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第1話 無能と最強の出会い

 

 魔法陣が、今日も光らなかった。

 王立オルディス魔法学院の実技試験会場で、リーナ・アルフレイドは震える手で杖を握りしめていた。石造りの床に描かれた魔法陣の中央に立ち、必死に詠唱を続ける。他の生徒たちの魔法陣が次々と輝きを放つ中、彼女の足元だけが、ただの線画のまま沈黙していた。


「我が前に現れよ、灼熱の...」


 言葉は完璧だった。理論も完璧に理解している。魔法陣の描き方も、教科書通りだった。それなのに、何も起こらない。


「時間切れです」


 試験官のため息が聞こえた。羊皮紙に何かを書き込む音。周囲からくすくすという笑い声が漏れる。


「23連続失敗...新記録ですね」


 誰かがそう呟いた。リーナは俯いたまま、奥歯を噛んだ。唇の内側に鉄の味が広がる。膝が小刻みに震え始めたのを、必死で抑え込む。


 同じ頃、学院の正門に一人の青年が立っていた。銀髪が午後の日差しを受けて、月光のように輝いている。金色の瞳で学院の建物を見上げる青年は、黒いローブに身を包み、ゆったりとした足取りで中へと入っていった。千年を生きた魔王ヴァルハートにとって、この場所は初めて足を踏み入れる場所だった。胸元で、紋章が静かに「10」を示していた。


 試験が終わり、生徒たちが散っていく中、リーナは一人、試験会場に残されていた。


「リーナ・アルフレイド」


 振り向くと、学院長のメルヴィンが立っていた。飄々とした普段の表情ではなく、珍しく真剣な顔をしている。


「学院長室へ来なさい」


 重い足取りで廊下を歩く。石畳を踏む音が、やけに大きく響いた。廊下で待っていたのは、栗色の髪を三つ編みにした少女、エミリア・ローゼンハイムだった。


「リーナ!どうだった?今度こそ...」


 エミリアの期待に満ちた表情が、リーナの顔を見て曇る。瞳孔が僅かに収縮し、口元が強張った。


「そう...また、ダメだったの」


「うん...」


 リーナは小さく頷いた。エミリアの手がそっと伸びてきて、リーナの指先に触れた。温かい。


 学院長室での会話は短かった。


「来月の定期試験で、一つでも魔法が使えなければ退学です」


 メルヴィン学院長の言葉に、感情の色はなかった。ただ事実を告げる、無機質な声。


「理論の成績は学年トップです。しかし、実技が全くできないのでは、魔法使いとは言えません」


「でも、私...」


「リーナ・アルフレイド。君の両親は優秀な魔法使いだった。その血を引く君に才能がないはずがない。しかし、結果が全てです」


 リーナは何も言い返せなかった。喉の奥が熱く焼ける。視界の端が滲み始めるのを、瞬きで誤魔化した。


 学院長室を出ると、エミリアが心配そうな顔で待っていた。


「リーナ...」


「ごめんね、エミィ。もうダメみたい」


 リーナは口角を持ち上げた。頬の筋肉が引き攣る。エミリアの瞳に水膜が張った。


「そんなことない!きっと何か方法があるはず!私も手伝うから...」


「ありがとう。でも、もういいの」


 リーナはエミリアの手を優しく振りほどくと、一人で歩き始めた。


 学院の中庭は、夕方の柔らかな光に包まれていた。噴水のほとりに座り込む。石の冷たさが、スカート越しに太腿に伝わった。もう誰もいない中庭で、肩が小刻みに震え始める。噴水の水音に紛れて、嗚咽が漏れた。


「お母さん、お父さん...私、何の才能もないみたい」


 視界が完全に歪んだ。頬を伝う熱いものを、拭うこともできずに俯く。


「泣いている暇があったら、練習したらどうだ」


 顔を上げた。いつの間にか、目の前に青年が立っていた。銀髪が夕日に照らされて燃えるように輝いている。金色の瞳が、じっとリーナを見下ろしていた。その視線に感情は読み取れない。


