第2話 推しの元アイドルと決められた予定
浮安は夢を見ていた。
これは、初めて流奈を目にした時の光景だ。
浮安が初めて流奈を目にしたのは流奈が子役からアイドルへと転身するきっかけになった、歌の才能に満ち溢れた女子高生がアイドルを目指す、という内容のドラマだ。
当時の浮安はこのドラマを毎週楽しみにして見ていた訳じゃない。楽しみにしていたのは浮安の母親である陽花里だ。
流奈が初めて登場した第三話を陽花里が見ていた隣で浮安はゲームをしていた。大人気のキャラクターがアイテムを拾いながら車でレースするゲーム。
当然、よそ見は厳禁。食い入るように画面を見てドラマよりもゲームに集中していた。
「あら、この子とっても歌が上手ね。へ〜浮安と同い年なんだ。凄いね〜」
普段なら、気にもしない陽花里の呟きだ。
でも、今回だけは違った。同い年という、小学五年生でドラマに出ている子がどんな子なのか気になった。
ほんの一瞬だけ見てゲームに戻ろう、と画面からテレビへと視線を移す。
その瞬間だった。
初めて見た流奈に浮安は衝撃を受けた。
数秒前まで流奈の歌を耳障りだとゲームの効果音でかき消していた自分をぶん殴ってやりたいほど、流奈は歌が上手だった。
何よりも小さな体で動き回りながら息を切らさずに歌い切る姿に感動を覚えた。
ドラマの中のワンシーン。
きっと、リテイクを何度も繰り返し、放送出来るレベルに編集して放送されているのだろう。
初めて見るのが成長した今となってはそんなつまらないことを考えてしまい、流奈を見流していたかもしれない。
だから、作品がどうして作られているのか考えもせずに見ていたあの頃に流奈を目にしたことが本当に幸運でただただ夢中になれた。いつの間にか最下位にまで落ちていたゲームなんて何も気にならなかった。
「この子の名前は!?」
「急にどうしたの?」
「いいから教えて!」
「はいはい、ちょっと待ってね……えーっと、藍土流奈ちゃんだって」
「るーなちゃんかあ……」
それからの浮安は何よりも流奈が一番になった。
これまでは友達もろくにおらず、学校から家に帰ってはゲームで遊ぶだけのつまらまい生活だったのががらりと変わった。
流奈が出ているシーンだけを何度も何度も見返したり、アイドルとしてデビューした流奈のシングル曲を耳がタコになっても聴き続けたりした。
そんな日々が何よりも楽しくて、浮安は一人のアイドルに救われたのだ。
「ほんとに流奈ちゃんのことが好きね〜」
「うん!」
からかうように陽花里に言われても気にしない。
流奈のことは大好きであるが、それは、推しとファンとしてのこと。推しなのだ。恋愛のれの字も知らない子供だけど、そういうのとは違って、ラーメンやハンバーグが好きなのと同じ気持ちだと胸を張って言える。
とにかく沼にハマり、どれだけ成長してもずっと流奈が推しでファンであり続ける。
そう思っていた矢先のことだった。
流奈が芸能界を電撃引退したのは。
「るーなちゃん!?」
ライブや握手会に参加したことがあるとはいえ、流奈とあれほど近付いたのが初めてだったからだろうか。
突然、目の前に流奈が姿を現した。
高校生の流奈じゃない。アイドルだった頃の流奈だ。
柔らかく微笑んだまま流奈が後方へと遠ざかっていく。
浮安は手を伸ばして追い掛けた。
「待って……いかないで」
何をどうしたって流奈が芸能界を引退したことは変えられない。
そう痛感していても、どうしても諦め切れない。
流奈にどんな事情があったのかは知らないけど、アイドルを辞めてほしくない。続けてほしい。真のファンとしては推しが決めた選択を受け止めるべきなのだろう。
でも、難しいものは難しいのだ。
「るーなちゃん……るーなちゃん……!」
追い続けていると流奈の体が透明になり始めた。
