第27話:初めての街、拒絶の門
意識が浮上する。
触覚も味覚もない世界への帰還。あるのは骨格を伝う微かな振動と、死の気配を捉える霊的知覚だけだ。綾城透真は、アバター『TŌRMA』として忘却の墓所に再びログインした。
周囲を満たすのは、ひんやりとした石と乾いた土の匂い――否、匂いを感じる嗅覚もない。
ただ、脳が過去の記憶から「墓所とはこういうものだ」という情報を補完しているに過ぎない。現実での肉体を枷だと感じることがあっても、五感を失って初めて、その情報量の豊かさを思い知る。皮肉なものだ。
石櫃の間に満ちる静寂は、死そのものだった。
ここはTŌRMAにとって揺り籠であり、拠点でもある。己が骨を自在に変形させるスキル《骨律操作》の源泉は、この墓所に眠る無数の骨の記憶。スキルツリーの根源がここに繋がっている感覚があった。
「……」
無言で立ち上がり、己の身体を見下ろす。五臓六腑も血肉も存在しない、剥き出しの骸骨。一週間かけてようやく最低限の動作に慣れたこの身体は、およそ生命とは言い難い。だが、確かに「ここ」に存在している。その事実だけが、透真の虚ろな自己肯定感を僅かに満たしていた。
その静寂を破ったのは、唐突に響いた硬質な足音だった。
コツ、コツ、とリズミカルに響く音は、石櫃の間の入り口から近づいてくる。TŌRMAはゆっくりとそちらへ頭蓋を向けた。墓所の奥深くに侵入してくる存在など、アンデッド系のモンスターくらいしかいないはずだ。
だが、暗がりから姿を現したのは、アンデッドではなかった。
「……TŌRMAさん。お邪魔します」
静謐な声。
闇の中に、まずエメラルドの瞳が二つ、星のように浮かび上がった。続いて、金褐色の肌と漆黒の長髪を持つ少女が、その神秘的な姿を現す。
ラーイラ・アシュ・ナメル――アバター名『Sarira』。
彼女が持つ独特の雰囲気は、この死臭漂う墓所の中ではあまりにも異質で、それゆえに強く印象に残った。
Sariraの傍らには、彼女がテイムした巨大なモンスターが控えている。ワンボックスカーほどの巨体を持つ『星の蠍』。青黒い甲殻は鈍い光沢を放ち、幾多の複眼が不気味に蠢いている。その威容は墓所の狭い通路を圧迫していた。
「Sariraか。なぜここに?」
TŌRMAの声は、声帯の震えを伴わない、骨が擦れるような無機質な音として響く。感情の起伏を意図的に排した、いつもの声だ。
「今日は、一緒に探索へ行きたいと思っていました。TŌRMAさんの時間が許すのであれば、ですが」
Sariraは星の蠍の頭の上にするりと登ると、そこにちょこんと腰を下ろした。少女の華奢な体躯と、巨大なモンスターの対比が奇妙な調和を生んでいる。
「探索……か。目的は?」
透真の思考は常に論理的だ。行動には目的が伴う。情報収集、素材採取、あるいはエピソードの攻略。ただぶらつくだけの時間は、彼にとって無価値に等しい。
「目的、ですか。そうですね……」
Sariraは少しだけ宙を見つめ、それから微笑んだ。謎めいた雰囲気を持つ彼女だが、その表情は意外と豊かだ。
「まだ、見たことのない景色を、見に行きたいのです。この世界は、とても広いから」
見たことのない景色。
その言葉は、TŌRMA――綾城透真の心の奥底にある空虚な部分を微かに揺さぶった。大手企業に勤め、論理とデータに囲まれる日々。そこには新しい発見こそあれど、「見たことのない景色」に胸を躍らせるような初心な感傷はとうに失くしていたが……。