「で、でも私には才能が...」


 慌てて袖で顔を拭う。頬が熱で痺れた。


 青年は鼻で笑った。


「才能?くだらん。必要なのは正しい方法だけだ」


「正しい方法って...でも、先生たちがどんなに教えてくれても、私には...」


「"先生"を名乗るなら、まず見えることだ。見えぬ目には教える資格がない」


 青年の言葉は鋭く、容赦なかった。リーナは息を呑んだ。


「君を10日で最強にする」


 青年は唐突にそう宣言した。リーナは瞬きを忘れた。口が僅かに開く。


「そんなの無理です!私、魔法が一つも使えないんです。炎も、水も、風も、何も...」


「不可能の判定は、試行の後にしろ」


 青年の瞳に、揺るぎない確信があった。まるでリーナの中に、既に答えを見ているような眼差し。その時、青年の胸元で何かが微かに光った。ローブの隙間から、淡い燐光が漏れている。


「あの、あなたは...」


「ヴァル...いや、ただの旅の魔法使いだ」


 青年は一瞬言いよどんでから、そう答えた。


「私みたいな落ちこぼれを、どうして...」


「落ちこぼれ?違うな」


 青年は首を振った。


「君は落ちこぼれじゃない。ただ、誰も君の本当の力を引き出す方法を知らないだけだ」


 胸の奥で、何かがざわついた。鼓動が早くなる。


「本当に...私にも魔法が使えるようになりますか?」


 声帯が震えた。希望と恐れが喉元でせめぎ合う。


「理由は要らん。結果だけ持って来い」


「...お願いします。教えてください」


 リーナは立ち上がり、深く頭を下げた。髪が顔を覆い隠す。


「よし。ならば、ついて来い」


 青年は踵を返し、歩き始めた。リーナは慌ててその後を追う。


 封印の森に入ると、空気の密度が変わった。濃密な魔力が肌を撫でる。リーナの肩が無意識に内側へ縮こまった。


「怖いか?」


 青年が振り返らずに聞いた。


「少し...でも、大丈夫です」


 舌が上顎に張り付いた。呼吸が浅くなる。


 森の奥深く、古い祭壇のある広場に辿り着いた。苔むした石造りの祭壇が、薄闇の中で静かに佇んでいる。


「ここで訓練を行う」


 青年は祭壇の前で立ち止まり、リーナの方を向いた。


「まず、魔力を感じることから始める」


「でも、私、今まで一度も...」


「だから失敗するんだ。魔力を感じられない者に、魔法が使えるはずがない」


 青年は手を前に出した。次の瞬間、掌に小さな光の球が現れた。詠唱も、魔法陣も、何もなしに。リーナの呼吸が止まった。無詠唱での魔法発動。達人級でも困難とされる技術。


「これが魔力だ。見えるか?」


「はい...光って見えます」


「違う。これは魔力が光の形を取っているだけだ。本当の魔力は、もっと根源的なものだ」


 青年は光の球を消すと、リーナに向き直った。


「目を閉じろ」


 リーナは言われた通り目を閉じた。瞼の裏に残光が踊る。


「呼吸を整えろ。吸って、止めて、吐く。規則正しく」


 深呼吸を繰り返す。肺が膨らみ、縮む。血流が落ち着いていく。青年の声が静かに続く。


「自分の中心を見つめろ。胸の奥、もっと深いところだ」


 意識を内側に向ける。暗闇の中を手探りで進むような感覚。何も見えない。何も感じない。ただ自分の鼓動だけが響いている。


「川の流れを想像しろ。君の中を流れる、見えない川だ」


 川...小さい頃、両親と見た清流を思い浮かべる。水面のきらめき、せせらぎの音。でも、自分の中にそんなものは感じられない。


「いま胸骨の裏。指一本ぶん沈め。そこだ──微温い潮が触れたろ」


「...いえ、何も」


「焦るな。諦めるな」


 青年の声が、静かに、しかし力強く響いた。


「君の中には確実に魔力がある。私には見える。膨大な、海のような魔力が」


「海のような...?」


「そうだ。ただ、深すぎて君自身が気づいていないだけだ。もう一度だ。今度は川ではなく、海を想像しろ。深い、深い海の底だ」


 リーナは再び意識を沈めた。海...どこまでも続く青い深淵。光の届かない、静寂の世界。青年の声に導かれるように、意識がどんどん深く潜っていく。


「もっと深く。もっと、もっと深く潜れ」


 意識が沈んでいく。深く、深く、底知れぬ暗闇へ。どれくらいの時間が経ったのか。ふと、何かが指先に触れた。温かい...いや、微温い。ゆらゆらと、確かに何かが流れている。