いや、消失という方が正しいだろう。
つま先から始まった消失は進行を止めることなく続けていき、やがて、頭の先へと辿り着いて流奈が消え去った。
完全なる流奈の消失が芸能界を引退したと発表されたことを再現しているようで「るーなちゃん!」と叫びながら浮安は目を覚ました。
「あ、れ……今の夢? てか、ここどこ?」
さっきまで見ていた光景とは打って変わり、少しも知らない景色が広がっている。居場所もどういう訳かベッドの上だった。頭を強く打ったから意識を失ってしまっていたようだ。
色々と状況を確認したいところだが、一先ずはさっきまで見ていたものが夢であったことに胸を撫でる。
「夢で本当によかった……るーなちゃんが消えたら俺は――」
「――私が何だって?」
「……え?」
まだ夢を見ているのだろうか。
声をした方を見て、浮安はそう思った。
だって、そう思わないとあり得ないことだから。流奈がそこにいることなんて。本当に。
「ようやく起きた――って、何をしてるの?」
「……痛い」
「そりゃ、そうでしょうよ。自分で頬をつねってるんだもん」
「……って、ことは現実? いやいやいや、あり得ないでしょ。るーなちゃんがここにいるなんて。うん、ないない。俺が創り出した幻」
意識を失う前、流奈に対して何も役に立てなかったことを強く後悔した。だからこそ、夢にも流奈が出てきたし、起きてもこうして流奈の幻影を創り出してしまっている。
そうでなければ、この状況の説明が付かない。
そうやって自己完結し、頭を休ませるためにもう一度横になる。
「あ、ちょっと。いい加減、起きなさい。いつまで私を待たせるつもりなの?」
布団を剥ぎ取られた。
「いい? 私はあなたが創り出した幻なんかじゃない。本物。本物の藍土流奈」
「……嘘だ。るーなちゃんがわざわざ俺の寝顔を見てたなんてそんな無駄な時間を過ごすはずがない。何の価値もないのに」
「別に、あなたの寝顔を眺めてた訳じゃないわ。見たいとも思わないもの」
「じゃ、やっぱり、幻想――」
「だーかーら、それも違うって言ってるでしょ」
そう言って伸ばしてきた流奈の手が自らの手に重ねられ、浮安は驚いて飛び起きた。急いで手を引っ込める。ちゃんと流奈の手には触れたのは一瞬だけだったが、実感があった。
「その反応は気になるわね……私の手が汚いみたいで」
「そんな! るーなちゃんの手に汚いところなんてないよ! 例え、油でギットギトになった手で触られても一生、手を洗わないよ!」
「そんな不潔発言、堂々とするもんじゃないわ。汚らしい」
確かにそうだ、と口にしてから気が付いた。
ただでさえ、気持ち悪いオタクだという自覚があるのだから清潔に出来る部分は綺麗に保っておかなければならない。腐臭でもして流奈の気分を悪くしたら最悪だ。
気を付けよう、と気を引き締めたところでやはりこの状況は夢なんじゃないかと思えた。
だって、あの流奈とこうして会話しているのだ。
そもそも、同じ学校に通っていることすら奇跡だというのに、大好きな女の子とこうして言葉を交わし合っている。そう簡単に現実だと信じられない。
けども、これが現実だというのなら今すぐ流奈との楽しい時間を終わらせないといけない。
流奈とはなるべく関わらない。
そう決めているのだから、いつまでも楽しい時間を過ごす訳にはいかないだろう。ずっとこうしていたいし、とても名残惜しいけれど。
「えっと、それで、るーなちゃんはどうしてここに……っていうか、ここは?」
「保健室よ」
「保健室?」
「覚えてない? あなた、頭を床に打って気を失ったのよ」
「それは、覚えてるけど……どうやってここまで」
「クラスの男子が数人で運んだわ。まさか、気を失うなんて誰も思ってなかったんでしょうね。笑えるくらいみんな焦ってた」
