第2話 立つことから始めよう
早朝四時、リーナは目を覚ました。窓の外はまだ真っ暗だったが、眠気は全く感じなかった。昨夜の興奮がまだ身体中に残っている。手のひらを見つめると、微かに温かさが残っていた。魔力の残滓だ。昨日のは夢じゃなかった。本当に、自分にも魔力があったんだ。
急いで着替えを済ませ、寮を抜け出す。朝霧が立ち込める中、封印の森へと走った。足取りは軽い。今日は何を教えてもらえるのだろう。期待で胸が高鳴る。
森の入り口に着いたのは四時四十五分。まだ約束の時間には早いが、もう待ちきれなかった。朝霧に包まれた森は昨夜とはまた違った雰囲気で、神秘的な美しさがあった。祭壇のある広場へと急ぐ。
広場に着くと、すでにヴァルが待っていた。黒いローブ姿で祭壇に腰掛け、腕を組んでいる。リーナの姿を認めると、眉をひそめた。
「遅い。五分前行動が基本だ」
「す、すみません!でも、まだ五時前では...」
「私はもう三十分前から待っている。教わる側が教える側を待たせるなど、論外だ」
リーナは慌てて頭を下げた。確かにその通りだった。教えてもらう立場なのに、甘えていた。心の中で、明日はもっと早く来ようと決意する。
「今日は走る」
ヴァルが唐突に言った。リーナは目を瞬かせる。
「え?魔法の練習じゃ...」
「魔法は身体が資本だ。貧弱な器には力は宿らない」
ヴァルは立ち上がり、森の奥を指差した。
「あの木まで走れ。全力でだ」
指差された先には、百メートルほど離れた大木があった。リーナは戸惑いながらも頷き、走り始めた。しかし、五十メートルも走らないうちに息が上がってきた。足がもつれ、呼吸が乱れる。なんとか大木まで辿り着いたが、膝に手をついて肩で息をしていた。
「基準外だ。これでは前線の空気を一息で吸えん」
ヴァルの冷たい声が響く。
「もう一度だ」
「は、はい...」
リーナは荒い呼吸を整えようとしたが、ヴァルは待ってくれなかった。
「今すぐだ」
仕方なく、また走り始める。今度は最初から足が重い。半分も行かないうちに、足がもつれて転んでしまった。膝と手のひらを擦りむく。皮膚が熱を持つ。
「立て」
ヴァルの声に感情はない。リーナは震える足で立ち上がった。
「魔力は生命力だ。身体が弱れば魔力も弱る。逆に言えば、身体を鍛えれば魔力も強くなる」
ヴァルはリーナに近づき、その肩に手を置いた。途端に、身体中に力が湧いてきた。疲労が嘘のように消え、呼吸が整う。
「これは...?」
「魔力を使った身体強化だ。君も同じことができるようになる」
ヴァルは手を離し、再び大木を指差した。ここからが本当の訓練の始まりだった。まず、魔力を足に流す基本から教え込まれる。
「力むな。落とせ。高所から低所へ水が落ちる——それが魔力だ」
リーナは目を閉じて、昨日感じた魔力の流れを思い出した。胸骨の裏で温度が変わる。その温かさを、重力に任せて太腿へと"落とす"。最初は上手くいかなかった。魔力は胸の辺りでうろうろするばかりで、足まで届かない。
「肩の力を抜け。魔力に方向を与えるだけでいい」
ヴァルの助言を聞いて、リーナは深呼吸した。魔力を無理に押し込むのではなく、ゆっくりと導くように意識する。すると、じわじわと温かさが太腿に広がり始めた。膝、ふくらはぎ、足首まで、ゆっくりと熱が降りていく。
「今だ。走れ」
リーナは目を開けて、地面を蹴った。足が信じられないほど軽い。一歩一歩が今までの倍以上の距離を進む。風を切って走る感覚に、喉の奥が熱くなった。あっという間に大木に到達した。息も全く上がっていない。
「起動はできた。"維持"ができて初めて一歩だ」
ヴァルの言葉は相変わらず厳しかったが、その口元には微かな満足の色があった。
次の段階は跳躍だった。ヴァルが指差したのは、地上三メートルほどの高さにある太い枝だった。普通なら絶対に届かない高さだ。
「無理です!そんな高いところ...」
「"無理"は事後に使え。判定は試行の後だ」
