第23話 推しの元アイドルと感謝
放課後になっても浮安は座ったままでいた。
いつもは一目散に帰る用意を済まして教室を出て行くが今日は違う。これから、流奈と話す約束をしているのだ。
「お、帰らねえの?」
「ちょっと約束してるんだ」
声を掛けてきた好太郎に答えて視線を流奈の方に向ける。流奈は本を読んでいて、こちらに来る気配がない。誰かいると話しにくい内容だし、みんなが帰るのを待っているのだろう。
「ああ、なるほどな。じゃ、お先に」
察したように頷いた好太郎は教室を出て行った。
それから、一人、また一人と教室から出て行き、十分ほどで浮安と流奈の二人だけが残る状況になった。
全員がいなくなったことを確認して浮安は話し掛けに行こうと席を立つ。と同時に椅子を引く音が重なった。もちろん、音の出どころは流奈だ。流奈もこっちに来ようとしてくれたらしく、席を立っている。
ここは自分から行くべきなのか。
それとも、流奈の厚意を優先すべきなのか。
二つに一つだというのに判断を下すのが難しい。
「このままじゃ話せないじゃない。どうするのよ」
「あ、俺がそっちに行くよ。だから、るーなちゃんは座ってて」
「そっ。じゃ、遠慮なく」
座り直した流奈の元へ足を運ぶ。
「そこ、座りなさいよ」
そう言われたので流奈の隣の席の椅子を拝借し腰を下ろした。流奈と隣り合う形だ。まだ席替えは行われていないがもしも流奈の隣になることがあればこういうものらしい。何ていうか、凄く幸せな気持ちになる。
「それで、浮安の聞きたいことって?」
「そうだった」
流奈の隣に座れて喜んでいる場合じゃなかった。
「その、るーなちゃんは知ってたの? サインしたCDが売られてるって」
「この前、元マネージャーから教えられたのよ。藍土流奈のファンの人がサイン付きCDをフリマアプリで購入したってSNSで呟いてるって。写真付きでね。私、CDにサインしたことなんてほとんどないから出品者が誰だかすぐに分かったわ」
「るーなちゃんは名探偵だね」
「簡単なことよ。CDにサインしてほしいって来た二人とも私のことるーなちゃんって呼ばないでしょ」
浮安が呼んでいるように流奈のファンは流奈のことを『るーなちゃん』と呼ぶ。それは、常識中の常識だ。
でも、CDにサインを求めてきた二人だけでなくクラスメイトも含めて誰もそう呼ばない。それが、判断材料になったらしい。
「じゃあ、今日は最初から全て分かっててサインしたの?」
「まさか。あの二人がどういう関係かなんて知らなかったもの。怪しかったけど、断るまでにはならなかったわ……なのに!」
「な、何……?」
ついさっきまでそんなことがなかったのにいきなり流奈が睨むように見てきて浮安はたじろいだ。
「何、じゃないでしょ。血相変えて教室飛び出したりして」
「あれは、急にお腹が痛くなったからで」
「全部、見てたから嘘は通じないわよ」
ということは、浮安が教室を出た後にすぐ流奈も追い掛けてきたということだろう。
「……やめさせたかったんだ」
「浮安がすることじゃないわよ。浮安も知ってたから私に誰にもサインするなって言ったんでしょ?」
「たまたま聞いたんだ。るーなちゃんのサイン付きCDで金儲けしようって話してるのを」
「それなのに、浮安の話をちゃんと聞かなかった。私がいいように利用されたって自業自得よ」
「ちゃんと上手に言えてたらるーなちゃんも考えてくれたかもしれない。でも、俺の説明が下手なせいでるーなちゃんにちゃんと教えられなかった」
「だからって、サインをするって決めたのは私なんだから浮安があんなことする必要はないの」
「るーなちゃんが利用されるって知ってるのに黙ってなんていられないよ」
「……何よ、それ。私のためだっていうの?」
「違うよ。そんなこと言ってない」
誰のためでもなく、浮安が勝手にしたことだ。
大好きな流奈を貶され、我慢出来なかった。
ただ、それだけのこと。
けど、本当にそうだろうか、と改めて自分に問えば迷ってしまう。
応援してくれているファンに応えるためにしたサイン。それを、いいように利用されていると知れば流奈が悲しむかもしれない。