デメリット『情動抑制』は、感情の高ぶりを強制的に抑えつける。だが、完全に感情が消えるわけではない。閾値を超えない限り、それは静かな澱のように心の底に溜まっていく。
「……わかった。行こう」
TŌRMAの短い承諾に、Sariraは嬉しそうに頷いた。
忘却の墓所を一歩出ると、そこは鬱蒼とした森が広がっていた。
陽の光が届かないほどに木々が密集し、地面には青白く発光する苔が絨毯のように広がっている。空気が淀み、時折、名状しがたい獣の呻き声のようなものが遠くから響いてくる。
TŌRMAは触覚がないため、湿った腐葉土の感触も、肌を撫でる風も感じない。ただ、スキル《終焉同調》が、森に漂う無数の「死の気配」を敏感に拾い上げていた。
朽ちていく木々、捕食されて命を終えた小動物、そして、この森で斃れたであろうモンスターの残滓。それらの情報が、ノイズ混じりの奔流となって流れ込んでくる。
(忘却の墓所より情報量が多すぎる。だが、危険の察知には役立つか)
一方、Sariraは巨大な星の蠍の上で、周囲を興味深そうに見回していた。
彼女のデメリット《星の囁き》は、時折、外宇宙からの囁きを彼女に聞かせ、正気度を蝕むという。だが同時に、それは超常的な存在との交感イベントを呼び込むという。この不気味な森も、彼女の目には違ったものとして映っているのかもしれない。
「TŌRMAさん、あちらへ」
Sariraが指さしたのは、森の僅かな切れ間だった。木々の密度が低く、微かに光が差し込んでいる。
星の蠍が巨体に似合わぬ静かな足取りで進み、TŌRMAもそれに続く。発光する苔を踏みしめるたび、胞子のような光の粒子が舞い上がるが、音はほとんどしない。
しばらく進むと、森の様相は徐々に変化していった。淀んだ空気は澄み渡り、不気味な獣の声は小鳥のさえずりへと変わる。まるで世界の境界線を越えたかのように、風景が反転していく。
そして、不意に視界が開けた。
延々と続くと思われた森が、崖のような地形でぷっつりと途切れている。その崖下には、新しい光景が広がっていた。
「……街、か」
TŌRMAの骨の顎が、無意識にカタリと音を立てた。
眼下に広がるのは、白亜の壁に囲まれた巨大な都市だった。
幾何学的なデザインの建物が整然と立ち並び、その中心には天を突くほどの巨大な展望台が聳え立っている。展望台のドームは特殊なガラスか鉱物でできているのか、太陽の光を反射して七色に輝いていた。
街全体が清潔で、活気に満ちている。道行く人々――おそらくはプレイヤーやNPCだろう――の姿も豆粒のように見えた。
あれが、デメリットを持たない、あるいは軽微なプレイヤーたちがスタートする「街」。
自分のような異形のアバターには縁のない世界。
「綺麗……」
Sariraがぽつりと呟いた。彼女の瞳は、街並みそのものよりも、天に伸びる巨大な展望台に釘付けになっている。
星を観測するための施設は特別な意味を持つのかもしれない。
「展望台の街か……」
「行ってみましょう。何か、面白い発見があるかもしれません」
Sariraの提案に、TŌRMAは一瞬躊躇した。
自分たちの姿を客観的に見る。全身骸骨のアンデッドと、巨大な毒蠍に乗った異邦の少女。およそ、あの平和な街に歓迎される容姿ではない。
掲示板の情報によれば、異形系アバターや3つ以上のデメリット持ちアバターに対するNPCの反応は決して良くないと聞く。
だが、ここで引き返すのも癪だった。