「そうなんだ……迷惑なことしたな」
「は? あなた、被害者でしょ? 何を悪く感じてるの? 慰謝料でも請求してやればいいのよ」
「慰謝料って……るーなちゃんは面白いね」
「笑わせようとして言ってるんじゃないわ、本気よ本気。目を見なさい。冗談を言ってるように見える?」
直視するのは気恥ずかしくなるため、そっぽを向いて目線だけを向ける。流奈の目は至って真剣だった。透き通るような紅色の瞳が燃える炎のように見える。綺麗だ。
「本気に見えるでしょ?」
「う、うん」
直視するのは気恥ずかしくなるからそっぽを向いていたはずなのに、気付けば目が惹き付けられていた。
改めて、流奈の容姿がどれほど魅力的かを分からされ、頬が熱くなる。急いで顔を逸らし、自分が置かれた状況を整理した。
流奈の生歌を聞こうと詰め寄ったクラスメイト。
そんな中、引き受けた流奈が嫌そうに見えて割って入ったが、結局、気を失って、保健室に運ばれて寝ていた。
何をしてるんだろう、と呆れたところで肝心なことを思い出した。
「そうだ! 歌!」
「何よ、いきなり大きな声を出して」
「歌だよ、歌。るーなちゃん、歌ったりしなかった?」
「ええ。流石に、あの状況でしつこく言ってくるような空気の読めない人はいないでしょ」
「はあ〜……よかった」
それを聞けて、体から力が抜けていく。
流奈がみんなの前で歌わずに済んだのなら、頭を打って痛い思いをした甲斐があるというもの。こうして流奈と話せているだけで、その甲斐は大いにあったのだが。
「……ねえ、どうしてそこまで私に歌わせたくなかったの? あなた、私のファンでしょ? 黙って聴いていればこんなことにはならなかったじゃない」
訝し気な眼差しで聞いてくる流奈に浮安は衝撃を受けた。
「ど、どうして俺がるーなちゃんのファンだってバレて」
「毎日、私のことを舐め回すように見てたでしょ。あんな視線を送られて気付かないはずないじゃない」
確かに、浮安はただならぬ視線を毎日、流奈へ送っている。どうしても、自然と目が引き寄せられてしまう。
しかし、流奈はずっと読書に夢中で気付いているはずがないのだ。
「それに、私のことるーなちゃんって呼ぶのはファンの証拠でしょ。ファンでもないのに、名前で呼ばれる筋合いないし」
流奈の言う通りだ。
元々が子役だったため、流奈のファンは流奈のことを「るーなちゃん」と呼ぶ。いわゆる、愛称みたいなものだ。
ずっと「るーなちゃん」と誰に対しても流奈の話をする時はそう呼んでいたために、本人相手にも呼んでしまっていた。
つまり、浮安が隠せていると思っていた流奈のファンだということは流奈にはこれっぽっちも隠せていなかったらしい。
「……恥ずかしい」
「あなたの羞恥心なんて、どうでもいいの。で、どうして、歌の邪魔をしたわけ?」
まるで、答えるまで帰さない、とでも言いたげな目からは強い念のようなものが感じられる。
答えなかったからずっとこうしていられるのだろうか、とそんなことを考えながら浮安は答えた。
「なんとなくだけど……るーなちゃんが嫌そうにしてるように見えた気がしたんだ」
あくまでも浮安主観のため、本当のところで流奈がどう思っていたのかは分からない。ライブで何千という客に対して、一人きりで大成功に収めるような流奈だ。たかだか、十数人のクラスメイトを前に歌うことなど流奈にとっては容易いことだろう。
だから、浮安の行動は流奈からすればただの迷惑に過ぎないかもしれない。余計なお世話だったのかもしれない。
流奈の迷惑になっていたのなら、素直に謝る。
そのつもりなのだが――。
「……そう」
流奈は不思議そうに瞬きを繰り返すだけで、どっちだったのか見当がつかない。
「……それだけの理由で、邪魔してくれたんだ?」