だから、流奈が悲しむ前にやめさせたい。
そう考えたことが一度でもなかったかと聞かれれば首を横に振らざるをえない。
心のどこかでは流奈のために、と思っていた。
「言ってるじゃない!」
大声を出した流奈に心の内を見抜かれたのだと察した。
「私が傷付かないように、とか思ったんでしょ?」
「……それは、うん」
「この際だから、はっきり言うわよ。浮安のやってることはいい迷惑なのよ」
「めい、わく……」
「そうよ。迷惑なの。私がいつ浮安にどうにかしてってお願いした?」
「……されてない」
「分かってるなら勝手なことしないでよ。私なら大丈夫なんだから」
本人からそう言われてしまえば何も言えなくなってしまう。
「……俺は嫌だよ。大好きな人が蔑ろにされたままなのは」
「それじゃあ、聞くけどね。私のこと歌が下手だって言う人が何人も現れたら一人ずつどうにかしていくつもりなの?」
「考えが変わるまでるーなちゃんの歌を何回も聴かせて――」
「やめてって言ってるでしょっ!」
遮るように流奈の口から出たのは心の叫びみたいなもので浮安は息を飲んだ。
「……どうして。どうして、そこまでしようとするのよ。私、浮安に酷いこといっぱいしたでしょ」
「そんなこと一回もないよ」
「してるのよ。されてるって気付きなさいよ。それで、早く私のこと嫌いになって推し変してよ。そしたら、もう……あんな無茶しなくなるでしょ」
確かに、浮安が流奈のことを推していなかったら今回のことも何もしなかっただろう。
推しが流奈とは違うアイドルだったら。
子役時代の流奈を知ることもなかったら。
そんなことを考えればキリがないがとにかく流奈が推しじゃなければクラスに元アイドルの女の子がいても興味を示さなかった。
でも、そんなことを考えても意味がないことは分かっている。
浮安は出会ってしまったのだ。
ファンになって推してしまっているのだから。
藍土流奈という元アイドルの女の子を。
「るーなちゃんのこと嫌いになんてなれないよ……何をされたってね」
「……何でよっ。藍土流奈の何がそうさせるのよ」
「るーなちゃんの全てが、だよ。俺はるーなちゃんの存在に助けられたんだから」
「……はあ? 意味の分からないこと言わないで」
「本当だよ」
怪訝そうな顔をする流奈に浮安は流奈の存在がどれだけ大きいのか話すことにした。
「俺の父親って転勤族でね、昔から転校続きだったんだ。どこに行ってもどうせすぐに転校するだろうからって友達を増やそうともしなかった。別に、短い期間だけでもいいから友達を増やせばいい、ってだけの話なんだけどね、俺はそうしなかった。別れが悲しくなると思って」
今ではもう、顔も名前も思い出せないのに初めて転校することが決まった時、それまで仲良くしていた友達にすごく泣かれたことがあった。浮安ももう遊べなくなるのが嫌で泣いたことだけは未だに覚えている。
それからだ。どこに行っても友達を増やそうともしなかったのは。相手が悲しんでくれるかも分からないのにそうしなかったのは、何よりも自分が悲しくなるのが嫌だったからだ。
「転校が繰り返しになることを申し訳なく思ったのか欲しい物はだいたい買ってもらえたし、ゲームしていれば友達がいなくても平気だった……んだけどね、心のどこかで退屈を感じてたんだ」
流行りのゲームの話題が出ても浮安は聞いているだけで参加しない。そう攻略したか、とか。何を捕まえた、とか。どれだけ育てたか、とか。浮安だって遊んでいるのに話には参加しない。
正確には、輪に入って仲良くなってまた離れてしまうのが嫌だった。それなら、どれだけつまらなくても混じらずに一人で遊んでいる方がマシだった。時間が経つなら何でもよかったのだ。
「そんな時だよ、るーなちゃんに出会ったのは。るーなちゃんにどハマりしてからは、退屈な時間が嘘のように楽しくなった。るーなちゃんの歌を聴いたり、るーなちゃんのダンスを見たり」
「……それ、私は何もしてないじゃない」
「してくれてるよ。俺はるーなちゃんが存在してくれたっていうだけで人生を変えられた。毎日、楽しいって生きがいを持って過ごしてこれたんだ」
