第12話 推しの元アイドルからの差し入れ
――はーあ、勿体ないことしたなあ。
熱を出した翌日、すっかり元気になった浮安は席に着いたままため息を漏らした。
折角、流奈を眺めることが出来る貴重な一日を減らしてしまうなんて不覚だ。流奈を見れば体調なんて良くなるのだから無理をしてでも学校にくるべきだった。
そう思っているのに今は流奈を眺めても元気が出ない。
理由は単純だ。
一昨日、流奈に彼氏が出来たかもしれない。
それが原因でそんな資格もないというのに落ち込んでしまう。
「まーだやつれた顔してるけど大丈夫か?」
元気を失くしていると好太郎が声を掛けてきた。
ただでさえ、明るい性格をしている訳でもないのに気分が沈んでいつもよりも暗くなっているのだろう。
それが、好太郎にはやつれて見えるらしい。
「ああ、うん……おはよ」
「熱出たんだって?」
「そう」
とは言っても、別に大したことはなかった。
流奈のことを考え過ぎてつい頭に血が上ってしまっただけのこと。体温が平常よりも少し高くなったが昨日一日、無理に寝ていれば今朝はすっかり元通り。
流奈が芸能界を引退すると発表した時の方が食事は喉を通らなかったし、睡眠もあまり取ることが出来ずに重症だった。なんてことはない。
「けど、もうすっかり治ったから」
「そんな辛そうな顔で言われてもなあ……ま、何かあればすぐに声掛けろよ。一応、保健委員だから」
「そのなりでっ!?」
「失礼だな、おい!」
「いたっ!」
好太郎の手刀が頭に落ちた。
病み上がりの人間に保健委員としてあるまじき態度である。
まあ、悪いのは人を見た目で判断した自分だと分かっているので文句は言わないでおくが。
「それにしても、意外だね」
「まだ言うか……ま、こんな見た目してるから分からんでもねえけどな」
派手で目立つ金色の頭をしている好太郎が保健委員というのは見た目と合っていない。いかにも、委員会とか入る気がないとでも言いたそうなのに、とまた失礼なことを思ってしまう。
「保健委員って頼りにされること多そうだろ」
「まあ、他の委員会と比べたら多そうだけど……仕事が増えるのって面倒じゃない?」
「ぜーんぜん。その分、頼られて人気者になれるかもしれないじゃん」
「なるほど。それが狙いか」
友達が欲しいらしい好太郎は保健委員になって頼られれば自然と周囲に人が寄ってくれるとでも考えたのだろう。
「それもあるけど、普通にクラスの役に立ちたかったしな」
「……偉いね」
素直に感心してしまった。
委員会を決める時、面倒で何もやりたくなかった浮安はひたすら目立たないことに徹していた。
誰かがやってくれたら助かる。
誰かさんありがとう。
心の中でそう感謝しながら自分には関係のないことだと決めつけていた。
そんな自分と比べたら好太郎はなんと素晴らしい模範的な生徒なのだろう。恥ずかしくなってきた。
「そういうことだから遠慮なく頼れよ」
そう言って好太郎は自分の席へと戻っていく。
そんな好太郎と入れ替わるように流奈がやって来た。手にはビニール袋が握られている。
「おはよ。昨日は熱が出たんですって?」
「おはよう……うん、でも、もうこの通り完治したから……」
おかしい。
いつもなら、流奈に声を掛けられただけで舞い上がりそうになるくらい嬉しくなるのに、今は流奈を見ることが辛いと感じる。
「……ふーん。そのわりにはしんどそうに見えるけどね」
「るーなちゃんにもそう見えるんだ……じゃあ、まだ本調子には戻ってないのかも」
「かもしれないわね。……んんっ。しょうがないからこれあげるわ」
ぶっきらぼうに流奈がビニール袋を差し出してきた。そっぽを向いていて、少しだけ照れくさそうである。
突然のことに浮安は戸惑ってしまった。
「えーっと……」
「いいから。早く受け取りなさいよ。重いのよ」
「う、うん」
伸ばした流奈の細い腕がぷるぷると震えているのを見て袋の中身がそれなりの重量があると察する。
急いで受け取って中身を確認すればスポーツドリンクが五本も入っていた。
「熱が出た時にはスポーツドリンクが一番でしょ。それ飲んで早く治しなさい」