ヴァルは軽々と跳び上がり、枝に着地して見せた。重力を無視したような動きだった。
「足底に一点。そこだけを世界にする。——今、爆ぜろ」
リーナは言われた通り、足の裏の一点に魔力を集めた。ぎゅっと圧縮するように力を込める。膝を曲げ、思い切り地面を蹴った。身体が浮いた。一メートル、二メートル...しかし、枝には届かず、地面に落ちた。着地に失敗して尻もちをつく。尾骨に鈍い痛みが走る。
「集中が甘い。もっと一点に魔力を集めろ」
何度も挑戦した。転んでは立ち上がり、また挑戦する。手のひらと膝は土と擦り傷だらけになった。それでも諦めなかった。昨日、初めて魔力を感じた時の感動が、リーナを突き動かしていた。
太陽が昇り始めた頃、ついに指先が枝に触れた。
「あと少し...!」
「"あと少し"ではなく、"必ず届く"と思え。意志が力になる」
ヴァルの言葉を胸に、リーナは深呼吸をした。足の裏の一点に全神経を集中させる。世界がその一点に収束していく感覚。全身のバネを使って跳躍した。身体が大きく宙に舞った。枝が目の前に迫ってくる。手を伸ばし、しっかりと掴んだ。そのまま身体を引き上げ、枝の上に立つ。
「できた!」
下を見下ろすと、信じられない高さにいた。風が頬を撫でる。朝日が森を金色に染めていく。唇の端が勝手に上がる。喉が熱い。
「これが君の本来の力の一%にも満たない」
ヴァルの声が下から聞こえた。
「一%...?」
「そうだ。君の中にはまだ九十九%以上の力が眠っている」
リーナは枝から飛び降りた。身体強化のおかげで、着地も軽やかだった。
次は維持の訓練に移った。木から木へ飛び移りながら、魔力を途切れさせないようにする。
「呼吸と同じにしろ。吸って、吐く。そのあいだ切らすな」
最初は隣の木に飛び移るだけでも精一杯だった。魔力の維持が難しい。集中が途切れると、身体強化が解けて普通の身体能力に戻ってしまう。何度も失敗した。木から落ちそうになり、ヴァルに助けられることもあった。それでも少しずつ、魔力を維持する時間が延びていく。
途中で、水平方向への連続跳躍も練習した。地面を蹴って十メートル、二十メートルと距離を伸ばしていく。着地と同時に次の跳躍へ移る連続動作に、リズム感が必要だった。木から木へ、まるで森の動物のように飛び移れるようになってきた頃、太陽は高く昇っていた。
正午が近づき、空腹を感じ始める。すると、ヴァルが懐から何かを取り出した。手のひらで軽く宙を撫でると、木箱が現れた。
「えっ?」
驚くリーナの前に、温かい料理が並んでいる。肉料理、煮物、新鮮な野菜、それに白いご飯。どれも湯気が立っていて、作りたてのようだった。
「『携行庫』からだ。昨日のうちに仕込んだ。創造じゃない」
ヴァルが素っ気なく答える。
「携行庫?」
「個人の保管空間だ。時間の流れが止まっているから、温かいまま保存できる」
リーナは戸惑いながらも、差し出された弁当を受け取った。一口食べると、驚くほど美味しかった。高級レストランの料理のような深い味わいだ。
「美味しい...!先生は料理もできるんですか?」
「時間をかければ、誰でもできる」
ヴァルは遠くを見るような目をした。その表情に、一瞬何かが滲んだ。しかし、すぐにいつもの無表情に戻った。
「先生は、どこで魔法を習ったんですか?」
リーナが何気なく聞くと、ヴァルの箸が一瞬止まった。
「...独学だ」
短い答えだった。それ以上は語らなかった。
昼食を終えると、最も過酷な訓練が待っていた。ヴァルが案内したのは、森の奥にある十メートルほどの崖だった。垂直に近い岩肌が、リーナを見下ろしている。
「これを...登るんですか?」
「駆け上がれ」
「駆け上がる!?」
リーナは崖を見上げた。とても駆け上がれるような角度ではない。
「"壁"と呼ぶから難しくなる。今は"地面"だ。走れ」
ヴァルは実演して見せた。崖に向かって走り、そのまま壁を駆け上がっていく。地面を走っているかのように軽やかに。あっという間に頂上に立ち、下を見下ろした。
