第20話 推しの元アイドルとサインの行方⑤
「――それで、何があったんだ?」
浮安は一緒に連れられた男子三人と生徒指導室で先生から事情を聞かれていた。
「コイツが急に財布を奪ってきたんすよ」
「そうなのか?」
「……はい」
事実であるため、頷くしかない。
「そうか。それは、いけないな。人の物を勝手に取るのはダメだ。犯罪だ。高校生にもなってこんなこと言うの先生は悲しいよ」
そんなこと、言われずとも理解している。
ただ、間違ったことも言われていないので反省しているように俯きながら聞いておく。
「それで、財布を取られそうになったから手を出したと?」
「そっす。凄い形相で奪おうとしてきたんで抵抗しました。自分の物を守ろうとした正当防衛っすよ」
「そうか……手を出したことも問題なんだが今回は事情が事情だからな……」
腕を組んで先生が唸っている。どう注意するべきか悩んでいるのだろう。悪いのは先に財布を取った浮安だ。彼の場合、好き勝手に自分が被害者だと言い張れる。
そして、それが事実だからこそ、浮安は何も言い出せないでいた。
彼が転売行為をしている、と言ったところでどこからその話が流奈に伝わるかも分からない。流奈の耳に届くようなことは徹底的に排除する。自分が悪者になってそれを成せるなら安いものだ。
「一応、言っておくが……次からは手を出すなよ」
「はい!」
「じゃあ、もう。行っていいぞ」
「失礼しましたー」
三人はぞろぞろと生徒指導室を出ていった。教室に戻って授業に出るのだろう。被害者のような面をして何事もなかったように。あまりの理不尽さに奥歯を噛む。
「推野も反省してるのか?」
「……はい」
「そうか……何か事情があったのか?」
「……いえ」
「本当か? どうにも俺にはいきなり推野が理由もなく人の財布を取るような生徒には思えないんだけどなあ……金銭トラブルにでも巻き込まれたりしてないか?」
「……いえ、本当に大丈夫ですから。今回は全面的に俺が悪いんです」
この先生は担任ではなく授業の時に接するだけの学年主任だがよく見てくれていると感じて嬉しくなった。
それでも、理由を話す気はなく、黙っておく。
「分かった……まあ、人には言えない事情だってあるだろう。でも、もう一度、言っておくが人の物を取るのは犯罪になる。二度としてはいけないよ」
「はい」
「何か困ったことがあれば先生に言いなさい。先生はお前の味方だからな」
「分かりました」
「よし。じゃあ、推野も教室に戻っていいぞ。あ、ちゃんと保健室に寄って頬の傷を見てもらってからな」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げて生徒指導室を出る。
大して怒られることもなくてラッキーだった。甘いような気もするがこういう時、普段から悪目立ちするようなことをしていなくてよかったと思う。
一息ついてから浮安は保健室を目指した。血の味はしなくなったが未だに殴られた頬が痛む。よく考えれば今まで殴られる経験なんてしたことがなかった。
こんなにも痛むんだな、と頬を擦りながら着いた保健室で先生から冷やしたタオルを貰って殴られた箇所に押し当てておく。
ひんやりとした冷たい感触に痛みも少しだけ和らげば湿布を貼ってもらい、教室に戻る頃には授業も終わって昼休みになっていた。
あまり食欲はないが母親の陽花里が早起きして弁当を作ってくれているのだ。何も食べずに残して帰るようなことは悪くて出来ない。
手を合わせて弁当を食べ始める。
「いてて……」
米を口に含めば米粒が傷口に当たって痛い。
けど、味は何も変わらず美味しい。こういう時、母親が作る弁当というのは不思議だ。気分が落ち込んでいても食べていれば自然と元気が出てくるような気がするのだから。
「おーい。その傷、どうしたんだよ」
弁当を食べていればパンをかじった好太郎が空席になっている前の席に腰を下ろした。
騒ぎを起こしている間、廊下にはそれなりの生徒がいたがこのクラスからは離れていたからかまだ騒ぎが広がっていないようだ。
それも、いつまで続くかは時間の問題だが流奈の耳に入るまでは自分から言う必要もない。
「派手にすっ転んだんだ」
「どんな転び方したんだよ」
「それはもう盛大に」
「だっせー。ははは」