「あ、ありがとう」
すっかり平温に戻っているとはいえ、流奈からの贈り物には嬉しくならないはずがない、はずなのにどうにも心から喜べない。
そんな自分に何よりも嫌悪感を抱く。
「えっと……わざわざ買ってきてくれたの?」
「そうよ。感謝してよね」
「あ、ありがとう……」
得意気になって胸を張る流奈に思わず苦笑してしまう。
わざわざ自分のことを考えて買ってきてくれた。
推しが自分のためにそんなことをしてくれるなんて感極まる出来事だ。
「……ねえ、本当に大丈夫なの?」
「俺は大丈夫だと思ってるけど……どうなんだろ」
「私からしたらおかしいわよ」
「そうなんだ……」
流奈に恋人が出来るのが嫌だと思っている。
正確には、流奈にはみんなの藍土流奈でいてほしいと思っている。
もうアイドルをやめて自由の身になった流奈にそんな思うことすら失礼なことを悶々と思い続けていることを上手に隠しているつもりだが、態度に出ているのだろうか。
「そうよ。私からのプレゼントなのにちっとも嬉しそうにしない。いつもの浮安なら泣いて喜ぶくらいするでしょ?」
「るーなちゃんの中で俺ってそんな風に思われてるの?」
「自分の行動を思い返しなさい」
「うっ……それを言われると何も言い返せない」
これまで、何度も流奈の前で情けないことに嬉し泣きをしているのだ。流奈からそう思われても仕方ないだろう。
「……やっぱり、私に怒ってる?」
「え、な、なんで!?」
「一昨日、私が告白されるかもって話になった時に浮安が藍土流奈を好きなのを知ってるのに嫌がらせの度が過ぎてたかもしれないなと思ったのよ……」
落ち込んだように声を小さくする流奈に浮安は力強く否定した。
「そんなことないよ! 俺がるーなちゃんに怒ってるとかないから!」
「……ほんと?」
少しばかり不安なのか流奈の瞳が揺れているのを見て深く頷く。
いち早く流奈を安心させる義務がある。
それには、浮安が思っていることを流奈に包み隠さず話さないといけないが……どうしても、躊躇ってしまう。
浮安の心を占めているのはいわば独占欲だ。
推しがファンへと抱いてはならない気持ちだ。
それを流奈に暴露して、流奈に気味悪がられたりしないだろうか。
そんな不安が脳裏によぎる。
でも、と浮安は気付いた。
そんなもの気にしたところで今更なことだ。
何度も流奈の前で、おおよそ普通とは思えないようなことをしている。
不安になる必要すらないだろう。
それに、今は自分のことよりも流奈のことが最優先だ。自分はどうなったっていい。
「……その、ずっと気になってるんだ。るーなちゃんに彼氏が出来たのかなって。俺にはそんなことを思う権利も何もないのに、もしるーなちゃんに恋人がいれば嫌だなって……ごめんね。俺の身勝手な気持ちで勘違いさせて」
つつがなく晒して頭を下げる。
すると、肩に手を置かれて顔を上げた。
「ほんとにね!」
食い入るように顔を近付けてきた流奈が綺麗な紅色の瞳がこれでもかと主張されるぐらいに目を見開きながら言ってきた。
かなり近い距離にまで流奈と近付いたことに頬が熱くなるのを感じる。再熱しそうだ。
これ以上、学校を休んで流奈と会える貴重な日を減らす訳にはいかないので可能な限り顔を遠ざけておく。
「急に熱を出して休んだり、この私からの贈り物に喜ばないしで機嫌が悪いのかと思っちゃったじゃない。紛らわしいのよ」
「……でも、るーなちゃんにとってはその方が都合が良かったんじゃ?」
「なんでよ」
「だって、万が一にもない話だけど俺がるーなちゃんに対して嫌な気持ちになれば推し変させようとしてるるーなちゃんにとっては願ったり叶ったりだったでしょ。るーなちゃんが気にすることじゃないんじゃ」
「べ、別に。気になんてしてないわよ」
離れていった流奈が腕を組んで顔を背けたので浮安は静かに安堵の息をついた。まだ心臓がドクドク鳴っているのを感じる。
「ていうか、なに? 私に恋人が出来るのがそんなに嫌なの?」
「図々しくもそう、みたい」
「ふーん。ふーーん。そう。そうなんだ。ふ〜ん」