「俺が嫌だったんだ。歌う時はいつもるーなちゃんには楽しくいてほしいから」
どうせ歌うなら、目にした誰もが見惚れてしまうような全力でライブを楽しんでいる流奈でいてほしい。
そんな流奈を浮安は見たい。
「……あなた、馬鹿なんじゃないの。歌う時はいつも楽しくって……そんな、しょうもないことで痛い思いするなんて」
どういう訳か流奈の頬がうっすらと赤く染まっていた。居心地悪そうに肩から垂れた髪を指でくるくると巻いて弄っている。
「俺にとっては大事なことだから」
「そ、そう」
「それに、るーなちゃんが歌うにはあんな教室じゃ似合わないってのもあったし」
流奈が歌うとするならそれなりの会場を用意しないといけない。教室の中じゃ流奈が満足のいくパフォーマンスを行えないだろう。
「後、音周りも用意しないとダメだった」
流奈の歌声は聴いた者全てを幸せにしてくれる素晴らしいものだ。
しかし、ライブとなればやはり音楽は必須。
音楽が流奈の歌声に彩りを加えてくれる。
「そもそも、るーなちゃんの歌は神聖で尊いものだから頼めば気軽に聴けるような代物じゃないってことをちっとも分かってないクラスの連中に腹が立ってたんだ」
つまるところ、流奈が歌うにはあの状況は何もかにもが欠けていた。
「あなた、馬鹿なんじゃないの?」
気が付けば、うっすらと赤くなっていた頬は元の真っ白に戻り、冷めた目を流奈は浮かべていた。
「私の歌にそんな価値があるとでも思ってるの?」
「大いにあるよ」
「っ! ないに決まってるでしょ!」
何か怒らせるようなことでもしてしまったのだろうか。苦しい胸の内を叫ぶような流奈に浮安は戸惑い、狼狽えた。
「な、何か流奈ちゃんの気分を損ねることでもしたかな?」
「全部よ、全部。あなたの私への評価が全部気に入らない!」
「ええ?」
間違ったことなど何もなかったはずなのに、流奈をどうして怒らせてしまったのかますます混乱してしまう。
首を傾げてしまえば、流奈が呆れたようにため息を漏らした。
それから、何かを決意したような目でこちらを見てくる。
「明日の放課後、出掛けるわよ。予定を空けておきなさい」
「えっと……何で?」
「決まってるでしょ。アイドルじゃない本当の私を見せて幻滅させるためよ!」
背中まで届く紫紺色の髪を宙に舞わしながら、人差し指を向けて流奈が言い放つ。
「推し変させてやるわ!」
推し変は何があってもすることはない。
が、ひとまず、今は置いておく。
それよりもだ。
「本当のるーなちゃん?」
「そうよ。本当の私はあなたが思ってるような素敵な人じゃない。醜いのよ」
「るーなちゃんに醜いところなんて――」
「あるんだって!」
ムキになった言い方をする流奈も浮安には可愛く見えて、やはり、流奈に醜い部分なんてあるはずがない。
「明日、覚悟しておきなさいよ。ガッカリさせるから!」
「ちょ、るーなちゃん」
一方的に言い残すと流奈は保健室を足早に出て行った。
結局、流奈がどうしてここにいたのかも不明だ。
それに――。
「明日、出掛けるのに賛成してないんだけど」
勿論、流奈と出掛けることが出来るのは物凄く喜ばしい。
ただ、推しは遠くから見守ることを決めているのに破っていいものなのかと躊躇ってしまう。
それに、何よりも不安なのは体が保つかどうか。
今でさえ、なるべく表に出さなかったが流奈とこんなにも話せたことに興奮して鼻息が荒くなりそうだし、心臓はドクドクといつもの三倍は速いし、全身の血が沸騰しているみたいに熱い。
ただ流奈と会話しただけでこの状態だ。
一緒に出掛けるとなると想像も付かないような事態が起こり、どうにかなってしまうかもしれない。
「こんなにも嬉しいと嫌って気持ちが複雑に絡まるの初めてだ」
どうしたものかと考えては、頭がまた痛んだ。