「うるさいよ」
好太郎には笑われてしまったが上手いこと内緒に出来たようだ。これで、さっきのことが噂になったりしなければ浮安は転んで怪我をしただけになる。ただの鈍臭い奴の完成だ。
「まあ、でも、すっ転んだわりにはその程度で済んでよかったな」
「廊下で足を滑らせただけだから。運がよかった」
「よく足を滑らせるよな。この前も教室で滑って頭ぶつけてなかったっけ?」
「あの時は掃除終わりで床が滑りやすくなってたから」
「それで、気絶だろ。その後のことは帰ったから知らんけど、マジで気を付けろよ〜」
「善処するよ……ごちそうさまでした」
痛いのを我慢して完食した。食欲はなくてもこうして完食してしまうのだから、やはり母親の手作り弁当というのには不思議な力があると思う。手を合わせて陽花里に感謝し終えると席を立った。
「ん、どっか行くのか?」
「ちょっとね」
「ああ、なるほどね」
流奈の方を見ていたからか好太郎も理解したようだ。何も言われなかったので、そのまま流奈の元へ向かう。
コンビニで買ったようなおにぎりやサラダを食べている流奈に後ろから声を掛けた。
「あの、るーなちゃん」
「……何よ」
かなり声が小さくなってしまったが、流奈の耳にはちゃんと届いたようだ。目は合わせてくれないが一応、こっちに振り返ってくれた。
「……その傷、どうしたのよ」
「ちょっと転んじゃって」
「ふーん。鈍臭いんだから。気を付けなさいよ」
「うん」
こんな状況でも心配してくれる流奈に心が温まる。
「それで、何か用なの?」
「うん。るーなちゃんのサインのことなんだけど」
「やっぱり、欲しいって? 言ったわよね。今後一切、浮安にはサインしないって」
きっぱりと言い切られてしまうが今はそんな話をしたい訳じゃない。もう流奈に誰にもサインしないでほしいと伝えなければいけない。
しかし、どう伝えればいいのかここまで来て考えていなかった。
頭の中で慎重に言葉を選んで並べているとチラチラと流奈が視線を向けてきたり、逸らしたりしてくる。
「まあ、私も鬼じゃないし。どうしても欲しいって言うなら考え直してあげてもいいわ。ていうか、遅いのよ……こっちは声を掛けやすいように準備してたってのに」
最後の方は声が小さくてよく聞こえなかったがやはり流奈は優しい。あれだけ今後一切と言っていたのに考えを改めてもいいと言ってくれている。
改めて、こんなにも優しい流奈を利用してお金を稼ごうと企てている彼らに怒りが湧いてくる。
「ありがとう、るーなちゃん……でも、ごめん。るーなちゃんに声を掛けたのは別のことでなんだ」
「別のことって何よ」
「これからはサインを欲しがられても誰にもしないでほしいんだ」
「いきなり何を言ってるのよ」
「事情は話せないけど、考えてほしい」
不審がられず聞いてもらうには包み隠すことなく話した方が流奈も耳を傾けてくれるだろう。
でも、そうすることで流奈を傷付けてしまう可能性もある。怪しむように流奈が目を細めて見てくるけど話したりはしない。
「ちゃんと理由を話してよ」
「言えない」
「理由は言えないのに誰にもサインをしないでほしいって……自分勝手ね」
そう言われるのは予想の範疇だ。
「もしかして、自分だけサインが貰えないからって妬んで誰にもサインをするなって言ってるわけ?」
「違うよ」
「ふーん……でも、浮安の言うことは聞いてあげない。理由を話してくれるなら考えてあげる。でも、内緒にしたままなら考えるまでもないから」
「……そっか。そうだよね」
「だいたい、私が誰にサインしようと私の勝手でしょ?」
そう言われてしまっては何も言えなくなる。
それに、あまりしつこく言っても逆に怪しまれるかもしれない。引き際は見極めないといけない。
「そうだね……るーなちゃんの言う通りだよ。ごめんね、食事の邪魔して。じゃあ」
何も力になれなかった自分が情けなくなりながら浮安は席に戻った。
「久し振りに藍土と話せたっていうのに何で落ち込んでんだよ」
「色々あるんだ……はあ」
適当に好太郎に返事をして浮安は頭を抱えた。
それから、数日後のことだ。
流奈のサインでお金を稼ごうとしている三人組の内の一人がやって来たのは。
「藍土さんのファンです! サインください!」
昼休みの教室に大きな声が響いた。