「推しの幸せを願うのがファンとしての務めなはずなのにファン失格だよ……厄介なファンでごめん」
テレビでアイドルや女優の熱愛報道が流れる度に祝福派と否定派が現れる。祝福派はめでたい報道に喜び、否定派はめでたい報道に攻撃する。
そんな様子を眺めながら浮安は流奈にそんなことがあれば祝福派になって精一杯お祝いしよう、と決めていた。熱愛中だったとしても、流奈が流奈であることには変わらない。変わらず応援し続けるのが真のファンであるのだと考えていた。
なのに、いざその場面に出会しそうになると感情が追い付いてこない。
むしろ、嫌だと認めようとしない。ファン失格である。
「今更、なに言ってるのよ。浮安が厄介なファンなんてずっとでしょ」
「そうなんだけど……今回、はっきりと自覚したというか」
「遅いのよ、気付くのが。私にとってはずっとなんだから」
「……はい」
「それに、どうせ自覚したところで推し変してくれないんでしょ?」
「それは、もちろん」
「だったら、別に藍土流奈の幸せなんて願えない時は願わなくていいわ。私が浮安を推し変してあげるから、藍土流奈の幸せを願うのはそれからでいいんじゃない。私もそれまでは誰とも付き合うつもりなんてないし」
「え?」
さらっと流奈が凄いことを言った気がする。
「気になってるんでしょ? 私に恋人がいるのかいないのか。さっき言った通りだから」
「え、じゃ、じゃあ、一昨日の呼び出しは――」
「予想通り告白だったけど、断ったわ。名前も知らないのにそんな人となんて付き合えないでしょ」
「でも、恋愛したかったんじゃ」
「憧れがあるのはあるわ。でも、相手は選ぶわよ」
その通りだと聞きながら浮安は納得した。
どれだけ相手に好かれていようとも自分にその気がないのなら付き合ったりはしない。
付き合ってから好きになる、というパターンもあるだろうから否定はしないがどちらかといえば浮安は違うというだけのこと。そもそも、告白されることなんてない話だが。
でも、流奈の言い分は自分もそうであるからこそ親近感を抱いた。
「ていうか、一昨日のは浮安に藍土流奈に恋人がいればショックで推し変するかもと思ってやっただけのことだから」
流奈の狙い通り、かなり傷付けられた。
けど、流奈に今現在、特定の相手がいないことが分かって浮安は全く気にならない。
「そっかー。そっかあ〜」
「うわっ。急にめっちゃ笑顔になった。ニコニコし過ぎでしょ」
「ドリンク、ありがとう。大事に飲むね」
「さっきと態度が違い過ぎなんですけど。ほんっと分かりやすいわね」
呆れるように流奈が細めた眼差しを向けてくる。
「すっかり元気なようだし返してもらおうかしら」
「えっ……」
「冗談よ冗談。今のは浮安の推しが他人に一度贈った物を返してもらおうとする子だって思わせたかっただけ。本気で返してもらおうとなんて思ってないわよ」
流奈から貰った物は浮安にとっては宝物なのだ。コーヒーもスポーツドリンクも飲めば失くなってしまうのがとても惜しいと感じるほど、大事に思っている。
そんな宝物を返すようなことにならなくて心の底から安堵した。
「それにしても、ドリンク位で大袈裟ね」
「大袈裟じゃないよ。るーなちゃんがわざわざ買ってきてくれたドリンクなんだ。命に代えても誰にも渡さない」
「いちいち重たいのよ。だいたい、元気になってもらおうと買ってきたのに死守してたら台無しじゃない」
「それくらい、貴重ってことだよ」
「あっそ。ま、死守するようなことが起こる前に飲み切りなさい」
「そうする。るーなちゃんから貰ったドリンクなんてみんなが知れば取り合いの戦争になるからね」
どこの誰にもこの宝物を譲りたくなくて、カバンの奥の方にしまってファスナーで隠す。
今日はもう四六時中カバンから離れない。
「ほんと、馬鹿なんだから。ばーか」
カバンを守るように胸に抱いて周囲を警戒していると流奈がほんの少し口角を上げて口にした。
今の姿がよほど間抜けに映ったのだろうか。
必死なだけなんだけど、と思いつつ流奈の笑顔に浮安はようやく元気が出たのを感じた。