このゲームは、プレイヤーに多種多様なロールプレイを許容しているはずだ。ならば、街に入る権利くらいは……。
それに、透真自身、あの街に興味を惹かれていた。自分がいる死の世界とは対極にある、生の活気に満ちた場所。そこに何があるのか、この目で見たいという欲求が、論理的な思考を上回った。
「……ああ。行ってみよう」
崖を迂回し、街へと続く街道に出る。
街道は綺麗に舗装されており、時折、商人風のNPCや、いかにもNPCらしいパーティがこちらを胡乱な目で見ながら通り過ぎていく。彼らはTŌRMAたちの姿を認めると、一様に驚愕の表情を浮かべ、蜘蛛の子を散らすように道を空けた。好奇の視線、怯え、そして侮蔑。デメリット『知覚共有』が、彼らの負の感情を希釈された毒のようにTŌRMAに伝えてくる。
(想定通り、か。だが、これほどとはな)
現実世界で人付き合いが希薄だった透真にとって、これほどあからさまな敵意を向けられる経験は新鮮ですらあった。
彼は感情を押し殺し、淡々と前を見据えて歩き続ける。Sariraは周囲の反応を意に介した様子もなく、ただ静かに蠍の上で揺られていた。意外と神経は図太いのかもしれない。
やがて、街の正門が見えてきた。
高さ10メートルはあろうかという巨大な門は開け放たれ、その両脇にはプレートアーマーに身を固めた門衛兵が二人、ハルバードを手に直立不動で立っている。
問題はここからだ。
TŌRMAとSariraは、他の旅人NPCから距離を取りつつ、門へと近づいた。門衛兵の一人が、すぐに彼らの存在に気づく。兜の隙間から覗く目が、鋭く細められた。
「待て、貴様ら!」
TŌRMAたちが門をくぐろうとする直前、低いがよく通る声で制止された。ハルバードの石突きが、硬い音を立てて地面に突き立てられる。
「この街に何用だ。その禍々しい姿……尋常な者ではあるまい」
門衛兵の言葉には、あからさまな警戒と敵意が籠もっていた。
TŌRMAは立ち止まり、冷静に応対しようと試みる。
「我々は旅の者だ。街で補給と情報収集をしたい。それだけだ」
感情のない、骨が擦れる声。それがかえって相手の警戒心を煽ったのかもしれない。
「旅の者だと? 骸骨の化け物と、巨大な魔物を連れた幽体系の者がか!」
もう一人の門衛兵もハルバードを構え、完全に臨戦態勢に入っている。
「ここは聖なる星火の女神ヴェスタに護られた清浄な街テルミナ・ヴェスタだ。貴様らのような不浄な存在を入れるわけにはいかん!」
不浄な存在。その言葉は、TŌRMAの胸に小さな棘のように突き刺さった。デメリット『情動抑制』が発動するほどの感情の昂りはない。
だが、明確な拒絶の意思は、彼の存在そのものを否定されているようで、じわりと不快感が広がっていく。
「我々は、街に害をなすつもりはない。ただ、規則に従って滞在したいだけだ。プレイヤーが街に入るのを拒む権利が、一介の門衛兵にあるのか?」
TŌRMAはゲームのシステム的な側面から、論理で切り崩そうと試みる。
だが、門衛兵は嘲るように鼻を鳴らした。
「やかましい! プレイヤーだか野盗だか何だろうが、街の風紀を乱す者は、我らが裁量で排除できる! 大体、貴様のようなモンスターが街に入れば、住民が怯え、子供が泣き叫ぶだろうが!」
その通りかもしれない。だが、だからといって、諦めるわけにはいかなかった。
何か、交渉の糸口はないか。透真は思考を巡らせる。賄賂か? 威圧か? それとも、特定のアイテムやクエストが必要なのか?
