉を失っていた。
やがて、ぽつりぽつりと声が上がり始めた。
「リーナが...魔法を...」
「レオン様の袖が焦げてる...」
「あの落ちこぼれが、レオン様に一撃を...」
レオンは炎の剣を消すと、リーナを見下ろした。その青い瞳に、もう軽蔑はなかった。代わりに、確かな敬意が宿っていた。そして、手を差し伸べた。
「...見直した」
短い言葉だったが、その重みは十分だった。レオン・ブライトソードが、落ちこぼれと呼ばれた少女を認めたのだ。
リーナは震える手でその手を取り、立ち上がった。足がふらつく。でも、倒れない。自分の足で立つ。
「負けたけど...誇らしいです」
頬を一筋、何かが伝った。でも、それは悔し涙ではなかった。嬉しさと、達成感と、そして誇りの涙だった。自分は戦えた。魔法を使って、学院最強のレオンと戦えたのだ。
観客席から、小さな拍手が起こった。一人、また一人と拍手が増えていく。やがて、演習場全体が拍手に包まれた。落ちこぼれと呼ばれた少女に向けての、心からの拍手だった。
医務室のベッドに横たわるリーナは、天井を見つめていた。身体中が痛む。特に肩の火傷が酷い。でも、不思議と心は晴れやかだった。
扉が静かに開き、ヴァルが入ってきた。他に誰もいないことを確認してから、ベッドの横に立つ。その顔色は、朝よりもさらに悪くなっていた。でも、リーナにはそれを指摘する勇気がなかった。
「無茶をしたな」
ヴァルの声は、いつもより少し優しかった。
「でも...戦えました。初めて、戦えたんです」
リーナの顔は、軽い火傷の跡があったが、その目は輝いていた。今までにないほど、生き生きとしていた。
「火と水を同時に使うとは...まだ教えてもいないのに」
「接触面を斜めにって...それを応用してみました。でも、最後は偶然です。火球が勝手に水分を吸って...」
「偶然ではない」
ヴァルが静かに言った。
「君の魔力が、無意識に周囲の水分と共鳴したんだ。火と水の親和性を、本能的に理解している」
ヴァルは一瞬驚いた表情を見せ、それから小さく笑った。口元がかすかに弧を描く。本当に小さな、見逃してしまいそうなほどの笑みだったが、確かに笑った。
「...そうか」
声に温かみが滲んだ。リーナは今まで聞いたことのない、優しい響きだった。千年生きて、初めて見せる心からの笑みだったが、リーナにはそれが分からない。ただ、先生が喜んでくれていることだけは分かった。
「攻撃は一発で足りる。だが守りは"続ける力"だ。明日は"続ける"をやる」
ヴァルはそう言いながら、ふと窓の外を見た。もう夕方だ。時間が経つのが早い。残された時間が、刻一刻と減っていく。
扉が開き、レオンが入ってきた。片手に薬草を持っている。火傷に効く高価な薬草だった。ヴァルを見て、一瞬目を細める。
「君は...」
「ただの見学者だ」
ヴァルが素っ気なく答える。レオンはしばらくヴァルを見つめていたが、何か言いかけてやめた。代わりに、リーナの方を向いた。
「これ、火傷に効く。使え」
薬草を枕元に置く。リーナは驚いた。まさか、レオンが...
「ありがとうございます」
「明日からも頑張れ。お前には...変わった気配がある」
レオンはそう言うと、去り際に振り返った。ヴァルを見つめ、意味深な言葉を残す。
「その師匠によろしく」
扉が閉まった後、ヴァルの顎が微かに動いた。
「彼は...気づいているのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
ヴァルは首を振った。レオンという少年は、思った以上に鋭い。もしかしたら、自分の正体に気づいているかもしれない。だが、今はそれを考えている場合ではなかった。
「もう休め。明日は早い」
ヴァルはそう言い残して、医務室を出て行った。
リーナは一人残され、薬草を手に取った。レオンが持ってきてくれた薬草。認めてもらえた証だ。嬉しさで胸が一杯になる。
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。オレンジ色の光が、医務室を優しく照らしている。今日一日で、自分の世界が大きく変わった。もう「無能」じゃない。魔法が使える。戦える。そして、認めてもらえた。
「ヴァル先生...ありがとうございます」
小さく呟いて、リーナは目を閉じた。疲労が一気に押し寄せてきて、深い眠りに落ちていった。
夜、封印の森の奥。ヴァルは古い大木にもたれかかっていた。一人になった途端、我慢していたものが溢れ出す。激しい咳が込み上げてくる。
「ゴホッ、ゴホッ...!」
手で口を覆うが、咳は止まらない。肺が焼けるように痛い。呼吸をするのも苦しい。ようやく収まった時、手のひらを見ると、赤い血が付いていた。思ったより量が多い。
「予想より早い...か」
カウント「7」での症状としては重すぎる。今日の実演で使った魔力が引き金になったのか。いや、違う。これは呪いが加速している証拠だ。なぜ急に...