「さあ、君の番だ」
リーナは深呼吸をした。壁は地面。世界の向きを付け替えるだけ。足に魔力を集中させ、崖に向かって走り出した。壁に足をつけた瞬間、身体が後ろに倒れそうになった。慌てて手をついて体勢を立て直す。
「違う!前に倒れるくらいの勢いで行け!」
ヴァルの声を聞いて、リーナは恐怖を振り払った。もう一度挑戦する。今度は思い切り前のめりになるように壁に飛びついた。一歩、二歩、三歩...五歩目で重力に負けて落ちた。
「もっとだ!君の器はそんなものじゃない」
ヴァルの叱咤が飛ぶ。リーナは土埃を払いながら立ち上がった。膝が震えている。でも、唇の端が勝手に上がった。ヴァル先生が自分に期待してくれている。その期待に応えたい。
夕方になる頃、リーナはついに崖の頂上に立っていた。駆け上がるというより、這い上がるに近かったが、それでも自力で登り切った。頂上から見る景色は壮大だった。森全体が見渡せ、遠くに王都の城壁も見える。
「合格圏に指先が触れた。次で掴め」
ヴァルが言った。初めて聞く、認めるような言葉だった。
「私、今日初めて"できる"って思いました」
リーナは汗と土で汚れた顔で言った。声帯が擦れて、言葉がひっかかる。
「今までずっと、何をやってもダメで...でも今日、崖を登れた。私にもできるんだって...」
「強さは天賦じゃない。回数だ。倒れた数と、立った数の比率だ」
ヴァルが静かに言った。
「今日、君は何度転んだ?」
「数えきれないくらい...」
「そして何度立ち上がった?」
「...同じ数だけ」
「それが強さだ」
ヴァルの言葉が、リーナの胸に深く響いた。
「脈が乱れ、耳が鳴り、指が痺れたら解除しろ。続ければ壊す」
ヴァルが付け加えた。魔力の使いすぎによる危険の兆候だった。リーナは頷いて、その言葉を胸に刻む。
夕暮れ時、二人は森を出て王都への道を歩いていた。リーナのふくらはぎに微熱が残り、脈が浅く跳ねている。全身が程よい疲労に包まれていた。
「明日はもっと厳しいぞ」
ヴァルが言った。
「はい!楽しみです!」
その時、ヴァルがわずかによろめいた。本当に一瞬のことで、すぐに体勢を立て直したが、リーナは見逃さなかった。
「大丈夫ですか?」
「...なんでもない」
ヴァルはすぐに歩き始めた。でも、その足取りがほんの少しだけ重いような気がした。
王都の門をくぐり、別れの時間が近づいてきた。教会の鐘楼が闇に浮かび上がる。もうすぐ午前0時だ。鐘が鳴り始めた。一つ、二つ、三つ...
鐘が十を打ち切る。紋章の「9」が「8」に落ちた。
ヴァルの胸元で、一瞬光が煌めいた。リーナには見えなかったが、カウントダウンは確実に進んでいる。
「明日も五時に」
「はい!今度はもっと早く行きます!」
リーナは元気に答えて寮へと走っていった。その後ろ姿を見送りながら、ヴァルは小さく呟いた。
「もう始まっているのか...」
膝の違和感が、先ほどより強くなっている。呪いの進行が予想より早い。でも、まだ八日ある。この子を一人前にするには十分な時間だ。
森へ戻る道すがら、ヴァルは今日のリーナを思い返していた。何度転んでも立ち上がる姿。できた時の純粋な反応。千年という時間の中で、忘れてしまったものがあまりにも多い。
祭壇の前に立ち、夜空を見上げる。今日のリーナは、期待以上の成長を見せた。身体強化の基礎を一日でここまで習得するとは。やはり、あの子の器は特別だ。明日は元素魔法。火と水、風と土。基本中の基本だが、これができれば戦える。レオンという生徒との模擬戦があるらしい。ちょうどいい実践の場になるだろう。
「リーナ・アルフレイド...君は私を驚かせ続ける」
月明かりの下、紋章の「8」が冷たく光っている。ヴァルはローブを羽織り直し、森の奥へと消えていった。明日もまた、過酷な訓練が待っている。しかし、今日のリーナを見る限り、きっと乗り越えてくるだろう。あの純粋な瞳を曇らせないために、自分は全てを教え込む。それが、千年生きた魔王の、最後の使命だ。