その時、後方から騒がしい足音が近づいてきた。
「門で何事だ!」
声と共に現れたのは、隊長らしき装飾付きの鎧をまとった騎士と、十数名の武装した守衛たちだった。完全に包囲される形になる。
「隊長! この者たちが、街へ入ろうと……!」
門衛兵が隊長に報告すると、隊長はTŌRMAとSarira、そして星の蠍を値踏みするように一瞥し、険しい表情で言い放った。
「問答無用だ。その者たちを追い払え。抵抗するようなら、力づくで排除しろ!」
「はっ!」
守衛たちが一斉に剣を抜き、じりじりと距離を詰めてくる。
殺気。明確な敵意。
《判定:ダイスロール(D20)/12以上》
TŌRMAは敵の動きと配置を瞬時に分析し、この状況を打開できる可能性を探る。
《結果:5(失敗)》
(ダイスロールの結果は失敗か……ダメだ。数が多すぎる。それに、街の入り口で戦闘になれば、賞金首にでもなりかねない)
戦うのは得策ではない。ここは引くべきだ。
TŌRMAがそう判断した瞬間、隣にいたSariraが静かに口を開いた。
「TŌRMAさん。彼らは、私たちを理解しようとはしないようです」
その声はどこまでも穏やかだったが、瞳の奥には氷のような冷たい光が宿っていた。
「ここは下がりましょう」
「……そうだな」
TŌRMAは短く応じると、ゆっくりと後退を始めた。
守衛たちは、彼らが素直に引き下がるのを見て、それ以上追ってくることはなかった。ただ、侮蔑と勝利の笑みを浮かべながら、彼らが見えなくなるまで監視を続けているだけだった。
門を背に、再び街道を引き返す。
他のプレイヤーたちの囁き声が聞こえてくる。
「ほら、やっぱり追い返された」
「当たり前だろ、あんなナリで街に入れるわけないじゃん」
「異業種だからだな。骸骨ってデメリット盛りすぎなんだよ」
「あのでっかい蠍はテイムしたのかな?」
『知覚共有』が、それらを律儀に拾い上げてTŌRMAに伝える。
まるで冷たい泥水を浴びせられているような感覚だった。
(これが、この世界の現実か)
綾城透真は、現実世界で孤児として育った。常に周囲との間に見えない壁を感じ、自らも人を遠ざけてきた。感情を押し殺し、論理という鎧で身を固めて生きてきた。
このゲームで、人間ではない『異形』のアバターを選んだのは、そんな自分からの脱却を望んだからかもしれない。人間ではない何者かになれば、人間関係のしがらみから解放されるのではないか、と。
だが、結果はこれだ。
人間ではないというだけで、対話のテーブルにすら着かせてもらえない。理解しようともされず、ただ「不浄」「禍々しい」という記号で分類され、排除される。孤児だったあの時と同じように……
(骸骨のデメリットがここまでだったとは……成長補正は高いが街を利用できないとなると中々困ったものだな)
「TŌRMAさん」
不意に、Sariraが呼びかけた。
TŌRMAが顔を上げると、彼女は星の蠍の上から、まっすぐにTŌRMAの空洞の眼窩を見つめていた。
「街に入れなかったのは、残念です。でも、道は一つではありません」
彼女はそう言うと、森の、街道とは違う方向を指さした。
「あの街には、表の門だけではなく、裏へ通じる道もあるはずです。星々が、そう囁いています。あるいは、私たちのような者だけが通れる道が」
その言葉には、不思議な説得力があった。
TŌRMAは、Sariraが指さす暗い森の奥を見つめる。
そうだ、と彼は思った。
表から拒絶されたのなら、裏道を探せばいい。
光が当たる道を歩けないのなら、闇の中を進めばいい。
元より、自分は墓所から始まった存在だ。表の世界が似合わないことなど、最初から織り込み済みだったはずだ。
先ほどまで感じていた暗澹たる気持ちが、冷たい決意へと変わっていくのを感じた。
(正面から入れないからと勝手に諦めていた。Sariraの言ううように裏から入る手もあれば街などの施設を利用しなくても異業種用のメリットがどこかにあるかもしれない)
「……ああ、そうだな」
TŌRMAは、骨の顎を微かに動かし、同意した。
こう言う時はソロプレイじゃない事のありがたみを感じる。
「探そう。俺たちだけの道を」
二人は、活気あふれる街に背を向け、再び薄暗い森の中へと足を踏み入れていく。