「だから、私のことは嫌いにならないって?」
頷いて答える。
「だったら、私の言うことも聞いてよ……」
「る、るーなちゃんっ!?」
突然、流奈の目から涙が溢れた。
「藍土流奈のこと、ずっと推したらいい。もう推し変するようにも言わない。けど、もう私は浮安が好きな元アイドルの藍土流奈じゃないの。ただの藍土流奈なの。それを、ちゃんと分かって。藍土流奈っていう一人の人間をちゃんと見てよ……私にアイドルだった頃の藍土流奈を重ねないでよ……お願いだから」
肩に手を置かれ流奈から言われる。流奈の目からは溢れる涙は一向に止まる気配がない。浮安の頭は大好きな推しを泣かせてしまったことでいっぱいだった。
――るーなちゃんを泣かすなんて俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。
心のどこかでアイドルだった時のことを前向きな気持ちで受け入れることが出来れば流奈がまたアイドル活動を再開してくれるかもしれないと考えていた。いや、考えていたんじゃない。望んでいた。期待していた。
でも、それはもう叶わないことだ。
流奈はもうアイドルじゃない。アイドルだったことを過去のことにして、藍土流奈という一人の人間として今を生きている。もうアイドルの藍土流奈とは別れを済ませている。
いつまでも別れられていないのは浮安だけだ。
流奈のことを「るーなちゃん」としか見ず、流奈のことを「るーなちゃん」として関わってきた。もう「るーなちゃん」は存在しないというのに。
結局、現実をいつまでも受け入れられず、理想を流奈に押し続けて泣かせてしまった。本当に馬鹿だと思うばかりだ。
「ごめ……本当にごめん。るーなちゃんにるーなちゃんを重ねて……るーなちゃんを傷付けた」
浮安が期待していたことは大好きな女の子を泣かせてまで実現してほしいことじゃない。
そのことに流奈が泣くまで気付けなかった。
「ちゃんとるーなちゃんのこと元アイドルだった藍土流奈じゃなくて、藍土流奈っていう一人の女の子として見るよ……だから、お願い。泣き止んでくれる?」
「……口だけじゃないでしょうね」
「……時間は掛かると思う。けど、ちゃんと気を付ける」
「今すぐにじゃないところが浮安らしいわ……ったく。ちょっとあっち向いてなさいよ」
泣いているところをジロジロ見るのも失礼になると流奈から視線を逸らす。視界の端で流奈が手を動かしているのを捉えた。涙を拭っているのだろう。
「はー……すっきりした。もういいわよ」
声を掛けられたので流奈の方を向く。
「って、どうして今度は浮安が泣いてるのよ!?」
「……いや、女の子を泣かせた自分が許せなくて」
というのは建前だ。本当は違う。
本当は「るーなちゃん」と別れることを意識して目から涙が出ている。
ただ、流奈の手前、本音を漏らせば流奈に変な罪悪感みたいなものを植え付けてしまうかもしれないと嘘を付いた。
「浮安のせいじゃないから泣き止みなさい。男子のくせに泣きすぎよ」
「それは、差別だよぉ……」
大好きな人とのお別れなのだ。泣かない方がおかしい。
流奈のことを「るーなちゃん」ではなく、これからはちゃんと藍土流奈として見る。もう「るーなちゃん」とはお別れだ。
流奈が芸能界を引退した時、ちゃんとさようならをしていれば二度もお別れをすることにはならなかったかもしれない。辛い。
それでも、ほんの短い間でも、こうして「るーなちゃん」にまた出会えただけで幸せだった。感謝しかない。
だから、今度はちゃんとさようならを伝える。
流奈と話したことや出掛けたこと。楽しかったことを思い返せば別れが余計に辛くなる。
けれど、ちゃんと決めたのだ。
制服の袖で浮安は目元を拭い、涙を拭き取った。
「ありがとう」
「何がよ?」
不思議そうに顔をしかめた流奈に浮安は笑顔を浮かべた。伝わらなくていい。これは、藍土流奈である彼女にではなく「るーなちゃん」へ向けた感謝の気持ちなのだから。
――ありがとう、るーなちゃん。ずっと大好きだよ。