膝が一瞬抜けそうになり、その場に座り込む。地面の冷たさが、ローブ越しに伝わってくる。耳の奥で、金属音のような高い音が鳴り続けている。キーンという不快な音。そして、視界全体にノイズが走る。まるで壊れかけたテレビのように、視界がちらつく。
「まだだ...まだ倒れるわけには...」
ヴァルは木の幹を掴んで、なんとか立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らない。千年生きて、こんなに身体が言うことを聞かないのは初めてだった。
「リーナ...」
あの子の成長は、予想を遥かに超えている。たった三日で、ここまで成長するとは。火と水を同時に操り、しかも無意識に融合させた。天才と呼ばれた自分でも、あの年齢では不可能だった。
もしかしたら、あの子は自分を超える逸材かもしれない。いや、確実に超えるだろう。その可能性を秘めている。だからこそ、全てを教え込まなければならない。残された時間で、自分の千年分の知識を...
教会の鐘が鳴り始めた。もうすぐ午前0時。
ヴァルは震える手でローブの前を開けた。紋章が不気味に光っている。今日は特に光が強い。まるで、終わりが近いことを告げているかのように。
鐘が十を打ち切る。紋章の「8」が「7」に落ちた。
同時に、視界全体がざらつき始めた。さっきまでのノイズとは比べ物にならないほど酷い。まるで砂嵐の中にいるような、不快な感覚。そして、激痛が走った。胸を鋭い刃物で刺されたような痛み。
「ぐっ...!」
ヴァルは地面に倒れ込んだ。呼吸が苦しい。心臓が不規則に脈打つ。これは...本当にまずい。
「あと七日...いや、実質六日か...」
このペースだと、カウント「3」か「4」で完全に動けなくなる。それまでに、最低限のことは教えなければ。防御魔法、感知魔法、回復魔法...まだまだ教えることは山ほどある。
ヴァルは這うようにして、森の奥にある隠れ家へと向かった。古い樹の洞穴を利用した簡素な住処。そこに辿り着くと、壁にもたれかかって座り込んだ。
「明日は...防御魔法だ」
守ることの大切さを教えなければならない。リーナは優しい子だ。きっと、誰かを守るために魔法を使うだろう。だから、しっかりとした防御を教えなければ。
「持ちこたえる...必ず...」
ヴァルは目を閉じた。体力を温存しなければ。明日、また元気な姿であの子の前に立つために。たとえそれが嘘でも、最後まで師匠としての威厳を保たなければ。
千年生きて、初めて「時間が足りない」と感じている。永遠に近い時を生きてきたのに、この十日間が、人生で最も貴重な時間に思える。皮肉なものだ。
でも、後悔はない。最後に、素晴らしい生徒に出会えた。自分の全てを託せる、本物の逸材に。それだけで、千年生きた価値があった。
「リーナ・アルフレイド...君は私の最高傑作になる」
ヴァルは小さく笑った。血の味が口の中に広がったが、それでも笑った。
一方、学院の寮では、リーナが目を覚ましていた。レオンの薬草のおかげで、火傷の痛みはかなり和らいでいた。
ベッドから起き上がり、窓の外を見る。満天の星空が広がっていた。どこかで、ヴァル先生も同じ空を見ているのだろうか。
「先生...」
どうして先生は、あんなに顔色が悪いのだろう。今日も、何度か苦しそうにしていた。病気なのだろうか。それとも...
リーナは首を振った。考えても仕方ない。自分にできることは、先生の教えをしっかりと身につけることだけだ。明日は防御魔法を習うという。守る力。それは、自分が一番欲しかった力だ。
両親を守れなかった。七歳の時、何もできずにただ見ているしかなかった。でも、もう違う。明日、守る力を手に入れる。誰かを守れる、本当の魔法使いになる。
「明日も、頑張ろう」
リーナは布団を被り直した。明日は四時に起きよう。いや、三時半に起きよう。先生より早く森に着いて、自主練習をしよう。火と水の制御を、もっと上手くなろう。
窓から差し込む月明かりが、リーナの決意に満ちた表情を照らしていた。
翌朝の森には、張っては畳む薄膜の音が、早くも微かに鳴り始めるだろう。新たな一日が、新たな成長が、そこには待っている。