「あ...」


 喉から小さな音が漏れた。


「感じたか」


 青年の声に、初めて満足の色が滲んだ。


「手を出せ」


 リーナが目を開けて手を差し出すと、青年はその上に自分の手を重ねた。途端に、体内で何かが弾けた。温かい──いや、熱い力が流れ込んでくる。今まで感じていた微かな流れが、急流となって全身を駆け巡る。心臓が激しく脈打つ。指先まで熱が広がる。


「これが魔力の共鳴だ。他者の魔力に触れることで、自分の魔力も活性化する」


 青年が手を離すと、リーナの手のひらに小さな光が灯っていた。蛍火のような、儚い光。でも確かに、それは魔力が形を成したものだった。


「できた...私、魔法が...」


 目頭が熱くなる。唇が震えた。


「最低限だ。だが"ゼロではない"──この差は世界を割る」


 青年の表情は相変わらず厳しかったが、口元に微かな弧が描かれていた。


 時間はいつの間にか夜になっていた。


「今日はここまでだ」


「え?でも、もっと...」


「焦るな。魔力を初めて認識した君の身体は、今、大きな変化を起こしている。無理をすれば壊れる」


 足の指先まで熱が残っていた。脈が不規則に跳ねる。確かに、身体の奥で何かが組み替わっているのを感じる。


「あの、明日も...教えてくれますか?」


「10日間だ。1日も無駄にはできない」


「はい!頑張ります!」


 顔の筋肉が自然に動いた。今日初めて、心から笑えた。


 森から王都への帰り道、リーナは何度も自分の手を見つめた。光は消えていたが、魔力の感覚は皮膚の下に残っていた。


「あの...お名前を聞いてもいいですか?」


「...ヴァルでいい」


「ヴァル先生...」


 青年の眉が僅かに動いた。


「先生か...久しぶりだな、そう呼ばれるのは」


「前にも誰かに教えていたんですか?」


「...昔の話だ」


 王都の門が見えてきた。教会の鐘楼が闇に浮かんでいる。突然、ヴァルが立ち止まった。月光が雲間から射し込む。


「もうすぐ午前0時か...」


 遠くから、鐘の音が聞こえてきた。一つ、二つ、三つ...十の音が鳴り終わった瞬間──鐘が十を打ち切る。紋章の「10」が、「9」に落ちた。


 ヴァルの胸元で、淡い光が一瞬だけ煌めいた。リーナは目を凝らしたが、すぐに光は消えた。


「えっ!?今、何か...」


「なんでもない。五時、森。遅刻一分ごとに罰百回。走って来い」


 ヴァルはそう言い残すと、夜の闇へと消えていった。歩き去る瞬間、ほんの一瞬だけ、足取りがよろめいたような気がした。でも、暗闇の中ではっきりとは見えなかった。


 リーナは首を傾げながら、寮への道を急いだ。布団に潜り込んでも、興奮で寝付けなかった。手のひらを何度も見つめる。指を曲げ伸ばしすると、微かに魔力の残滓を感じる。本当に、自分にも魔力があったんだ。


 一方、封印の森の奥深く。ヴァルハートは祭壇の前に立っていた。月明かりの下、ローブを脱ぐ。胸元の紋章が、冷たく「9」を刻んでいる。


「面白い子だな、リーナ・アルフレイド」


 まさか、あれほど深い魔力の海を持つ者がいるとは。普通の教師なら、永遠に気づけなかっただろう。千年を生きた自分だからこそ、あの深淵を感じ取れた。


「10日間か...いや、もう9日だ」


 膝に一瞬、違和感が走った。呪いの侵食が、既に始まっている。明日は身体強化。あの貧弱な身体を、どこまで引き上げられるか。


「リーナ...君は私の最後の生徒だ。せいぜい、期待に応えてもらおうか」


 ヴァルは夜空を見上げた。千年前と変わらない星々。しかし、自分の時間は確実に終焉へ向かっている。限りがあるからこそ、全てを注ぎ込める。千年分の知識と、技術と、そして──


「感傷は不要だな」


 ヴァルは闇夜に溶け込んでいった。こうして、最強の魔王と無能の少女の、10日間の物語が始まった。誰も知らない森の奥で、誰も想像できない奇跡が、静かに芽吹き始めていた。

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